♨️黒川温泉に学ぼう!(第4回)


今回は「黒川温泉に学ぼう」の4回目になります。今回の投稿を最終回にするつもりでしたがやっぱり無理でした。最終回は次回持ち越しとなります。話がどんどん横道にそれてしまうのが私の欠点ですが、今回も同じでした。長すぎてつき合いきれないという人は多いと思っていますが、どうもやめられません。どうぞご容赦下さい。それでも読んでいただければ本当にうれしいです。それでは今回は以下の内容がテーマになります。日本への外国人旅行者が少ない要因になっている2番目の理由についてです。




標題に「…発想が貧困である」と極端な表現を使いましたが、これは日本と外国、取り分け欧米諸国との習慣、意識が大きく異なるがために生じている文化の違いであり、それを単純に「貧困である」とか「劣っている」というのは本来適切ではないことをお断りしておきます。その上で少しインパクトを狙った表現にしました。


もちろん日本には日本の文化、伝統に基づいた娯楽、楽しみがあります。例えば今も全国至るところにある〝祭〟です。それぞれに特徴があり、物語があり、悠久の歴史を持っています。昨年ユネスコ無形文化遺産に、「山・鉾・屋台」として18府県、33件の祭りが登録されました。その他にも青森の「ねぶた祭」や東京神田の「神田祭」、大阪岸和田の「だんじり祭」、徳島の「阿波踊り」、それから長野県諏訪の「御柱祭」など、日本人だけでなく外国の方にも是非紹介したい日本の風土の中で生まれ、引き継がれている〝祭〟があります。その他にもユネスコ無形文化遺産に登録されている代表的なものとして、「能楽」、「人形浄瑠璃文楽」、「歌舞伎」、「雅楽」、「和食(日本の伝統的食文化)」、「和紙(伝統的紙漉き)」などがあります。それからまだまだ無形文化遺産に登録されていない日本の伝統的文化はたくさんあります。例えば「大相撲」があります。あるいは「舞妓」「芸妓」の存在もあります。宮中(皇居)や伊勢神宮で行われている日本を代表する「御神楽」は、平安時代中期にはほぼ現在の形が完成したとされ、今もその時代のままに雅楽と舞の構成で行っています。また地方にはその土地ならではの「里神楽」(江戸の里神楽など)があり、海外公演まで行っているものもあります。更に日本には茶道や華道、武道(剣道、柔道、空手、合気道少林寺拳法弓道薙刀など)、禅、浮世絵などの日本絵画、俳句や短歌などの文芸、盆栽や日本庭園、日本の伝統的家屋など数多くの文化があります。そうした日本の文化のいくつかは今の日常の生活の中に存在しています。日本の観光業を考えた時、こうした日本の文化を徹底して海外の方に伝える。伝える工夫をさまざまに行い、日本文化を全面に打ち出していくことが、日本の観光業の課題であり、今回の結論でもあります。今回結論を先にしました。これで終わりにしてもいいのですが、それでは全く説得力がありません。これからその結論に至るプロセスを説明していきます。


さて、話が変わります。私は今から3年前、2014年の10月に社員旅行でスイス、ドイツ、オーストリアの3ヶ国のツアー旅行に行ってきました。初めてのヨーロッパ旅行で、大変貴重な経験をさせていただきました。スイスではレマン湖クルーズとシヨン城見学、そしてユングフラウ観光。ドイツではノイシュバンシュタイン城観光と世界遺産ビース教会見学。オーストリアでは世界遺産ザルツブルク観光、世界遺産ハルシュタット湖遊覧と散策。ウイーンでは世界遺産シェーンブルン宮殿世界遺産ウイーン観光を楽しみました。丁度1週間、ヨーロッパ現地での観光は実質5日間と短く少しハードな日程でしたが、ヨーロッパの雰囲気を味わうことはできました。ヨーロッパは、是非また行ってみたいところです。
【写真↑ フランス シャモニー、スイス レマン湖とシヨン城、スイス ユングフラウ、ドイツ ノイシュバンシュタイン城とビース教会、オーストリア ザルツブルクハルシュタット湖など】

