♨️黒川温泉に学ぼう(黒川温泉シリーズ第2回目)

                       〈新明館内フロント周辺〉

   〝黒川温泉にご案内します〟の続編になります。前回の投稿の最後の方で黒川温泉の現状の問題点を大きく二つ申し上げました。〝景観〟の問題と〝接遇〟の問題です。わずか2泊3日の旅だったので正確な現状把握に基づいての対策案提起には無理があるでしょう。それでも無理を承知で一旅行者の意見の延長ということで申し上げます。
   この熊本県北部に位置する黒川温泉が、無名の温泉地から一躍日本のメジャーな温泉地に生まれ変わったのは、優れた景観を持つ温泉地へと一変させたからです。特別黒川温泉の回りの風景が景勝地として恵まれていたわけではありません。正直なところ日本のどこにでもあるごく平凡なところといえます。それを新明館のオーナー、後藤哲也さんが〝黒川温泉を変える〟という信念を持ち続け、人生の大半を黒川温泉の再生に捧げ、再生の中心的役割を果たしながら黒川温泉旅館組合の人たちとともにその風景をつくりかえていった。そのプロセスは本当に他の観光地の模範となるものです。そういう高いレベルにありますが、更に上を目指してほしい。世界の観光地に伍していくために、当面の目標としてミシュラン・グリーンガイドでの星数を3つにするために、引き続き努力してほしい。そこで大変おこがましいのですが私なりの施策を述べます。レベル差はありますが、大きく4つの項目に整理しました。

 

黒川温泉を世界ブランドの観光地へ

 

1.これまでの景観対策を踏襲し、更にそれを徹底する

   さて、それでは順番で説明していきましょう。最初に「これまでの景観対策を踏襲し、更にそれを徹底する」です。私は日本の観光地がインターナショナルで伍していくためには、景観を中心に〝日本らしさ〟をより徹底することだと思います。現状の日本の温泉地は、収容人数を向上させるためにマンションのような箱型ビルにしてしまっているところが多くあります。これでは〝日本らしさ〟を打ちだすことが極めて難しい。従って日本の温泉地の多くは〝日本らしさ〟を打ち出せず、ミシュラン・グリーンガイドでも名前さえ紹介されていないところがほとんどです。その点、黒川温泉は後藤哲也さんがそのことに早くから気づき、箱型の旅館・ホテルの建設を直接、間接に阻止してきました。そして、1986年より旅館組合として県の補助金を活用し、後藤哲也さんの経験に基づく植樹のノウハウをフルに活かして雑木林風にさまざまな種類の木を植えていき、以降毎年続けてきている。1日で1000万円近くの木々を植えた年もあったという。個々の旅館も独自に木を植え続けてきている。日本の雑木林のある風景は、その色あいの豊富さで外国では真似できない風景です。その風景の範囲を更に広げ、徹底すれば極めて大きな強みとなります。そう、インターナショナルな観光地に伍していくための強力な武器です。他の観光地が真似しようと始めても20年、30年かかってしまいます。私は黒川温泉が持つこの強みを更に活かし徹底してほしいと思う。今後黒川温泉は海外からのお客様の利用増も見込み、一泊だけの利用でなく、連泊して日中は黒川温泉周辺の散策範囲を広げて十分楽しめる場所にしてほしいと思っています。そんな構想を持って雑木林風に植樹する範囲を毎年広げていってほしい。欲を言えば黒川温泉周辺を散策したとき遠方に見える杉林も将来雑木林に変えていってほしい。そうなったなら決して他の観光地の追随を許さないでしょう。

   それから景観問題でいえば、もう一つが建物の景観問題です。こちらも雑木林同様にそして雑木林と一体となった景観で〝絵になる風景〟を更に洗練していってほしい。どの方向を見ても構図として写真を撮りたくなる風景であることを判断基準として、変えられるところから変えていくとです。こちらも後藤哲也さんが飛騨高山など全国の優れた〝和〟の景観から学び、取り入れて造ってきた旅館の景観づくりの流れを踏襲し、より徹底してほしい。総じて3階建以上の大きな旅館の場合、〝和〟の景観に仕上げることが難しいでしょう。黒川温泉の現状でもその部分が全体の景観の仕上げという点で苦戦している感じがします。できれば外壁を他の建物と調和した色の板張りにするなど工夫が必要かと思います。ただし大変コストがかかってしまいますが。それから雑木林でしっかり周りを囲うことです。また、先程も言いましたが黒川温泉に連泊して日中も楽しめるよう、雑木林と田舎の民家風建物の組み合わせで散策範囲を広げていってほしい。旅館以外の全ての建物を旅行者に〝見せる〟という視点で見直していくことです。しかし、建物に関しては個人の負担による部分がほとんどで、組合としてそれを強制できないだけに他の観光地で同じことを言っても無理でしょう。しかし、黒川温泉では、数10年の街の改革と革新を通して住民の意識は変わってきていると思います。そこに期待します。インターナショナルで通用するブランドに仕上げるためです。そう、「地域全体が一つの旅館。道は廊下、各旅館は部屋」の黒川温泉将来ビジョンに向けた確かな歩みを更にすすめることです。

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2.インターナショナルの観光地としてそれにふさわしい人材を育成する

   一つの旅館の評価、ひいては一つの観光地の評価は、温泉地の場合でみると旅館周辺の癒される景観、快適な館内施設と快適で良質の温泉(露天風呂など含む)、特徴があり感動と味を堪能できる食事、日中十分楽しめる空間があること、そしてそれをコーディネートする人の質で決まります。人以外のところでどんなに優れていてもそこで働くスタッフの皆さんの力がそれにふさわしいものでないと全体の評価は上がりません。そのためそこで働く全ての人の力量を高める努力が不可欠です。そして、ここでもインターナショナルで伍していけるスタッフの確保が必要です。旅館組合と各旅館のオーナー、女将さんは人材の力量を高めることを重要な課題と位置づけて取り組む必要があります。

   さて、そこでもう一度現状認識からです。前回の投稿では、日本のレストラン、旅館などのサービス、〝おもてなし〟は、日本人自身は最高だと思っているだけで、実際日本のそれらを利用した外国人の評価は高くないことをデービッド・アトキンソンさんが「新・観光立国論

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」の中で書いていることを紹介しました。そう書いても日本にいてはなかなかアトキンソンさんの指摘を実感できないでしょう。できれば海外に実際に行って現地のレストランを実際利用してみて、そこでのサービスを自分で体験し、確認することです。それを旅館組合が企画して取り組むようにする。海外の優れたホテル、レストラン、観光地の視察を企画し、毎年数人づつ送る。組合負担と一部本人負担で。まず今後を担う若旦那、若女将が。もちろんオーナー、女将も率先して行ってもらう。とにかく旅館のサービスレベルは、オーナー、女将の問題意識のレベルで決まるからです。物見遊山ではだめです。学んだことと今後に生かすことを報告書にして組合に提出し、公開します。やはり専門のコーディネーター(コンサルタント)は必要でしょう。行くに当たっては、こちらの意図をしっかり伝え、十分な調整をした上で企画し、参加者の事前学習を経て同行してもらいます。

   私の事例ですが日本と違うサービスの事例をお話しします。私は今は日本の観光への関心から伊勢神宮内宮前近くの土産品販売の店で働いていますが、以前はコープ(生協)が職場でした。そのときにアメリカのスーパー、ディスカウントストアなど、アメリカ流通事情視察で3回、新婚旅行でアメリカ西海岸に1回、コープの会員の皆さんの事務局を担い、ニューヨークの国連で行われた第3軍縮軍縮総会(SSDIII)という大変難しい会議への参加で1回、アメリカへは計5回行きました。その他に現在の職場の旅行でスイス、ドイツ、オーストリアなどヨーロッパに1回行きました。その中でも特に30年近く前の国連軍縮総会終了後、日本への帰途サンフランシスコに立ち寄り、会員の皆さん10人位でフィッシャーマンズワーフにある魚介類レストラン(イタリア料理)のスコマという店を利用した時のことが印象的でした。

                       〈スコマ(Scoma's)〉

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                         〈※写真 4travel.jp〉

レストランのグレードとしては、価格的にも標準よりやや高めの店といった感じですが、庶民的な感じもあり気軽に入れる雰囲気です。会員の皆さんと少しリッチにロブスターなどのメインディッシュと前菜、そしてワインを注文します。前菜のサラダには他のレストラン同様ドレッシングを3種類持って来て担当のスタッフ(担当するエリアがあって最後まで同じ人が対応する)が、ていねいに説明を始める。もちろん英語なので内容はさっぱりわからない。一通り説明が終わって最後に「私はこれをおすすめします」という。もちろんこれも英語なのですが、口調、身振りではっきりわかる。当然ドレッシングを迷わず選べる。日本でも真似てドレッシングを何種類か用意し説明する所はあるが、「私はこれをおすすめします」とは言わない。それからアトキンソンさんが「新観光立国論」の中で日本と外国との違いでレストランで「すいません」などの言葉をかけてスタッフを呼ぶのは欧州では失格であると紹介されていましたが、この店はアメリカの店ですが確かにスタッフの方に顔を向けるとすぐ近寄ってきて、「何かご用ですか」と聞く。スタッフ同士でおしゃべりなどしていない。まさに全神経を客である私たちの方に向けているのが分かる。30年近く前のことを何故こんなに具体的に覚えているのかというと、実は客である私の方が恥ずかしい行為をしてしまったからです。食事を終わって会計をするときです。グループの事務局として私がまとめて支払いをしました。10人分で確か日本円に換算して6〜7万円くらいだったと思います。全行程の最後で残りの財布の中もやや寂しい。レストランでのチップは食事金額の1割くらいからといわれていたが、全体の金額が大きいので1割の半分位からでもいいだろうとチップをスタッフに渡した。そしたらはっきりと〝ノー〟と言われた。「ばかにしないでくれ。私はそんなレベルのサービスをしていないはずだ!」とスタッフの目が言っている。慌てて「アイム・ソーリー」と言ってチップ追加しました。そんなみっともないやりとりがあったので良く覚えているのです。しかし、今改めてそのときの事を振りかえってみると、あの真剣で気魄がこもり、しかも自信に満ち、誇りを持った(と私は感じた)レストランスタッフを日本で見たことがない。そんな経験を踏まえて考えると〝日本はレストランなどすべてでチップがないから良い〟という日本の中で言われていることに疑問を持っている。アトキンソンさんも本の中で、日本のレストランの利用料金は、メニュー価格そのものにチップに当たるサービス料込みになってていて、結局欧米のチップを含めた利用料金とほぼ同じだと言っている。だとしたらスタッフのサービスの質はどちらが高いのかということです。ぜひ自分の目で確かめてみて下さい。アメリカなど海外のレストランなどで働くスタッフは、固定給は大変低い。あとは仕事の中で自分が提供するサービスを評価してもらい、それをチップという形で稼ぐ訳だ。当然提供するサービスのレベルで個人差がでる。合理的で明快です。競争意識もありクォリティの高いサービスを生み出している。日本の場合労働法の問題だけでなく、日本人自身の横並び思考がネックとなってチップ方式はやりたくてもできませんが。できなくても世界のスタンダードのサービスレベルを知るのです。そのインターナショナルのサービスのスタンダードレベルを知って問題意識を持つところから始めるのです。そして日本に帰ってから〝どう活かすかその組み立てを考える〟のです。それが目指す自店のスタンダードとなります。そう、接遇は直接的な数値目標化ができません。そのため目指す自店の接遇の〝状態〟を一つ一つの場面ではっきりさせ、それによって個別の事例に一つ一つ対応していき、更にそこから学んで改善し続けるのです。もちろん欧米でもチップのいらないファーストフードの店は、本家ですからたくさんあります。また特にアメリカ西海岸など日本食レストランがたくさんあります。「行くな」とは言いませんが、やはりメインはチップを支払う向こうの普通のレストランです。それから日本人のグループで行くとかなりの人が「こっち(アメリカ)の料理は大味で口に合わない」「やっぱり日本食が一番だよな」と言いだす。確かに普通のレストランはステーキなど大味なところはある。アメリカ人も日本の和牛の旨さを知るようになり認めている。それから単品の量が多い。良くメインディッシュの付け合せで出てくるポテトフライなど、それだけで腹一杯になってしまうような量です。だから可能な店なら単品でメインディッシュと前菜をメンバーが種類を変えて頼み、取り皿を頼むのです。それとレストランの雰囲気、メニューとその味、スタッフのサービスレベルを見る訳ですから、普通よりワンランク上のレストランを利用してみましょう。先ほど紹介したスコマもいいですし、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフはほとんど魚介類のメニューが中心で、総じて日本人に向いているでしょう。それからロスアンゼルスならビバリーヒルズ周辺の洒落たレストランがおすすめです。私は今でもビバリーヒルズのレストラン〝ローリーズ・ザ・プライムリブ〟のローストビーフの味が忘れられません。