そう、確かにヨーロッパはまた行ってみたいとところですが、では改めてディズニーランドにあるシンデレラ城のモデルとなったと言われているドイツの「ノイシュバンシュタイン城」やオーストリアハプスブルク家の宮殿だった世界遺産シェーンブルン宮殿」の建物だけ、あるいは世界遺産の「ウイーン」の街並みだけを見に行きたいかといえば、そうではありません。今度同じところに行くとすれば、その素晴らしい景観がある場所のそこに生活する人々の営みについて知りたい。そこでの人々の習慣や気質、そして文化の一端でもいいから知りたい。そう思います。多分多くの方が同じように思うでしょう。これは日本に来る外国人観光客の方も同じだと思います。現に日本に来る外国人観光客が増えているのに、ただ世界遺産の施設や景観を見せるだけの観光地では外国人観光客が減っているところもあります。
私の3年前のヨーロッパ旅行のの話に戻りますが、旅行の最終日はウイーンで午前中シェーンブルン宮殿観光とバスでのウイーン観光。昼食の後は夜まで自由時間でした。実はこの自由時間が一番印象に残っています。まず午後3時からウイーンのオペラ座を現地ガイドが日本語で案内してくれるということを知り、時間に行って案内してもらいます。ハンサムな好青年で、日本にも数年滞在したことがあるということで日本語は完璧でした。やっぱり日本語での詳しい説明があるのとないのとでは大ちがいで、ガイドがなかったら建物の中に入って、〝すごいな〟と思っても、日本に帰ったらほとんど記憶に残らなかったでしょう。

【↑写真上=ウイーンオペラ座内観客席 左下=オペラ座入口 右下=オペラ座内での日本語でのガイド案内(こちらを向いている男性がガイド)】

それから事前に旅行ガイドでオーストリアの郷土料理がウイーンで食べられるというレストランを調べ、地図を片手にそのレストランまで行って、片言の英語で予約を頼んだのですが、あいにく夜9時まで満席とのことで諦めました。その代わりにウイーン中心部のダウンダウンを散策しながら適当なレストランを探し、そのレストランに職場の仲間7人で入りました。それぞれが違うメニューを頼み、取り皿も用意してもらっていろいろな料理をみんなで取り分けて味わいました。もちろんワインも入って盛り上がり、ヨーロッパ旅行の最後の夜を十分楽しみました。実は最初いきなり予約なしでレストランに入ったときは断られ、諦めて店を出ようとしたときに店のスタッフから呼び止められ、急遽席を用意してくれました。せっかく遠いアジアの国から来たのでなんとかしてあげようと思ったのでしょうか。取り皿も頼むと直ぐに持って来てくれたり、いろいろ親切に対応してくれました。またメニュー表は日本語表記のものがあり、料理内容をだいたいイメージできて注文もほとんど悩むことなくできました。ほんの一端ではありますが、ツアーの決まった食事を日本人だけで食べるのと違い、レストランのスタッフのサービス(イレギュラーの対応を含め)の質を知ることができました。昔アメリカのレストランを利用したときもそうでしたが、ツアーの決まった食事ではなく、少数グループなどでレストランに入ってメニュー表で注文を頼むといろいろ勉強になります。例えばレストランのスタッフのサービスクォリティや仕事への取り組み姿勢、店の雰囲気。利用しているお客の様子や着ている服のセンスなども観察できます。アメリカもヨーロッパのレストランも雰囲気を大切にします。蛍光灯をむき出しで使っているレストランはありません。それなりのシャンデリアや間接照明の電球です。したがって日本のレストランに比べ、店内はやや暗い。理由は蛍光灯はただ明るいだけで雰囲気がないということです。もっとも日本でも新しくそれなりの店舗では、ほとんどが間接照明を使うようになっていますが。それからもちろんテーブルクロスは大半のレストランで使っています。水を飲むのもほとんどのレストランで洒落たグラス(夕食をレストランでとる場合はワインを飲むのが普通なので兼用でワイングラスを置く場合も多いようです)を使っています。【写真↑ (左上 )レマン湖シヨン城近くのレストラン「タルティフレット」《昼》、(右上)ハルシュタット湖沿岸の「白馬亭」《昼》、(左下)ウィーン「ラートハウスケラー」《昼》、(右下)ウィーン「グヤーシュ」《夕食》】
以前この投稿のシリーズでも一度紹介しましたが、私の仕事は伊勢神宮近くで参拝・観光客を対象に、土産物販売兼食堂業を行っているところです。食堂は一般の人と団体の方の両方が対象で、座席数は1階2階合わせて約1200席ほどです。特に忙しい月は連日満席状態が続きます。従って当店のような店で、グラスは洗う、保管場所に保管するなどのメンテナンスを考えれば、ヨーロッパのレストランのようなウォーターグラスを使う訳にはいきません。某ビールメーカーの名前が入ったグラスなども使用しています。でも、たまにフランスなどヨーロッパからのツアーのお客様が利用することがあります。そのヨーロッパのお客様に当店のグラスを出すときは(ヨーロッパのレストランで使っているようなグラスはないので)、いつも気が引けてしまいます。でも、私がこうした問題意識を持つようになったのは、短い期間でしたがヨーロッパ旅行に行ったから分かったことです。
これから本当に日本が観光立国を目指していくためには、先ほど書いたように日本文化を全面に打ち出していくべきです。しかしそれは日本人の一人よがりで一方的なものではなく、これからは彼らの思考の特徴や行動スタイルなども把握して対応するようなクォリティのレベルが求められるでしょう。
【↑写真 (左上)ウィーンで食事をしたレストラン (右上)日本語表記のメニュー表 (下2枚)会食の様子】