 〈ローリーズ・ザ・プライムリブ店内と外観〉

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〈客のテーブルの前で肉をカットする。(写真左下)カットしたローストビーフ (その右 待ち時間の間利用できるバー〉

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          〈※写真上下  トリップ・アドバイザー〉

  「なんか高級そう!」って?そう、アメリカのセレブも来る店です。スーツでなくてもジャケットとネクタイ、スラックスは必要です(女性もそれに準じて)。Tシャツ、Gパン、スニーカーでは一人浮いてしまいます。というか周りから軽蔑の眼差しの集中攻撃を受けてしまいます。あるいはその前に入店を断られるかもしれません。海外旅行でパックのツアー旅行で決められた食事だけならネクタイもジャケットもいらないでしょう。また、日本からの荷物を出来るだけ少なくしたい気持ちも分かりますが、短い海外旅行でも現地のライフスタイルの一端を知る上でチャンスです。彼らはT・P・O(時・場所・目的)で見事に変身します。これが日中Tシャツ、短パンで闊歩していた同じ人かと目を疑うほどドレスアップして現れ、その格好良さに圧倒されます。せっかく海外に行くならいっときでも現地の人になったつもりで楽しんでみましょう。ツアーでも夕食がオプションになっていたらその日に仲間と一緒に行くのです。ホテルでタクシーを頼めば安心です。帰りもレストランで「タクシー・プリーズ!」で大丈夫。ただし、帰るホテルの名前を忘れてしまっては困りますが。

   ローリーズの話に戻りますが、やはりこの店のローストビーフの味に感激した日本人がいて、横浜市関内駅近くの馬車道通りにローリーと同じローストビーフの味の店を出し、私も何回か行きました。残念ですが今同じ場所にはありません。私は行ったことはありませんが、調べたら日本にも東京と大阪にローリーズの支店があります。ただ、インターネットの写真を見ると店の雰囲気はかなり違います。やっぱりアメリカの本家の方が内装など重厚な感じがします。それからアメリカのこのクラスのレストランでは、「満席で1時間待ちです」と言われても諦めてはいけません。待ち合いの部屋があり、ドリンクなどは待ち時間に注文でき、お酒を飲みながら仲間と楽しく語らいながら待つことができます。そうしたサービスをも体験してみるのです。そう、日本にいるときの行動パターンでなく、アメリカに行ったら少しリッチなアメリカ人になったつもりで、レストランでのすべてを楽しむのです。海外、特にアメリカのことを書き出したらそれだけで数万字を超えてしまうので、それはまた別の機会にしてこの辺にしておきます。

   さて、従業員スタッフの育成を考えるとき、この業界、職場に入れば、将来に〝展望が持てる〟という状況を作っていくことが必要です。その展望とは、一つは〝働き甲斐〟で、「この仕事で一生頑張って働き、自分自身の成長と会社(旅館)とその観光地のために貢献してしてみよう」と思ってもらうことで、そのためにはその観光地、会社(旅館)が〝将来ビジョン〟と〝志(経営と社会貢献の姿勢)〟を明確にすることです。「現状はこうだが、将来はこうしたい。そんな将来のために君たちの力を借りたい」というビジョンをトップが熱く語れるかです。若者は就職しても今の仕事を一生続けるべきかで悩んでいる。今の目の前の仕事に追われるのみで将来ビジョンの話など聞いたことがない。これでは若者が悩んで当然です。そう、トップが将来ビジョンを熱く語れないことが大きな原因なのです。

   ただ多くの観光地、温泉地でお客様の集客がジリ貧になる一方で「何をどうしていいか分らない。だから当面の課題を一生懸命やることしか出来ない」というトップも多いでしょう。日本の多くの観光地に、その現地に行ってみればその困難さは分かります。時とともにお客様の意識は変わっていく。そういう変化をつかみ対応していかなければなりません。今から40年50年前の日本は高度成長時代。日本経済のパイそのものが拡大していった時代で、企業業績が右肩上がりでサラリーマンの年収は黙っていても毎年上がっていく。そしてその時代の代表的な企業の福利厚生は〝運動会〟と〝社員旅行〟で、どの企業も競うように行った。とりわけ首都圏に近い温泉地の熱海などは人気が集中した。そしてその需要に応えるために投資してホテル型に旅館を造り変えていった。そしてバブルの終焉とともに利用者の急減が始まる。現状の利用者はピーク時の3分の1以下、4分の1以下になってしまった。全国の温泉地の多くが似たような状況です。バブル直後は、「なんとか数年我慢すれば元に戻るはずだ」と思ってみんな耐えてきたと思う。しかし、30年近く待っても一向に戻る気配はない。そう、もういくら待っても元には戻らないのです。世の中のお客様のニーズが完全に変わってしまった。会社などの一泊の社員旅行は人気がなくなってしまった。この現状をしっかり受け止めなければなりません。

   同じようにバブルの終焉とともに衰退していった日本のレジャー産業があります。海水浴場とスキー場です。日本では海水浴は夏の代表的なレジャーでした。私のいた神奈川県は、湘南海岸や三浦半島の海岸は海水浴のメッカでした。ピークには東京などから多くの人が訪れます。当然海岸近くに行くと大渋滞が発生します。東京を家族と朝早く出て神奈川県の湘南海岸に向かう。海岸の近く20キロメートルから渋滞が始まり、1時間走ってもやっと10キロ。海岸近くに着いても車を止める駐車場探しが大変。やっと車を止めて海岸に着いたのは11時。人が多く、芋洗い状態の海岸でしばらく楽しみ(?)、帰りも渋滞があるので早めの帰り仕度をして15時には現地を出発する。家にたどり着いたのは19時近かった。これが代表的な海水浴のパターンです。はっきり言ってこれは発展途上国のレジャーです。先進国でこんなレジャーはありえません。例えばアメリカのマイアミビーチを見てほしい。海岸に沿ってシャレた高層のリゾートホテルが何棟も並び、そのホテルを連泊で利用し、ホテルから目の前が海岸なので、水着のまま海岸にいける。金髪の白人女性が砂浜に寝そべっている。絵になる風景といっていい。

〈マイアミビーチのホテル群 ホテルの前が海〉

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                      〈⬆︎写真  RETRIP他〉

ところがこの白人女性に「日本の湘南海岸で同じように楽しんでほしい」と頼んでも、即座に「ノー」と言われるでしょう。海岸の近くにイケたホテルや施設がないからです。施設といえば時代的役割を終えたような海の家があるだけ。シャワーと脱衣場所も貧弱。それで何十キロも離れたホテルまで移動するなんて考えられないということです。タイのプーケットが外国から人気があるのは、海の近くに立派なホテルと飲食を含め、夜も十分楽しめる施設が充実しているからです。

   日本の海水浴場は、ここ20年で利用者が4分の1にまで激減しているという。それで現地の人は、もう一度利用者を増やそうと一生懸命です。でもそれは諦めた方がいいでしょう。日本人の意識も「あんなに苦痛な思いをしてまで海に行きたくない」と思うのは至極当然です。これまでの日本の海水浴というレジャーは世界のスタンダードからみればとてもレジャーと言えないのです。日本の海水浴場で世界から人を呼べるようなところは一つもありません。確かにミシュラン・グリーンガイドで沖縄石垣島の川平湾のように星3つの評価のところもありますが、開発が進んでいないので素晴らしい景観が残っている、という自然遺産的なニュアンスが強いと思います。日本の海水浴場が世界レベルで伍していくということは諦めるべきです。それぞれがローカルの海水浴場として存続すべきです。地元の人が徒歩かせいぜい自転車で来れる範囲の人を対象にするのです。「それでは食っていけないじゃないか」って?そう、日本の海水浴場は大転換を迫られています。潔く諦めるか、江ノ島を抱える湘南海岸なら富士山が世界文化遺産になったように葛飾北斎富嶽三十六景で描かれた風景の場所ということで、景観を全面的に見直して(今のままではダメです。ミシュランのグリーンガイドで江ノ島のことは紹介されていますが、星印無しです。でも現状ではやむをえません。)新しい湘南海岸につくり変えていく必要があります。このことは改めて触れたいと思います。

   海水浴場と同様に衰退してしまったのがスキー場です。やはり日本の高度経済成長時代、若者を中心に夜行日帰り、夜行1泊2日のハードスケジュールのスキー客が全盛でした。電車の自由席は、座れないスキー客で身動き出来ないような状態でも、みんな我も我もとスキー場に向かいました。しかし、これも発展途上国のレジャーです。こんな状態がいつまでも続く訳がありません。ただ、ただ疲れるだけのスキーはとてもレジャーとはいえません。だから減って当然です。今迄の延長ではスキー場の将来はありません。その点、北海道のニセコなどにオーストラリアの資本が入って短期滞在型のスキー場開発をしているやり方は、今後のスキー場の方向性を示しています。

ニセコスキー場 海外から雪質を評価される.海外資本も入りアフタースキーもオシャレに〉

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              〈写真  トリップアドバイザー 他〉

   日本は、観光地、レジャー産業も顧客の意識の大きな変化の中にあります。観光地のリーダー、企業のトップはそうした変化を把握し、それに対応した戦略、方向性を決めていかなければなりません。その点、後藤哲也さんは優れた戦略家でもありました。後藤さんは、新明館の3代目として自ら一人で数年かけて洞窟風呂をつくったり、裏山をツツジやいろんな庭木を植えて宿泊者に喜ばれるよう日々努力する一方、大変研究熱心なところがありました。全国の人気のある観光地、景観の優れた地域を訪れ学び続けたのです。とりわけ京都は毎年訪れ、優れた同じ場所に学び続けます。そう、結果的に定期定点観測をしていたことになります。その中で後藤さんは、ある重要なことに気づきます。「京都に行き始めた頃は、剪定された松など、整然とした庭木と池のある日本庭園などが人気があったが、ジワジワと減っていくのが分かった。逆に、自然の木が植わっていて岩には苔が生えている、そんな庭を持つ寺院の方に人が集まり始めた。そこで女性の観光客が自然の雑木を見て『わー、すごい』と感動の言葉を出している。最初はその現象が何故起こっているのか分からなかったが、やがて自分なりの結論にたどり着く。剪定されたマツのある日本庭園は〝人口的〟そのものです。しかし、ストレスを持つ現在の人は、そこに〝癒し〟を感じなくなった。ありのままの自然の姿を求めるようになった。」今後の目指す方向を明確に捉えたのです。それと日本の他の温泉地と違って高度経済成長時代の旅館、ホテルのビル化と無縁だったことが幸いしました。癒しにつながる自然、雑木林を彼一流の経験に基づくノウハウによって植樹で広げていき、そして、飛騨高山の優れた古民家などから学んだことをふんだんに旅館の改修に取り入れ、黒川温泉の風景を一変させていったのです。黒川温泉にとって今もこの戦略は生きています。この戦略を更に突き詰め、徹底していくのです。黒川温泉組合の組合長や各旅館のオーナーは、これからを担う若いスタッフにこう熱く語るべきです。「黒川温泉は、世界の人々に愛され、利用され、尊敬される世界ブランドの温泉地を目指します。そして、当面の目標としてミシュラン・グリーンガイドの評価で星3つを目指します。」と。

   話しが広がりすぎて本論を忘れそうです。今まだ〝人材育成〟の話しです。これからを担う若いスタッフに、トップは熱くビジョンを語りなさい、と言いました。それからスタッフの人材育成で大切なことがあります。ビジョンと志の他に経済的にスタッフが安心して働ける状態をつくることです。そうでないと優秀な人材が黒川温泉に残ってくれません。黒川温泉でしっかり働けば、将来結婚して家庭を持ち、子供も安心して大学まで行かせられる。そうした展望が見えれば余計な心配事がなくなり、「よし、がんばろう!」という気になれます。ところが実態はどうでしょうか。ここに2016年3月15日付のインターネット ライブドア・ニュース「40代の業種別の平均年収ランキング…」として、2013年国税庁の「民間給与実態統計調査」の統計と「年収ラボ」が行った分析データを元に40代の業種別平均年収が紹介されました。まず、国税庁民間給与実態統計調査」で40代の全体の平均年収を見てみましょう。

       ●40〜44歳        459万

                                 男  568万

                                 女  290万

      ●45〜49歳         491万

                                 男   638万

                                 女    292万

   男と女で大きな差があるのに驚きますが、それは今回のテーマとの関係で特に考察をしません。問題は、下記の40代の業種別平均年収です。

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    「宿泊業・飲食サービス業」が14の業種別で最下位で、それも極端に低い。最初数字の間違いではないかと思い、国税庁の「民間給与実態統計調査」をインターネットで見ることができるので自分で調べてみたが、やっぱり間違いない。それに企業規模(資本金額で分類)で見ても大きな差はない。最初個人経営の人のサンプルが多いからだろうと思ったが、そうではなさそうです。一度税務署の人にこのデータについて聞いてみたいと思うが、いずれにしてもこの業界の平均年収が低いのが分かる。これでは優秀な人材は入ってこないだろうし、入ったとしても将来の経済的な展望が描けず、辞めてしまうでしょう。40代といえば「子供が高校生、中学生の二人です。」という家族構成が一般的になります。高校生が高校三年になり、大学に行くことになれば、入学金と初年度授業料だけで国立で80万円、私立で115万円、私立理系なら150万円、地方から出て東京で下宿することになれば更に大変になります。一人大学を卒業させるのに1000万円はかかるといわれています。中学、高校で塾に行かせる出費もばかになりません。これを本人負担でというのは無理でしょう。奨学金をもらっても大学にほとんど行かず、バイトにほとんど明け暮れる日々となります。従って「宿泊業・飲食サービス業」に勤務する人の大半は、子供を東京の大学に行かせられないということになっています。これではいつまでも優秀な人材が入ってこず、また定着してくれません。少なくても世の中の平均的な水準は給与として支払う必要があります。それは40代の男で税込み年収約600万円です(日本はまだ年収の男女差がありすぎですが、それについてはまた別の機会にふれます)。そう言っても大半の温泉地の旅館では、「とてもそんなに給与として支払うほど稼いでいない。そんなに人件費をかけたら旅館が潰れてしまう」というでしょう。そう思います。いわゆる世の中の時流、トレンドに完全に乗り遅れてしまっているので、企業の売上に当たるところが確保できていないからです。時流に乗るための努力、大転換を一旅館だけでなく、温泉地全体として取り組む必要があります。しかし、財務含め体力にその余力が残っていればの話しですが。その点黒川温泉は今この業界では数少ない〝時流に乗ることができた温泉地〟です。これからも改革をすすめ、世の中の時流に乗り続ける努力はもちろん必要ですが。ところで黒川温泉では従業員の人件費は、自分の業界平均ではなく、全業界平均は上回っているのでしょうか。現状は黒川温泉といえども中々難しいのではないでしょうか。この業界の問題として労働生産性の低さがあり、その改善が不可欠です。

   労働生産性の問題を外国との比較で見てみましょう。経済産業省が毎年出している「通商白書」の2013(HTML版)から見てみましょう。まず国別の全産業の労働生産性比較です。

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   国別労働生産性比較では、付加価値高(GDP)/総投下労働時間=国民一人1時間当たりの付加価値高で表わされますが、上のグラフを見ると日本は韓国より上ですが、欧米先進国より下まわっています。これをアメリカとの比較で産業別で比較します。

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    労働生産性を製造業て比較すると電気機器で大きく下まわっていますが、他産業ではほとんど見劣りしません。ところが、下のグラフの非製造業になると大きく差がつきます。

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   とりわけ「飲食・宿泊」が大きく下まわっています。企業規模の違いも大きいと思いますが、仕事の仕方も大きな差があると言わざるを得ません。これはこれで詳細な分析が必要です。業界関係者はアメリカなど欧米諸国となぜこれほど違うのかしっかり現状把握する必要があるでしょう。私はこの業界のことは分かりませんが、前の職場の関係て3回ほどアメリカ流通視察に行ってアメリカと日本の違いを強く感じた点があります。

   一つは「標準化」という考え方が徹底している点です。例えば日本のスーパーの場合、出店するときは一つ一つその敷地に合わせ、建物の設計図面作成、確定したらゼネコンが入って建築資材確保に動きます。しかし、アメリカの大手スーパー、ディスカウントストアでは、年間数十店舗を出店するのが普通ですが、すべての建物を全く同じ構造で出店します。そして建築資材を数十店舗分まとめて発注し、ストックします。従って建築コストは日本の5分の1位です。今日本でもセブンイレブンなど、年間1000店舗も出店するところでは同じ方式で資材の製造をまとめてやっていますが、スーパーやディスカウントストアなど、少し大型になると部分的にあっても基本的にすべて個店対応です。とにかくアメリカは発想が徹底して合理的です。日本の「とにかく当面の仕事を一生懸命頑張る」ではなく、アメリカは仕事の組み立てが「いかに合理的に楽にできるか」です。日本との違いに度肝を抜かれることが多々あります。例えばアメリカの大半のスーパー、ディスカウントストアでは(一部ダウンタウンの店舗を除く)トラックの大型車10トンロングまたはトレーラー車がほぼすべての店舗の搬入スペースに納車できます。世界売上NO.1のディスカウントストア「ウォルマート(世界の売上高約50兆円で、全トヨタの2倍)」は、コンテナを積んだトレーラーが店舗搬入スペースに納車する。するとトラックは荷物を下ろすことなく、なんとコンテナを切り離してしまう。そして既に空になったコンテナを牽引して店舗から短時間で出ていってしまう。店舗では空いた時間にゆっくりコンテナから下ろせる。アメリカは技術革新がIT産業だけではない。物流のシステムから小売業の店舗作業まで日々革新している。日本からアメリカに視察に行っても「すごなー。でも日本とは余りに条件が違いすぎて参考にならないなー」で終わってしまう可能性が大いにあります。それではいつまでたってもアメリカとの差は縮まらない。店舗作業の標準化も徹底している。作業マニュアルが具体的で詳細です。作業者はマニュアルに沿った原則的な動きをします。30年前のアメリカ視察で夜間の商品補充作業を視察しました(当時からほとんどの大手スーパーが24時間営業で、商品補充は夜間行っていた)。するとほぼ例外なく商品を腰の高さの置くと両手を使って補充作業をしています。ややベテランになるとリズミカルにちょっと踊っているように両手で作業していました。こんなに早く作業を行うのを日本で見たことがありません。

   もう一つは労働密度が濃いということです。意外に思うでしょう。私もアメリカに行くまでは日本の勤勉さにはかなわないだろうと思ってました。確かに残業も厭わないで長時間働くという点では日本が上でしょう。しかし、与えられた時間内で、与えられた作業をこなす点ではアメリカが勝っていると思います。確かにアメリカでも個人経営の店などでやる気のないような店もあります。しかし、アメリカのスーパー、ディスカウントストアを視察した範囲ではありますが、仕事、作業の集中レベルはアメリカが勝っていると思いました。また、これもアメリカのスーパーの夜間作業のことです。日中の従業員スタッフと違い、夜間は商品補充作業がメインなので服装はTシャツにジーンズ、スニーカーの格好です。商品補充作業をする作業者の中に一人携帯用発注端末機(30年前に既に使っていた)を持って発注作業をする人がいます。その格好にまず目がいきました。ジーンズの上からバレーボールの選手が使うようなひざを守るひざあてサポーターをつけています。しばらく見ていると、順番に商品棚の在庫を確認しながら発注をしています。棚の下段になると片ひざをついた姿勢になります。そこでその棚の発注が終わると隣りの商品棚に移ります。が驚いたことに立つことなく、片ひざをついたままの姿勢で、足のつま先のスナップをきかせて体を横移動(すべらせる)するのです。もちろんそのためだけのひざあてサポーターではないでしょう。商品棚の下段の補充作業などどうしてもひざをつくことが多くなります。そのための保護用ですが、少し熟練するとそんなレベルになります。それから夜間作業者は10人程度いましたが、視察した約1時間の間で、手をやすめおしゃべりなど一人もいません。多くの人が汗をにじませ作業に集中しています。この作業における集中力は少なくとも非製造業分野では日本はアメリカに負けていると思います。そうした差は「飲食・宿泊」業にも必ずあります。そうした違い、差を無視してアメリカ並みの収入を得ることなどできるわけがありません。

   では、どうするか。確かにアメリカと日本の条件が違います。国土の約7割が平地のアメリカと7割が山間部になる日本とでは道路などのインフラの整備や宅地や商業地などほとんど方形(正方形か長方形)で確保できるアメリカとは違う苦労があります。でも与えられた条件の中で改革と改善をすすめるしかありません。それをすすめてきたのが後藤哲也さんです。これからも後藤哲也さんの意思を受け継いで世の中の時流に乗り続けられるよう日々改善・改革をすすめる必要があります。そこで一つ提案です。日本のトヨタ自動車は、世界トップの品質管理と労働生産性を誇ります。そして他のいろいろな業界で「トヨタに学ぼう」ということで学ぶようになっています。そこで「株式会社カイゼン・マイスター」を紹介します。と言って面識があるわけではありません。ただ会社設立の趣旨が素晴らしいのです。2007年にトヨタ自動車とその関連会社を定年退職した社員が集まり、「お返しの人生」を社是としてトヨタで学んだことを他の産業にも広めよう、「中小企業のよき相談相手」になろう、という志を持って会社を設立しています。その改善支援は、製造業の他に地方銀行や病院、大学、農林水産業まで及んでいます。「製造業のトヨタ経験者に旅館のことが分かるわけがない」なんて思ってはいけません。あらゆる仕事は共通する部分があります。分からないところは現地で見て学んで考察する力があります(面識はないので正確には、本を読む限り「考察する力がある」と推定される)。日本にトヨタ生産方式という世界トップレベルの仕事を行っている企業が既にあるのです。ここに学ばない手はありません。多くの企業がトヨタに学ばないのは、「おじけづいている」か「志が低い」、多くはその両方でしょう。とにかく一人当たりの労働生産性を上げないことには、40代年収600万円などとても無理です。もちろんいくら指導してもらったからといって、直ぐにそこまで数値を上げることなどできません。従業員一人一人が先月の一人1時間当たりの付加価値高(労働生産性)を◯◯円と把握し、先月の問題点も一緒に考察に関わっているので把握している。そしてもちろん問題点の対策立案で出された今月の重点課題を◯項目を把握し、日々チェックリストに沿い、問題意識を持って仕事をすすめている。そういう状態を早くつくることです。

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   なんとか黒川温泉への提言4項目はまとめて投稿したいと思っていましたが、2項目でダラダラ書きすぎて長くなりすぎました。このままでは2万字を超えてしまいます。この続きはまた「続編2」に回したいと思います。よろしくお願いします。

♨️黒川温泉にご案内します (黒川温泉シリーズ第1回)

I  will  guide  you  through  the  Kurokawa  Onsen  located  in  Kumamoto  Prefecture.


    さあ、これから皆さんを熊本県にある〝黒川温泉〟にご案内します。黒川温泉と聞いても日本に同名の温泉地がいくつかあり、どの温泉地のことだろうと思うかもしれません。今回紹介するのは、熊本県の北部に位置し、熊本駅から車で約2時間弱、大分県湯布院からは車で約1時間のところにあり、熊本県阿蘇郡南小国町満願寺というところに、田の原川を挟んで24軒の和風旅館が建ち並ぶ大変特徴を持った温泉地の黒川温泉です。

   今回黒川温泉に行くきっかけとなったのが、黒川温泉再生の中心人物〝後藤哲也さん〟が執筆した本を、6年ほど前伊勢市図書館で借りて読み感激したからです。 それは後藤さんが中心となって無名だった黒川温泉を、一流の温泉へと再生させたその手腕と行動力、そして街を日本の観光地のモデルとなるような絵になる風景に一変させたという事実です。

Tetsuya  Goto  is  Sinmei-kan  of  the  owner  was  to  regenerate  the  Kurokawa  Onsen

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   今回7月16日〜18日の日程で、家族旅行ではありますが私は初めての黒川温泉にある使命をもって行きました。それは、「すばらしい景観をもった観光地なので、一人でも多くの人に伝えたい」ということで、行く前から黒川温泉のすばらしさを確信していました。そして、初めて黒川温泉にに行ってみてその確信は間違いなかったと思いました。いや、期待以上のものでした。今回ブログ投稿を前提としていたので、家族の意向もあり家族写真は掲載していません(一部後ろ姿はあります)。純粋に黒川温泉の景観を中心に紹介します。

   では、まずは黒川温泉中心部からその景観を写真で見て見ましょう。 

 

新明館前の橋から360度見渡す

Over  looking  360  degrees  from  the  bridge  of  Sinmei-kan

   後藤哲也さんが生まれ、オーナーとしてその経営に深く関わった〝新明館〟。その前を田の原川が流れていて、新明館入口から反対側にかかる橋があります。その橋の辺りが黒川温泉のほぼ中心になります。

             〈⬇︎温泉地中央を流れる田の原川〉

                   〈⬇︎橋の上から新明館入口〉

                         Entrance  of  Shinmei-kan

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                〈⬇︎田の原川の反対側(上流)〉

                     〈⬇︎新明館と反対側〉


 川を挟んで新明館と反対側の黒川温泉の中心地

Kurokawa  Onsen  center  is  just  the  opposite  side  of  Shinmei-kan

   中心地といっても繁華街といえるほどのものはありません。旅館と旅館の狭い道を挟んでいくつかの土産屋と軽食喫茶の店があります。

 〈⬇︎写真上が午後5時半頃、下が午前9時頃〉


 

黒川温泉中心地周辺の景観

Landscape  with  around  Kurokawa  Onsen  center

   先ほどの黒川温泉中心地から周囲約300メートルを散策しました。その景観はどの角度から写真を撮っても絵になります。デカデカとした看板、のぼり旗は一つもありません。どの旅館も木の緑(秋には紅葉の色が加わる)をふんだんに使っているが、庭師が手入れしたような木は1本もなく自然です。旅館それぞれが〝和〟を基調に工夫した景観を創っています。日本でこんな経験は初めてです。感動の連続でした。写真を何枚か掲載します。

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          〈⬇︎囲炉裏とその奥に薪が積んである〉

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X   荘 (事情により宿泊施設名を出しません)

Accommodatioion  name  and  private

   私が泊まった旅館です。館内は見事に雰囲気を演出し、クオリティの高さをうかがわせます。

                    〈⬇︎館内 写真下がフロント〉 

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                〈⬇︎雰囲気のある露天風呂〉

                 Open-air  bath  with  atmosphere

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   食事内容は、皿とその配置にもこだわりがあり、クォリティの高さを感じます。

                             〈⬇︎夕食〉

                                  dinner

※夕食は、コースになっていて写真は一部です。

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                                〈⬇︎朝食〉 

                                  breakfast

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                             〈⬇︎朝食会場〉

                                breakfast  venue

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奥黒川温泉〝山みず木
Yamamizki  in  the  back  Kurokaw  Onsen

   さて、今回の旅の中でも最も感動したのが、黒川温泉中心地からやや離れた奥黒川温泉の旅館〝山みず木〟です。この旅館はあの新明館のオーナー後藤哲也さんが、約3000坪の土地に総工費約5億円をかけ、もっているノウハウを総動員して1989年に完成させたのです。本当は泊まりたかったのですが、私の事前の勉強不足で予約が取れませんでした。実は私がネットで予約したのが昨年の11月でした。その時〝山みず木〟は予約可能な旅館に紹介されていなかったので、もう「予約で一杯になってしまった」とカン違いをしてしまいました。本当は半年前、つまり今回の私の場合は1月16日以降の予約スタートだった訳です。電話1本して確認していれば予約できていたのに残念です(この7月の3連休の予約は4月初旬で満室になったとのことです)。でも、どうしてもこの目で見たかったので、フロントスタッフの方に事情を話し、館内の写真を撮らせてもらうことと露天風呂に入らせてもらいました。

 

さあ、それでは皆さん、感動の 旅館〝山みず木〟とその〝露天風呂〟に行きましょう‼︎

 Let’s  go  to  Yamamizuki  Inn  and  its  open-air  bath

旅館〝山みず木〟入口前

Yamamizuki  Inn  entrance

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館内フロントとその周辺

front  and  around

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露天風呂に向かう

It  will  head  to  the  open-air  bath

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男性用露天風呂の脱衣所

 Dressing  room  for  man    

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男性用露天風呂

 Open-air  bath  for  man

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   どうでしょうか?露天風呂に入った気分になったのではないでしょうか。たぶん皆さんはとても宿泊代が高いだろうなと思うでしょうが、実はそれほどではありません。ネットで調べれば分かりますが、宿泊タイプはAからFまで6タイプあり、3人家族で1泊2食付で一人当たり16000円からあります。いくつか紹介しましょう。        

   すべて1泊2食付で以下のようになります。

◉Aタイプ(和室10畳トイレ付 )

   3人  16000円/人(2人17000円)

◉Dタイプ(12畳和室 バス・トイレ付)

   3人  23000円/人(2人24000円)

◉Fタイプ(和洋室34畳バス・トイレ付)

   3人  30000円/人(2人45000円)

  ※B、C、Eタイプは省略します。

   私が今度黒川温泉に行くとしたらぜひとも泊まってみたい旅館です。楽天トラベルで検索すると土日祝日と平日の料金差はないようです。山みず木のすぐ近くには、姉妹館の〝深山山荘〟もあり、こちらも山みず木に負けず劣らずすばらしい旅館です。ただし、どちらも車で行く場合、山の中の狭い一本道を行くので運転初心者の方は遠慮した方がいいと思います。

 

入湯手形で洞窟風呂へ

Enter  the  cave  bath  with  bathing  bill

   さて、皆さんが〝山みず木〟に泊まったとしても黒川温泉の湯めぐりをおすすめします。今では全国の温泉地で、〝入湯手形〟で湯めぐりができる仕組みが生まれていますが、黒川温泉がそのはしりです。1300円で入湯手形を購入すると3カ所の露天風呂に入ることができます。私もこの入湯手形で、先ほど紹介した山みず木と一番最初に紹介した新明館の〝洞窟風呂〟に入ってきました。

               〈⬇︎実際に購入して使った入湯手形〉

                              bathing  bill

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   黒川温泉再生の原点ともいえる新明館の〝洞窟風呂〟(後藤哲也さんが23歳に時からノミと金槌だけで3年がかりでつくる)には行って見ましょう。もちろん私も行きました。風呂といってもちゃんとした脱衣所があるわけではなく、洞窟風呂の入口に脱衣カゴが数個あるだけです。入湯手形を使って湯めぐりできる温泉は、頭髪をシャンプーで洗ったり、体を洗ったりはできません。お湯に浸かるだけになります。体を洗うのは宿泊する旅館の風呂に入り直して行います。それなりの規模の旅館は、湯めぐり用の風呂と宿泊者専用の風呂と分かれています。

                〈⬇︎新明館の洞窟風呂(穴風呂)〉            

                       Cave  bath  in  Shinmei-kan

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   私が行った日はちょっとしたハプニングがありました。新明館の風呂は旅館内の内湯の他に五つ。露天風呂が二つ。「岩戸風呂」(男女混浴)と女性宿泊者専用の「風の湯」、ファミリーで入れる「家族風呂」、女性専用の「洞窟風呂」、男女混浴が「穴風呂」と名づけられている。ここで注意してほしい。〝男性専用〟の風呂がない。そのことを受付で聞くと、『大丈夫です。男女混浴の風呂は男性しか入りません』という。納得して穴風呂に向かう。穴風呂は一番奥の男女混浴の「岩戸風呂」の手前右側にある。歩いていると混浴の「岩戸風呂」の方からバスタオルで前だけ隠して歩いてくる女性(歳のころ40位)がいるのです。そして私のすぐ真横を通り過ぎていきます。真横といっても当然後ろ姿が目に入ってきます。後ろ姿は何も隠すものがなく、お尻が丸見えです。一瞬何が起きているのか茫然としてしまいました。やがてカップルの男女が露天風呂から穴風呂にそれぞれが少し間をおいて戻り、脱衣カゴに置いた服を着るためタオルで拭き始めているのが分かりました。穴風呂に入るためには、当然同じ脱衣カゴのところに行って、服を脱ぎ裸になる必要があります。天下一小心者の私はとてもそんなことはできません。おそらくこんな場面ではほとんどの男性がしりごみしてしまうでしょう。仕方ないので少し戻って休憩場所でカップルが着替え終わって出るのを確認してか風呂に入りました。なんか今でもあの女性の後ろ姿が脳裏に焼きついてしまっています。ただ皆さん、こんな場面がまたあるとは思ってはいけません。もうこんなケースはないでしょう。もちろん、旅は、さまざまな出来事があります。また違った素敵な出逢いがきっとあるでしょう。

 

露天(穴)風呂の後は生ビールが飲める素敵な店に行こう!

   新明館の露天風呂に入ったら、今度は新明館前の橋を渡ってすぐ右側に湯音(ゆのん)というお店があります。ジャージー牛乳&地元産品専門店ですが、湯あがりにカウンターで生ビールを飲むことができます。アルコールがダメな方は、ソフトクリームかソフトドリンクでどうぞ。熊本名物の馬肉を使った里いも馬肉コロッケや馬肉メンチカツもあり、その場で揚げたてを食べることができます。店内に入ると笑顔が素敵な美人スタッフとイケメンスタッフ君が迎えてくれます。

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 〈昨年リニューアルしたばかりの綺麗な店内〉

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                   〈⬇︎湯音のスタッフの皆さん〉

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    スタッフの皆さんから素敵な笑顔で接してもらえると時間はたちまち〝夢の世界〟へと変わります。そう、気分は最高です。湯あがりで湯音に行ったのが夕方5時半過ぎで閉店が6時。旅館の食事時間が近いというのに生ビールをお代わりしたのはもちろんです。湯音に行って今度の私の旅の物語は完成です。「今度伊勢に行きます」というスタッフの方の言葉を信じて伊勢で待ってま〜す。62歳、〝しょうもないお父さんだ〟と笑う人は笑うがいい。ここで好きな「ニーチェの言葉」の一節を紹介しよう!

〝喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。喜び、嬉しがって生きよう〟

 

黒川温泉からの帰路

   行きは熊本駅からレンタカーで、草原の中を通るミルクロードという道を走行して黒川温泉に行きました。梅雨明け前の直前ということもあり、少し標高の高いミルクロードに入ると霧が襲ってきました。ひどい時は視界が10メートルほどしかなく、時速10キロメートル程度の徐行で、恐怖を感じながら走行しました。通常1時間50分の行程が1時間以上も余計にかかってしまいました。

   帰りは前日梅雨明けし、晴天が私たちを送ってくれました。帰りのミルクロードに入ると、行きでは霧で見れなかった驚きの光景が目に入ってきました。阿蘇の山と麓からの広大な草原です。思わず車を止めて見入ってしまいました。

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    皆さんが、ミルクロードを通って黒川温泉に行くとき、このすばらしい光景が迎えてくれるでしょう。

 

 さあ、黒川温泉へ行こう!

Let’s  go  Kurokawa  Onsen

   皆さん、どうですか?黒川温泉に行って見たくなりましたか?〝行きたい〟と思ったならぜひ黒川温泉へ行きましょう。黒川温泉に行って、すばらしい風景の中に自分を置き、クォリティの高い食事を味わい、素敵な人との出会いとふれあいで〝自分の物語〟をつくりましょう。もちろん、関東や東海地区から黒川温泉に行くなら二泊で一人あたり交通費含め10万円近いお金がかかってしまうので、〝気軽に行く〟というわけにはいかないでしょう。意志を持ってお金を貯めることが必要になります。黒川温泉は、旅行会社の企画する格安ツアーのコースには入っていません。以前旅行会社が立ち寄りで湯めぐりができるツアーコースを組んでいたのですが、宿泊している人から「騒がしくて落ちついて風呂に入れなくなった」とクレームがあり、そうした格安ツアーの受け入れを止めてしまったそうです。そんな経過があり、逆にだからこそ黒川温泉は落ちついた雰囲気の中で湯めぐりをしたり、ゆったりと時間を過ごすことができるのです。

   それから一般的な観光地のイメージと違うのでご注意下さい。まず小さい子どもさんが遊んだり喜びそうなところは、車で1時間くらいのところにある湯布院などと違ってほとんどありません。それと黒川温泉の土産ものを売る店は夕方6時には締まります。それ以降で店でやっているのは、酒が飲めるスナック的な店が2軒ほどあるだけです。私もそのうちの一軒に行ってみました。店内は綺麗で感じのいい店でした。ただ一般的なスナックなどと違うのは、今あまりに当たり前のカラオケがないのです。だから落ちついた雰囲気の中で家族とあるいは友達と語りながら飲み、時を過ごすことができます。そう、団体で来て宴会でカラオケで盛り上がり、大騒ぎするところはありません。だから黒川温泉は普通の観光地の旅館街とは違います。黒川温泉は大人が楽しむところです。そして、夫婦と、そして家族と、あるいは友達とゆっくり温泉につかり、そこにある自然とその自然の中に調和した温泉街の風景の中に身を置くことで気持ちをリフレッシュし、その風景に、そこで働く人たちの営みに感動し、これから生きていく上の活力をもらうことができます。そうです。黒川温泉に行くということは、これまでの観光地、温泉地の楽しみ方とはまったく異なる楽しみ方を要求されます。これが本当の旅の楽しみ方だと私は思います。しかし、温泉地の旅の楽しみ方については当然いろいろな考え方があって私の考えを押しつけるわけにはいきませんが。

 

黒川温泉の皆さまへ

   黒川温泉で働く皆さん、二泊三日の旅でしだが、私たちに〝たくさんの感動〟をくださりありがとうございました。今、この感動をより多くの方に知ってほしいと思っています。 その第一弾がこのブログでの紹介です。できれば私が本で読んで感動し、黒川温泉にくるきっかけとなった〝後藤哲也さん〟のことも、もっと詳しく紹介したいと思っています。

   ここで、誠に失礼ではありますが、黒川温泉で働く皆さまに意見と要望を申し上げたいと思います。全体としては、〝すばらしい旅〟でした。5段階評価でいえば文句なく5です。これまでの旅の中でこれだけのクォリティの高い観光地を私は見たことがありません。〝完璧です〟と言いたいところですが、それでは黒川温泉のさらなる進歩がありません。そこで黒川温泉のさらなる発展のために申し上げます。それとすべてにわたって今回の旅が満足したかといえば、もちろん不満な点が一つもなかったわけではありません。それも胸の内にしまっておくのではなく、申し上げます。

   まず、今のクォリティの高さを維持し、更に高めていってほしい。今の〝黒川温泉〟は、もう確固とした一つのブランドになっています。このブランド力を落とすのは簡単です。一つの旅館が稼動率を高めるために、目立つよう大きな看板とのぼり旗をつけ、それを組合が許してしまったら今の景観は崩れ、全体のクォリティは下がり、ブランド力は落ちます。現在の景観をしっかり維持することでブランド力は守られます。しっかり建物をメンテナンスし、景観を維持し続けながら歳月を重ねることで、街としての風格が更に高まるでしょう。

   さて、この景観でいえば二つほど気になる点がありました。一つは黒川温泉中心地周辺を散策したとき、〝どこにカメラを向けても絵になる〟と前に書きましたが、正確には〝他の観光地と比べて絵になる景観が圧倒的に多い〟です。景観で気になったところがあります。田の原川沿いの道を目に入る風景を楽しみながら散策していて丸鈴橋を進んで行くと左手に旧小国街道沿いにある某旅館の姿が見えてきます。旧小国街道を通った時は、2階建てで〝和〟の雰囲気を感じたのですが、反対側の下から見上げると4階建になります。この方向から見るといわゆる箱物の建物に見えてしまって絵にならず、失礼ですが邪魔な景観に感じました。確かに4層の建物て和の雰囲気を出すのは難しいと思いますが。下手な細工ではお城になってしまいます。お堀もない温泉地に突然お城では調和しません。それから後藤哲也さんの本で紹介していた2004年に完成した3階建の新明館の従業員寮。本では「黒川の全体像に合わせるように、外壁は黒い板張りにして民家のたたずまいを出し・・・窓には格子を打つなど思いっきり重厚な作りにしました。」とある。ワクワクして地図で表示されているところに行ったのですが、どうも書いてある内容と実際の姿が違う。表札がなかったので新明館のフロントの女性に確認したら「場所は間違いない」という。後藤さんが本で紹介した景観はどこへ行ってしまったのでしょうか。私には実際見えた景観は〝写真を撮るほどではないか〟というものでした。この私のこの要求は一般的な観光地のレベルのところでは、少し〝酷〟でしょう。しかし、私は黒川温泉が世界的に一級といわれる観光地になってほしい、インターナショナルで伍していける観光地になってほしいと思うからです。その潜在能力があると思うからです。

    さて、もう一つが従業員の接遇、接客応対の問題です。今どこの業界でも人材を確保できず慢性的な人不足に悩まされています。それはこの黒川温泉においても同じでしょう。場所が山里離れていることもあって新明館始め今度泊まったX荘においても従業員寮をしっかり確保していて、その負担は大変だと思います。従業員に過重な労働条件であったり、賃金が低すぎたりしたら優秀な人材が定着してくれません。それは今どこの業界も同じです。そうした問題があることを承知で、今回の黒川温泉の宿泊先の事例を書きます。初日の夕食で最初に応対してくれたのが、県外から来てこの7月1日から働き始めたばかりのNさん。初日夕食の後半と翌日の朝食と夕食を担当したのが、やはり地元の人でなくここ最近黒川温泉で働き始めたばかりの70過ぎのおばさんスタッフさん。私の方はというと、後藤哲也さんの本を読んで感激し、強い思い入れがある。地元の人の生の声でその人柄を知ろうと思い、スタッフである中居さんに〝後藤哲也さん〟について聞く。そう、私の中の〝旅の物語〟を本格スタートさせたわけです。と思っていたら二人とも後藤哲也さんを知らないという。拍子抜けです。それでもNさんは、知らなかったことを申し訳ないという表情になり、私の話す後藤哲也さんのことをしっかり聞いてくれます。これなら話す方も話しがいがあり、コミュニケーションは成立しています。しかし、その後のおばさんスタッフさんとはコミュニケーション不成立でした。持ってきた料理を一通り説明すると「失礼します」といって食事場所の個室から直ぐ出てしまう。「どこから来たんですか」「遠くから大変でしたね」などの言葉はない。しかも目線はこちらをちらっと見るだけで合わせてくれない。私たちとは話したくないのかと悲しくなる。もちろんお客様の中には「型通りの挨拶ややりとりはいいから早く家族だけで会話を楽しみたい」という人も多いでしょう。また私も経験がありましたが、お客様と直接接する仕事で若い新人さんの場合、お客様から直接質問されるのが怖いから質問されないよう売り場通路を素早く歩いてしまうという例はある。しかし、70過ぎのおばさんではそんな感覚では困ります。そんなわけで私の中の〝旅の物語〟は物語の成立なく、ぷっつりと切れかかってしまいました。旅館として館内の雰囲気はなかなかのものがある。5段階評価で5をつけていい。食事内容もいい。こちらも評価5でいい。黒川温泉に強い思い入れを持ってきた私として料理を目の前にして〝やっぱり黒川温泉はすばらしい〟と思っていたところでした。当然スタッフの皆さんともすてきな旅の物語の1ページとなる会話ができることを期待した。しかし期待と違った。この応対のためにトータルで5はつけられないのです。例えばレストランで食事内容は極めていいのに店内の雰囲気が良くないという例がたまにある。この場合もトータルの評価は5には決してならない。「もう二度と行かない」と思うことすらある。今回の場合お互いの〝思い〟の違いからくるすれ違いで、たぶん今そのスタッフの方にその時のことを聞いてみても「普段通りで特に失礼な対応はありませんでした」と言うと思います。当事者の私が言うのも変ですが、接遇、応対とは本当に難しいと思います。

   ここで少し話が変わりますが、〝接遇〟関連で昨年イギリス人で現在小西美術工藝社社長に就任しているデービット・アトキンソンさんが執筆して話題になった「新・観光立国論」という本があります。少し関係するので話しが長くなりますが、その1節を紹介しましょう。その第4章に〝おもてなし〟に関することが書かれています。その中で紹介されているのが2011年に日本生産性本部がアメリカ、中国、フランスを対象に「おもてなし」についてのアンケート調査を行った結果です。その内容は、外国の人が私たち日本人が考えているほどホテルや旅館、レストランなどで受けた〝おもてなし〟を評価していないということです。むしろ、日本のホテルや旅館、レストランなどは、一方的に日本人のやり方やサービスを押し付ける、臨機応変が利かない、かた苦しいなど酷評されているケースのほうが多いといっています。外国人が評価しているのは、あくまで「日本人の礼儀正しさや親切さ」であって、日本という国に「おもてなし」という高いホスピタリティの文化があるなどと思っている人は、かなり少数派だということです。今、日本のテレビの番組を見ていると、外国人の日本に対する評価など十分な現状の考察がないまま「日本のおもてなしは最高だ」と自画自賛しているように見えます。確かに外国人から〝日本はすばらしい〟と評価されるのは耳触りが良く、素直にうれしい。逆に貶されると悔しいし悲しい。
   もう一つ同じ4章で日本のレストランでのことがいくつか紹介されている。日本のレストランに5人位のグループで行き、メニューを決め注文する。そして出来上がった料理を持ってきて「◯◯のお客様」と聞いて客からのリアクションを確認してテーブルに置いるのに驚くという。日本人の私としては、この光景はごく当たり前で、アトキンソンさんがその光景に驚くということに逆に驚く。しかし、海外では4〜5人から注文したメニューをしっかり把握し、料理が出来上がったら注文した人の前に正しく置く。それが基本中の基本だという。また、海外のレストラン(特にヨーロッパで)ではスタッフは客から「すみません」と言われて動くのは失格とされる。それから海外ではレストランでの食事後会計時に「How is /was  everything?」(何かご不満な点はありませんでしたか?)と聞かれるが、日本で聞かれたことは一度もないという。確かに私も日本にいて、レストランや旅館でそんなことを訊かれたことは一度も記憶にない。その代わり日本では、旅館の部屋に、レストランでは座ったテーブルの上にお決まりのアンケート用紙があって意見を書けるようになっている。しかし、本当に意見として伝えるには事例を具体的に、文章も内容が間違っていないか良く検討しなければならない。文章としてまとめるのは大変な労力です。その大変な労力をお客様に押し付けていることなのです。従ってほとんどのお客はアンケートなど書かない。文章で具体的な意見を書いてくれる人がどれだけいるでしょうか。しかもそのアンケートの意見を読む時、お客はもういないので緊張感はなく、店や旅館の都合で対応できる。多くの場合何も変わらないのではないか。本当にお客の声を聴き、店や施設の改善につなげていこうと思うならお客との会話のやりとりの中で不満の声を聴き出し、改善につなげていくべきです。日本人は、お客様から率直に意見を言われた場合、そこからの会話力を通してより深くその内容を理解し、現状の改善につなげていくような姿勢の人は極めて少ない。そう、自分の店のことでお客様から直接いろいろ意見を言われることを嫌う。褒めてくれるの言葉なら聞いてもいい。でも「意見、クレームはアンケート用紙にどうぞ」の姿勢に多くの人がなっているのではと思っています。

 

    済みません。話がどんどん長くなってしまいます。実はまだまだ話を続けたい。接遇のことについても更に続けたい。また、 先ほど紹介したデービッド・アトキンソンさんは「日本は観光に関しては後進国だ」と言っていますが、私も同感に思っています。ぜひそのことについて触れたかった。それから全国の観光地について現状の課題について自分なりに意見を言いたかった。そして、その上で「黒川温泉に学べ」と言いいたいのです。しかし、それはこの投稿の続編という形にして改めて書くようにします。

   今、ミシュラン・グリーンガイド・日本版の最新版を見ています。それを見ると温泉地で星3つのところは別府のひょうたん温泉のみです(見落としがあったら失礼)。星2つが城崎温泉由布院、竹瓦温泉、そして黒川温泉です。ちなみに草津温泉有馬温泉もガイドで紹介されていますが星数無しです。それから私は神奈川に30年以上いたので〝あれっ〟と思ったのですが、ガイドに神奈川県の西端にある湯河原と真鶴(こちらは温泉はないが)が星無しですが紹介されている。しかし、昔温泉地の年間集客数で日本一を誇った隣の静岡県熱海は名前すら紹介されていない。外国の人に紹介するに値しないということでしょうか。かなり手厳しい。私は黒川温泉が世界に伍する観光地を目指してほしいと思っています。それが目的ではなく、あくまで一つの目標としてですが〝星三つ〟を目指してほしいと思っています。星二つの中でそれに最も近いのが黒川温泉だと思っています。おこがましいですが、そのための私なりの施策も書いてみたい(基本的には後藤哲也さんのやってきたことを踏襲し、より徹底させるということですが)。そんなことも合わせて続編の投稿で書いてみたいと思います。続編のタイトルは「黒川温泉に学べ(仮称)」で。

   それではここで黒川温泉編の第1回を終わります。

 

 

 

🔶「超訳 ニーチェの言葉」〝抜粋〟

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   今から何年か前にベストセラーになった「超訳  ニーチェの言葉」(白鳥 春彦 編訳)を紹介します。哲学者「フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ」について、彼のさまざまな著作から訳者白鳥さんが抜粋選択して紹介した本です。ニーチェの言葉(文章)は、哲学者であっても表現は抽象的なところがなく、具体的で分かりやすいです。しかも文章は簡潔で詩のようなリズムがあります。

    例えば、「III.生について」にこんな一節があります。

                       ◇ いつかは死ぬのだから

   死ぬのは決まっているのだから、ほがらかにやっていこう。
   いつかは終わるのだから、全力で向かっていこう。
   時間は限られているのだからチャンスはいつも今だ。
   嘆きわめくことなんか、オペラの役者にまかせておけ。〈力への意志

 

  〝いま〟をポジティブにしっかり生きることを軽快なリズムで表していて、フレーズとして覚えたい一節です。

   あるいは「VII.人について」の中にこんな一節もあります。

                               ◇ 街へ出よう

   雑踏の中へ入れ。人の輪の中へ行け。みんながいる場所へ向かえ。
   みんなの中で、大勢の人の中で、きみはもっ
となめらかな人間になり、きっちりとした新しい人間になれるだろう。
    孤独でいるのはよくない。孤独はきみをだら
しなくしてしまう。孤独は人間を腐らせてだめにしてしまう。さあ、部屋を出て、街へ出かけ よう。〈デォオ二ュソスの歌〉

 

   この一節、なんだか本当に街の中に行きたくなる気分にさせます。この一節が私自身の生活行動を変えさせた点があります。私は8年前に単身で伊勢に来て生活していますが、当初は節約のためもあって休みの日もすべて自炊をしていました。それがこの本を読んだことがきっかけとなって、休みの日のランチは外に出でとるようになりました。もう伊勢とその周辺で200店舗程になります。しょうもない店もありますが、大半の店で働く人の頑張っている姿に刺激されます。とりわけ印象に残っているのが、ある店で働く〝西井さん〟という73歳になるおばさんです。店に入るお客様を入口でお迎えし、テーブルまで案内・誘導。注文から料理出しまで手際よく行い、合間には新人パートさんへの指導も静かな口調で行っている。あまりに見事で感動しました。私は現在62歳ですが、西井さんはこれからの人生の〝良き手本〟です。今は私も西井さんのように70過ぎても働けるまで働き続けたいと思っています。

 

   さて、この本ですが私が4年ほど前に図書館で借りて読み、とても気にいったものです。もともと訳者がニーチェ著作から厳選し抜粋した本ですが、更に私がいつでもどこでも短い時間で見られるようスマホアプリの「メモ」に、本の中から特に自分の印象に残ったものを抜粋してまとめてみました。でも、良い本、良い言葉というのは他の人にも伝えたくなるものです。そこで生まれて初めてブログで自分のスマホメモに残したものを公開することにしました。

   ニーチェの言葉は分かりやすい表現で簡潔に書かれているので、どんどん読むことができると思います。是非通読してみて下さい。しかし、問題があります。通読しやすいということは、意外に記憶に残りにくいということでもあります。ですから通読後は最初に戻って、改めて一項目ずつ考えながら読むことをおすすめします。朝起きて先ず10分間、あるいは出勤途中の電車の中で10分、仕事前に1日1項目ずつ読み、それについて自分なりに思索してみるのです。あるいは仕事帰りの電車の中で、寝る前の時間でもかまいません。何項目も読みすぎると自分のものにならないので、毎日1項目に絞って継続することが効果的です。そんな訳でニーチェの各言葉毎に「◯日目」を加えました。元本は232項目で構成されていますが、54項目を抜粋しました。従って「54日目」まであり、一日一項目で2カ月弱です。もちろん、本、文章の読み方は人それぞれです。読み方まで強制出来ません。なので「◯日目」は無視して結構です。単に通し番号と思ってください。それから〝ニーチェの言葉〟それぞれに私のコメントありません。言葉の捉え方は十人十色です。それぞれが自分なりに哲学してください。

   それから出来たら是非白鳥春彦さん編訳の「超訳   ニーチェの言葉」(発行  ㍿ ディスカヴァー・ツゥエンティワン)の購読をおすすめします。そして、自分なりの「ニーチェの言葉」〝抜粋〟を作ってブログに投稿してみて下さい。また違った「ニーチェの言葉」〝抜粋〟が出来ます。きっと面白いと思います。  

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🔶I .  己について🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸


《1日目》
◇ 初めの一歩は自分への尊敬から


   自分はたいしたことがない人間だなんて思ってはならない。それは、自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうようなことだからだ。

   そうではなく、最初に自分を尊敬することから始めよう。まだ何もしていない自分を、人間として尊敬するんだ。

   自分を尊敬すれば、悪いことなんてできなくなる。人間として軽蔑されるような行為をしなくなるものだ。
   そういうふうに生き方が変わって、理想に近い自分、他の人も見習いたくなるような人間になっていくことができる。
   それは自分の可能性を大きく開拓し、それをなしとげるにふさわしい力を与えることになる。自分の人生をまっとうさせるために、まずは自分を尊敬しよう。
                              〈力への意志

 

 

《2日目》
◇ 一日の終わりに反省しない


    仕事を終えて、じっくりと反省する。一日が終わって、その一日を振り返って反省する。すると、自分や他人のアラが目について、ついにはウツになる。自分のダメさにも怒りを感じ、あいつは憎たらしいと思ったりする。たいていは、不快で暗い結果にたどりりつく。
   なぜかというと、冷静に反省したりしたからなどでは決してない。単に疲れているからだ。疲れきったときにする反省などすべてウツへの落とし穴でしかない。疲れているときは反省をしたり、振り返ったり、ましてや日記など書くべきではない。
   活発に活動しているとき、何かに夢中になって打ち込んでいるとき、楽しんでいるとき、反省したり、振り返って考えたりしない。だから、自分をだめだと思ったり人に対して憎しみを覚えたりしたときは、疲れている証拠だ。そういうときはさっさと自分を休ませなければいけない。
                                   〈曙光〉

 

 

《3日目》
◇ 自分の主人となれ


   勘違いしてはならない。自制心という言葉を知っているだけで、なにがしか自制できているわけではない。自制は、自分が現実に行うそのもののことだ。
   一日に一つ、何か小さなことを断念する。最低でもそのくらいのことが容易にできないと、自制心があるということにはならない。また、小さな事柄に関して自制できないと、大きな事柄に関して上手に自制して成功できるはずもない。
   自制できるということは、自分をコントロールできるということだ。自分の中に巣くう欲望を自分で制御する。欲望の言いなりになったりせず、自分がちゃんと自分の行動の主人になるということだ。
                             〈漂白者とその影〉

 

 

《4日目》
◇ 自分の「何故」を知れば道が見える


   多くの方法論の本を読んでも有名な経営者や金持ちのやり方を学んできても、自分のやり方や方法がわからない。これは当然のことで、薬ひとつにしてもその人の体質に合わない場合がある。他人のやり方が自分に合わないのは不思議なことではない。
   問題はまず、自分の「なぜ」がちっともわかっていないということにある。自分がなぜそれをやりたいのか、なぜそれを望むのか、なぜそうなりたいのかなぜその道を行きたいのか、ということについて深く考えてないし、しっかりつかんでいないからだ。
   その自分の「なぜ」さえはっきりつかめていれば、あとはもう簡単だ。どのようにやるのかなんてすぐにわかってくる。わざわざ他人の真似をして時間をつぶすこともない。もう自分の目で自分の道がはっきりと見えているのだから、あとは歩いていけばいいだけになる。
                               〈偶像の黄昏〉

 

 

《5日目》

◇ 自分を知ることから始めよう


   自分についてごまかしたり、自分に嘘をついたりしてやりすごすべきではない。自分に対してはいつも誠実であり、自分がいったいどういう人間なのか、どういう心の癖があり、どういう考え方や反応をするのか、よく知っておくべきだ。

   なぜならば、自分をよく知っていないと、愛を愛として感じられなくなってしまうからだ。愛するために、愛されるためにまずは自分を知ることから始めるのだ。自分さえ知らずして、相手を知ることなどできないのだから。
                                 〈曙光〉

 

 

《6日目》

◇ 恐怖心は自分の中から生まれる


   この世の中に生まれる悪の四分の三は、恐怖心から起きている。
   恐怖心を持っているから、体験したことのある多くの事柄について、なおまだ苦しんでいるのだ。それどころか、まだ体験していないことにすら恐れ苦しんでいる。
   しかし、恐怖心の正体というのは、実は自分の心のありようなのだ。もちろんそれは、自分でいかようにも変えることができる。自分自身の心なのだから。
                                   〈曙光〉

 

 

🔶II .  喜について🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸

 

《7日目》
◇ 喜び方がまだ足りない


   もっと喜ぼう。ちょっといいことがあっただけでも、うんと喜ぼう。喜ぶことは気持ちいいし、体の免疫力だって上がる。

    恥ずかしがらず、我慢せず、遠慮せず、喜ぼう。笑おう。にこにこしよう。素直な気持ちになって、子供のように喜ぼう。
   喜べば、くだらないことを忘れることができる。他人への嫌悪や憎しみも薄くなっていく。周囲の人々も嬉しくなるほどに喜ぼう。
   喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。喜び、嬉しがって生きよう。
                 〈ツァラトゥストラはかく語りき

 

 

《8日目》

◇ 誰もが喜べる喜びを


   わたしたちの喜びは、他の人々の役に立っているだろうか。
   わたしたちの喜びが、他の人の悔しさや悲しさをいっそう増したり、侮辱になったりしていないだろうか。
   わたしたちは、本当に喜ぶべきことを喜んでいるだろうか。
   他人の不幸や災厄を喜んではいないだろうか。復讐心や軽蔑 心や差別の心を満足させる喜びになってはいないだろうか。
                                〈力への意志

 

 

《9日目》

◇ この瞬間を楽しもう


    楽しまないというのはよくないことだ。つらいことからいったん目をそむけてでも、今をちゃんと楽しむべきだ。

   たとえば、家庭の中に楽しまない人がたった一人いるだけで誰かが鬱々としているだけで、家庭はどんよりと暗く不快な場所になってしまう。もちろん、グループや組織においても同じようになるものだ。
   できるだけ幸福に生きよう。そのためにも、とりあえず今は楽しもう。素直に笑い、この瞬間を全身で楽しんでおこう。
                               〈悦ばしき知識〉

 

 

🔶III .  生について🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸

 

《10日目》
◇ 始めるから始める


   すべて、初めは危険だ。しかし、とにかく始めなければ始まらない。
                   〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《11日目》

◇ 少しの悔いもない生き方を


    今のこの人生を、もう一度そっくりそのままくり返してもかまわないという生き方をしてみよ。
                 〈ツァラトゥストラはかく語りき

 

 

《12日目》 

◇ 安易な人生を送りたいなら

 

   この人生を簡単に、そして安楽に過ごしていきたいというのか。

    だったら、常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。

   そして、いつも群衆と一緒につるんで、ついには自分というものを忘れ去って生きていくがいい。

                                〈力への意志

 

 

《13日目》

◇ 職業がくれる一つの恵み

 

    自分の職業に専念することは、よけいな事柄を考えないようにさせてくれるものだ。その意味で、職業を持っていることは、一つの大きな恵みとなる。

   人生や生活上の憂いに襲われたとき、慣れた職業に没頭することによって、現実問題がもたらす圧迫や心配事からそっぽを向いて引きこもることができる。

   苦しいなら、逃げてかまわないのだ。戦い続けて苦しんだからといって、それに見合うように事情が好転するとは限らない。自分の心をいじめすぎてはいけない。自分に与えられた職業を没頭することで心配事から逃げているうちに、きっと何かが変わってくる。

                   〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《14日目》 

◇ 計画は実行しながら練り直せ

 

   計画を立てるのはとても楽しく、快感をともなう。長期の旅行の計画を立てたり、自分の気に入るような家を想像したり、成功する仕事の計画を綿密に立てたり、人生の計画を立てたり、どれもこれもわくわくするし、夢や希望に満ちた作業だ。

   しかし、楽しい計画づくりだけで人生は終始するわけではない。生きていく以上は、その計画を実行しなければならないのだ。そうでなければ、誰かの計画を実行するための手伝いをさせられることになる。

   そして、計画が実行される段になると、さまざまな障碍(しょうがい)、つまずき、忿懣(ふんまん)、幻滅などが現れてくる。それらを一つずつ克服していくか、途中であきらめるしかない。

   では、どうすればいいのか。実行しながら、計画を練り直していけばいいのだ。こうすれば、楽しみながら計画を実行していける。

                       〈さまざまな意見と箴言

 

 

《15日目》

◇生活を重んじる

 
   わたしたちは、慣れきっている事柄、つまり衣食住に関してあまりにおろそかにしがちだ。ひどい場所には、生きるために食っているとか、情欲ゆえに子供を産むなどと考えたり言ったりする人もいるくらいだ。そういう人たちは、ふだんの生活の大部分は堕落であり、何か別の高尚なことが他にあるかのように言う。

   しかしわたしたちは、人生の土台をしっかり支えている衣食住という生活にもっと真摯な眼差しを向けるべきだ。もっと考え、反省し、改良を重ね、知性と芸術的感性を生活の基本に差し向けようではないか。衣食住こそがわたしたちを生かし、現実にこの人生を歩ませているのだから。
                            〈漂泊者とその影〉

 

 

《16日目》

◇ いつかは死ぬのだから


    死ぬのは決まっているのだから、ほがらかにやっていこう。
   いつかは終わるのだから、全力で向かっていこう。
   時間は限られているのだからチャンスはいつも今だ。
   嘆きわめくことなんか、オペラの役者にまかせておけ。
                                 〈力への意志

 

 

🔶IV.  心について🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸

 

《17日目》
◇ かろやかな心を持つ


   何か創造的な事柄にあたるときにはもちろん、いつもの仕事をする場合でも、かろやかな心を持っているとうまくいく。それはのびのびと飛翔する心、つまらない制限などかえりみない自由な心だ。
   生まれつきこの心を萎縮させずに保っているのが望ましい。そうすれば、さまざまなことが軽々とできる人になれるだろう。

  しかし、そんな軽やかな心を持っていないと自覚しているなら、多くの知識に触れたり、多くの芸術に触れるようにしよう。すると、わたしたちの心は徐々に軽やかさを持つようになっていくからだ。
                   〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《18日目》

◇ 日々の歴史をつくる

 

   わたしたちは歴史というものを自分とはほとんど関係のない遠く離れたもののように思っている。あるいは、図書館に並んだ古びた書物の中にあるもののように感じている。

   しかし、わたしたちひとりひとりにも確かな歴史があるのだ。それは、日々の歴史だ。今のこの一日に、自分が何をどのように行うかがこの日々の歴史の一頁分になるのだ。

   おじけづいて着手せずにこの一日を終えるのか、怠慢のまま送ってしまうのか、あるいは、勇猛にチャレンジしてみるのか、きのうよりもずっとうまく工夫して何かを行うのか。その態度ひとつひとつが、自分の日々の歴史をつくるのだ。

                            〈悦ばしき知識〉

 

 

《19日目》

◇ 心の生活習慣を変える

 

    毎日の小さな習慣のくり返しが、慢性的な病気をつくる。

    それと同じように、毎日の心の小さな習慣的なくり返しが、魂を病気にしたり、健康にしたりする。

   たとえば、日に十回自分の周囲の人々に冷たい言葉を浴びせているならば、今日からは日に十回は周囲の人々を喜ばせるようにしようではないか。

   そうすると、自分の魂が治療されるばかりでなく、周囲の人々の心も状況も、確実に好転していくのだ。

                                     〈曙光〉

 

 

《20日目》 

◇ おじけづいたら負ける


 「ああ、もう道はない」と思えば、打開への道があったとしても、急に見えなくなるものだ。
 「危ないっ」と思えば、安全な場所はなくなる。
 「これで終わりか」と思い込んだら、終わりの入口に足を差し入れることになる。
 「どうしよう」と思えば、たちまちにしてベストな対処方法が見つからなくなる。
    いずれにしても、おじけづいたら負ける、破滅する。
    相手が強すぎるから、事態が今までになく困難だから、状況があまりにも悪すぎるから、逆転できる条件がそろわないから負けるのではない。
    心が恐れを抱き、おじけづいたときに、自分から自然と破滅や敗北の道を選ぶようになってしまうのだ。
             〈たわむれ、たばかり、意趣ばらし〉

 

 

《21日目》

 ◇ 心は態度に現れている

 

   ことさらに極端な行為、おおげさな態度をする人には虚栄心がある。自分を大きく見せること、自分に力があること、自分が何か特別な存在であることを人に印象づけたいのだ。実際には内には何もないのだが。

   細かい事柄にとらわれる人は気遣いがあるとか、何事にも繊細だというふうに見えることもあるが、内実は恐怖心を抱いている。何か失敗するのではないかという恐れがある。あるいは、どんな事柄にも自分以外の人が関わるとうまくはいかないと思っていて、内心で人を見下している場合もある。

                   〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《22日目》

◇ 飽きるのは自分の成長が止まっているから


   なかなか簡単には手に入らないようなものほど欲しくなるものだ。
   しかし、いったん自分のものとなり、少しばかり時間がたつと、つまらないもののように感じ始める。それが物であっても人間であってもだ。
   すでに手に入れて、慣れてしまったから飽きるのだ。けれどもそれは、本当は自分自身に飽きているということだ。手に入れたものが自分の中で変化しないから飽きる。すなわち、それに対する自分の心が変化しないから飽きるのだ。つまり、自分自身が成長し続けない人ほど飽きやすいことになる。
   そうではなく、人間として成長し続けている人は、自分が常に変わるのだから、同じものを持ち続けても少しも飽きないのだ。
                               〈悦ばしき知識〉

 

 

《23日目》

◇ 精神の自由をつかむためには

 

   本当に自由になりたければ、自分の感情をなんとか縛りつけて勝手に動かないようにしておく必要がある。

   感情を野放しにしておくと、そのつどの感情が自分を振り回し、あるいは感情的な一方向にのみ顔を向けさせ、結局は自分を不自由にしてしまうからだ。

   精神的に自由であり、自在に考えることができる人はみな、このことをよく知って実践している。

                                  〈善悪の彼岸

 

🔶V .  友について🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸

 

《24日目》
◇ 友人をつくる方法


   共に苦しむのではない。共に喜ぶのだ。

   そうすれば友人がつくれる。
   しかし嫉妬とうぬぼれは、友人をなくしてしまうからご注意を。
                  〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《25日目》

◇ 友人と話そう


    友人とたくさん話そう。いろんなことを話そう。それはたんなるお喋りではない。自分の話したことは、自分が信じたいと思っている具体的な事柄なのだ腹を割って友人と話すことで、自分が何をどう考えているかがはっきりと見えてくる。
    また、その人を自分の友人とすることは、自分がその友人の中に尊敬すべきもの、人間としてなんらかの憧れを抱いているということだ。それゆえ、友人を持ち、互いに話し合い、互いに尊敬していくのは、人間が高まるうえでとても大切なことだと言える。
                 〈ツァラトゥストラはかく語りき

 

 

《26日目》

◇ 四つの徳を持て


   自分自身と友人に対しては、いつも誠実であれ。
   敵に対しては勇気を持て。
   敗者に対しては、寛容さを持て。
   その他あらゆる場合については、常に礼儀を保て。
                                       〈曙光〉

 

 

《27日目》

◇ 必要な鈍さ


   いつも敏感で鋭くある必要はない。特に人との交わりにおいては、相手のなんらかの行為や考えの動機を見抜いていても知らぬふうでいるような、一種の偽りの鈍さが必要だ。
   また、言葉をできるだけ好意的に解釈することだ。
   そして、相手をたいせつな人として扱う。しかし、こちらが気を遣っているふうには決して見せない。相手よりも鈍い感じでいる。

   これらは社交のコツであるし人へのいたわりともなる。
                  〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《28日目》

◇ 友情の才能が良い結婚を呼ぶ

 

   子供というものは、人間関係を商売や利害関係や恋愛から始めたりなんかしない。まずは友達関係からだ。楽しく遊んだり、喧嘩したり、慰め合ったり、競争したり、互いに案じたり、いろんなことが二人の間に友情というものをつくる。そして、互いに友達になる。離れていても、友達でなくなることはない。

   良い友達関係を続けていくことは、とってもたいせつだ。というのも、友達関係や友情は、他の人間との関係の基礎になるからだ。

   こうして良い友達関係は、良い結婚を続けていく基礎にもなる。なぜならば結婚生活は、男女の特別な人間関係でありながらも、その土台には友情を育てるという才能がどうしても必要になるからだ。

   したがって、良い結婚になるかどうかを環境や相手のせいにしたりするのは、自分の責任を忘れたまったくの勘違いということになる。

                  〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

🔶VI . 世について🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸

 

《29日目》
◇ 安定志向が人と組織を腐らせる


   類は友を呼ぶというけれど、同じ考えの者ばかりが集まり、互いを認めあって満足していると、そこはぬくぬくとした閉鎖空間となってしまい、新しい考えや発想が出てくることはまずなくなる。
   また、組織の年長者が自分の考えと同じ意見を持つ若者ばかりを引き立てるようになると、その若者も組織も、確実にだめになってしまう。
   反対意見や新しい異質な発想を恐れ、自分たちの安定のみに向かうような姿勢は、かえって組織や人を根元から腐らせてしまい、急速に頽廃と破滅をうながすことになる。
                                    〈曙光〉

 

 

《30日目》

◇ つまらないことに苦しまない


   暑いの反対は寒い。明るいの反対は暗い。大きいの反対は小さい。これらは相対的概念を使った一種の言葉遊びだ。現実もこれと同じだと思ってはいけない。
   たとえば、〝暑い〟は〝寒い〟に対立しているのではないということだ。この両者は、ある現象が自分に感じられる程度の差をわかりやすく表現しているにすぎない。
   それなのに、現実もこのように対立していると思い込んでしまうと、ちょっとした手数の多さが困難や苦労となり、ささいな変化が大きな苦しみとなり、たんなる距離が、疎遠や絶縁につながってしまう。
   そして多くの悩みは、この程度の差に気づかない人々の不平不満なのである。
                              〈漂泊者とその影〉

 

 

《31日目》

◇ 組織をはみだす人


   みんなが考える以上に良く考えて広い思考の幅を持っている人は、組織や派閥に属する人間としては不向きだ。なぜならばそういう人は、いつのまにか組織や党派の利害を越え、いっそう広く考えるようになっているからだ。
   組織や派閥というものは、考え方においても人を枠にはめておくのがふつうだ。それはドングリの集合体のようなものであるし、小魚の群れのようなものでもある。

   だから、考え方の問題で組織になじまなくなっても、自分だけがおかしいと思う必要などない。それは、組織の狭い世界を越えた広い次元に達したということなのだから。
                   〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《32日目》

◇ つごうのいい解釈

 

 「隣人を愛せよ」

   このような言葉を聞いてもおおかたの人は、自分の隣人ではなく、隣人の隣に住む人、あるいはもっと遠くに住む人を愛そうとする。

   なぜならば、自分の隣人はうざったいからであり、愛したくないからである。にもかかわらず、遠くの人を愛することで、自分は隣人愛を実践していると思い込む。

   人は何事も自分のつごうのよいように解釈する。このことを知っていれば、いくら正論を並べても、それが実現化されることが少ないのが理解できるだろう。

                               〈善悪の彼岸

 


🔶 VII. 人について🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸

 

《33日目》

◇ 人のことをあれこれ考えすぎない


   他人をあれこれと判断しないこと。他人の値踏みもしないこと。人の噂話もしないこと。
    あの人はどうのこうのといつまでも考えないこと。
   そのような想像や考えをできるだけ少なくすること。

   こういう点に、良き人間性のしるしがある。
                                     〈曙光〉

 

 

《34日目》

◇ 自己コントロールは自由にできる


    怒りっぽい人、神経質な人はまさにそういう性格を持った人であり、そのような性格はずっと変わらないものだとわたしたちは信じている。そこには、わたしたち人間が成長しきったものであるという根強い考えがある。人の性格は変えられないと思っている。
   しかし、たとえば怒りというものは、いっときの衝動だから自分で好きなように処理できるものだ。怒りをそのまま表に出せば、短気な人間のふるまいになる。ところが、他の形に変えて外に出すことができできる。抑えこんで消えるまで待つこともできる。
   怒りのような衝動の他に、自分に湧いてくる他の感情や気持ちもまた同じで、わたしたちは自由に処理したり、扱ったりできるのだ。まるで、わたしたちの庭に生えてくるさまざまな植物や花を整えたり、木々の葉をもぎ取ったりするかのように。
                                    〈曙光〉

 

 

《35日目》

◇ 強くなるための悪や毒


    天高く聳えようとする樹木。そういう木々が成長するためにひどい嵐や荒れる天候なしにすますことができるのだろうか。

   稲が実るために、豪雨や強い陽射しや台風や稲妻はまったく必要ないのだろうか。
   人生の中でのさまざまな悪や毒。それらはないほうがましでないほうが人は健全に強く育つのだろうか。
   憎悪、嫉妬、我執、不信、冷淡、貪欲、暴力。あるいは、あらゆる意味での不利な条件、多くの障碍。これらはたいていうとましく、悩みの種になるものだが、まったくないほうが人は強い人間になれるのだろうか。
   いや、それら悪や毒こそが、人に克服する機会と力を与え、人がこの世を生きていくために強くしてくれるものなのだ。
                              〈悦ばしき知識〉

 

 

《36日目》

◇怠惰から生まれる信念


   積極的な情熱が意見を形づくり、ついには主義主張というものを生む。たいせつなのは、そのあとだ。

   自分の意見や主張を全面的に認めてもらいたいがために、いつまでもこだわっていると、意見や主義主張はこりかたまり、信念というものに変化してしまう。
   信念がある人というのはなんとなく偉いように思われているが、その人は、自分のかつての意見をずっと持っているいるだけであり、その時点から精神が止まってしまっている人なのだ。つまり、精神の怠惰が信念をつくっているというわけだ。
   どんなに正しそうに見える意見も主張も、絶えず新陳代謝をくり返し、時代の変化の中で考え直され、つくり直されていかなければならない。
                  〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《37日目》

◇ 街へ出よう


   雑踏の中へ入れ。人の輪の中へ行け。みんながいる場所へ向かえ。
   みんなの中で、大勢の人の中で、きみはもっとなめらかな人間になり、きっちりとした新しい人間になれるだろう。
   孤独でいるのはよくない。孤独はきみをだらしなくしてしまう。孤独は人間を腐らせてだめにしてしまう。さあ、部屋を出て、街へ出かけよう。
                         〈デォオ二ュソスの歌〉

 

 

🔶 VIII. 愛について🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸

 

《38日目》

◇ そのままの相手を愛する


    愛するとは、若く美しい者を好んで手に入れたがったり、すぐれた者をなんとか自分のものにしようとしたり、自分の影響下に置こうとすることではない。

   愛することはまた、自分と似たような者を探したり、嗅ぎ分けたりすることでもないし、自分を好む者を好んで受け入れることでもない。
   愛するとは、自分とはまったく正反対に生きている者を、その状態のままに喜ぶことだ。自分とは逆の感性を持っている人をも、その感性のままに喜ぶことだ。
   愛を使って二人の違いを埋めたり、どちらかを引っ込めさせるのではなく、両者のちがいのままに喜ぶのが愛することなのだ。
                               〈漂泊者とその影〉

 

 

《39日目》

◇ 愛の病には


    愛をめぐるさまざまな問題で悩んでいるのなら、たった一つの確実な治療法がある。

   それは、自分からもっと多くもっと広く、もっと暖かく、そしていっそう強く愛してあげることだ。
   愛には愛が最もよく効くのだから。
                                    〈曙光〉

 

 

《40日目》

◇ 愛の成長に体を合わせる


   性欲に身をまかせてしまうのはすこぶる危険だ。というのは性欲だけが二人の絆となってしまい、本来の本当の絆であるべき愛が忘れ去られてしまうからだ。
   愛というのは、ちょっとずつ成長していくものだ。それより先に性欲を追い越させてはならない。愛の発達に少しだけ遅れて性欲がともなうくらいがちょうどいい。
   そうすると、相手も自分も深い愛を体とともに感じることができるのだから。それは心も体も同時に幸せになるということでもある。
                               〈善悪の彼岸

 

 

《41日目》

◇ より多くの愛を欲しがるうぬぼれ


   男と女がどちらも、もっと愛されなくてはならないのは自分のほうだと思っていると、二人の間で滑稽な喧嘩や面倒な問題が生まれてくる。
   つまり二人とも、自分のほうがすぐれているからより多く愛される価値があるといううぬぼれにひたっているのだ。
                  〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《42日目》

◇ 愛は喜びの橋


   愛とは、自分とは異なる仕方で生き、感じている人を理解して喜ぶことだ。
   自分と似た者を愛するのではなく、自分とは対立して生きている人へと喜びの橋を渡すことが愛だ。ちがいがあっても否定するのではなく、そのちがいを愛するのだ。
   自分自身の中でも同じことだ。自分の中にも絶対に交わらない対立や矛盾がある。愛はそれらに対して反撥することなく、むしろ対立や矛盾ゆえにそれを喜ぶのだ。
                      〈さまざまな意見と箴言

 

 

《43日目》

◇ずっと愛せるか


    行為は約束できるものだ。しかし、感覚は約束できない。なぜなら、感覚は意思の力では動かないものだからだ。
   よって、永遠に愛するということは約束できないように見える。しかし、愛は感覚だけではない。愛の本質は、愛するという行為そのものであるからだ。
                   〈人間的な、あまりに人間的な〉 

 

 

《44日目》

◇ 最大のうぬぼれ


   最大のうぬぼれとは何か。

   愛されたいという要求だ。

   そこには、自分は愛される価値があるのだという声高な主張がある。そういう人は、自分を他の人々よりも高い場所にいる特別な存在だと思っている。自分だけは特別に評価される資格があると思っている差別主義者だ。
                   〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《45日目》

◇ 愛することを忘れると


   人を愛することを忘れる。そうすると次には、自分の中にも愛する価値があることすら忘れてしまい、自分すら愛さなくなる。
   こうして、人間であることを終えてしまう。
                                     〈曙光〉

 

 

《46日目》

◇ 愛する人は成長する


   誰かを愛するようになると、自分の欠点やいやな部分を相手に気づかれないようにとはからう。これは虚栄心からではない。愛する人を傷つけまいとしているのだ。
   そして、相手がいつかそれに気づいて嫌悪感を抱く前に、なんとか自分で欠点を直そうとする。こうして人は、よい人間へと、あたかも神にも似た完全性に近づきつつある人間へと成長していくことができるのだ。
                             〈悦ばしき知識〉

 

 

🔶9.知について🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸

 

《47日目》

◇本能という知性が命を救う


   食事をしないと、体が弱り、やがて死ぬ。睡眠が足りないないと、四日程度で体が糖尿病と変わらない状態になる。まったく眠らないでいると、三日目から幻覚を見るようになり、やがて死を迎える。
   知性はわたしたちが生きていくのを助けてくれるが、わたしたちは知性を悪用することもできる。知性はその意味で便利な道具と同じだ。
   そしてわたしたちは、本能を動物的なもの、野蛮なものとみなしがちだが、本能は確実にわたしたちの生命を救う働きだけをする。本能は大いなる救済の知性であり、誰にでも備わっているものだ。
   だから、本能こそ知性の頂点に立ち、最も知性的なものだと言えるだろう。
                                〈善悪の彼岸

 

 

 《48日目》

◇力を入れすぎない


   自分の力の四分の三ほどの力で、作品なり仕事なりを完成させるくらいがちょうどいいものが出来上がる。
   全力量を用い精魂を傾けて仕上げたものは、なんとも重苦しい印象があり、緊張を強いるものだからだ。それは一種の不快さと濁った興奮を与えることをまぬかれない。しかも、それにたずさわった人間の臭みというものがどこかついてまわる。
   しかし、四分の三程度の力で仕上げたものは、どこか大らかな余裕といったものを感じさせる、ゆったりとした作品になるそれは、一種の安心と健やかさを与える快適な印象を与える作品だ。つまり、多くの人に受け入れられやすいものが出来上がるのだ。
                    〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《49日目》

◇自分の哲学を持つな


「哲学を持つ」と一般的に言う場合、ある固まった態度や見解を持つことを意味している。しかし、それは、自分を画一化するようなものだ。
  そんな哲学を持つよりも、そのつどの人生が語りかけてくるささやかな声に耳を傾けるほうがましだ。そのほうが物事や生活の本質がよく見えてくるからだ。
   それこそ、哲学するということにほかならない。
                     〈人間的な、あまりに人間的な〉

 

 

《50日目》

◇徹底的に体験しよう


   勉強して本を読むだけで賢くなれはしない。さまざまな体験をすることによって人は賢くなる。もちろん、すべての体験が安全だというわけではない。体験することは、危険でもある。ひどい場合には、その体験の中毒や依存症になってしまうからだ。
   そして、体験しているときはその事柄に没頭することが肝心だ。途中で自分の体験について冷静に観察するのはよくない。そうでないと、しっかりと全体を体験したことにはならないからだ。
   反省だの観察だのといったことは、体験のあとでなされるべきだ。そこからようやく智慧というものが生まれてくるのだから。
                              〈漂泊者とその影〉

 

 

《51日目》

◇よく考えるために


   きちんと考える人になりたいのであれば、最低でも次の三条件が必要になる。
   人づきあいをすること。書物を読むこと。情熱を持つこと。
   これらのうちどの一つを欠いても、まともに考えることなどできないのだから。
                              〈漂泊者とその影〉

 

 

🔶10.美について🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸

 

《52日目》

◇理想や夢を捨てない


   理想を捨てるな。自分の魂の中にいる英雄を捨てるな。
   誰でも高みを目指している。理想や夢を持っている。それが過去のことだったと、青春の頃だったと、なつかしむようになってはいけない。今でも自分を高くすることをあきらめてはならない。

   いつのまにか理想や夢を捨ててしまったりすると、理想や夢を口にする他人や若者を嘲笑する心根を持つようになってしまう。心がそねみや嫉妬だけに染まり、濁ってしまう。向上する力や克己心もまた、一緒に捨て去られてしまう。
   よく生きるために、自分を侮蔑しないためにも、理想や夢を決して捨ててはならない。
                〈ツァラトゥストラはかく語りき

 

 

《53日目》

◇絶えず進んでいく


「どこから来たか」ではなく「どこへ行くか」が最も重要で価値あることだ。栄誉は、その点から与えられる。
   どんな将来を目指しているのか。今を越えて、どこまで高く行こうとするのか。どの道を切り開き、何を創造していこうとするのか。
   過去にしがみついたり、下にいる人間と見比べて自分をほめたりするな。夢を楽しそうに語るだけで何もしなかったり、そこそこの現状に満足してとどまったりするな。
   絶えず進め。より遠くへ。より高みを目指せ。
                〈ツァラトゥストラはかく語りき

 

 

《54日目》

◇自分しか証人のいない試練


   自分を試練にかけよう。人知れず、自分しか証人のいない試練に。
   たとえば、誰の目のないところでも正直に生きる。たとえば、独りの場合でも行儀よくふるまう。たとえば、自分自身に対してさえ、一片の嘘もつかない。
   そして多くの試練に打ち勝ったとき、自身で自分を見直し、自分が気高い存在であることがわかったとき、人は本物の自尊心を持つことができる。
   このことは、強力な自信を与えてくれる。それが自分への褒美となるのだ。
                                〈善悪の彼岸

 

 

                                  おわりに

   たいへん長くなってしまいました。最後まで読んでくれた皆さん、本当にお疲れさまでした。

   さて、これからですがやっぱり本が好きなので次のブログも本の紹介をしていきたい。最近読んだ本では、〝アドラー〟についての本で「嫌われる勇気」そして「幸せになる勇気」です。どちらも打ちのめされるような衝撃を受けました。それからイギリス人でクリストファー・ロイド氏の書いた「137億年の物語」です。これは地学、生物学、世界史を合体し、宇宙誕生のビッグバンから日本で起こった東日本大震災福島第一原子力発電所の大事故まで、全編物語的に書かれた圧倒される本です。いずれも紹介するのは難しく時間がかかりそうですがチャレンジします。