さて、ここで外国の事例を紹介しましょう。一人の女性が18歳でヨーロッパに渡ってホテル運営を学び、23歳でミャンマーに帰ってリゾートホテルを立ち上げて軌道に乗せるというその取り組みが海外からも注目されているのです。日本とは条件が異なりますが、そのホテル運営の考え方は大変参考になります。

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【↑ 2016年10月26日 日本経済新聞


上の新聞記事は昨年10月26日の日本経済新聞1面に掲載された特集記事で、「アジア ひと未来〝女性が拓く〟」というテーマのシリーズ第4回目の記事になります。日本で現在観光に携わる人、あるいはこれから観光に携わることを考えている人には大変参考になると思います。ミャンマー(1989年以前はビルマ連邦)というと第2次世界大戦後約半世紀に渡って軍による統治が続いた国で、現在は国家顧問とという立場で政治の世界で活躍しているアウンサンスーチーさんは、軍政時代長く自宅軟禁されていました。そんな軍事独裁色の強い国にあって観光事業で活躍することになる一人の女性の記事ですが、その人生は正に〝物語〟です。それでは写真の記事は読みにくいので、記事の全文を掲載します。

ミャンマー中部シャン高原で満々と水をたたえるインレー湖。少数民族インダーが昔ながらの水上生活を営み、野菜の水耕栽培で生計を立てる。
観光客は舟で水上寺院を訪ね、秘境の暮らしを体感する。湖畔では伝統的な腰巻きスカート「ロンジー」を身につけたイン・ミョー・スー(ミスー、44)が出迎える。
木立には40棟のヴィラが点在する「インレー・プリンセス・リゾート」を経営する。2013年には米フォーチュン誌などが選ぶ「グローバル女性リーダー賞」を受賞。勃興期のミャンマー観光業への貢献を通じて「自身のビジネス知識を途上国の女性に伝承し、教育した」と高く評価された。
祖国は旧軍事政権下で長く国際社会から孤立してきた。ミスーは湖畔の小村で生まれたが、英語を話せる父を欧米からの旅行者がまれに訪ねてくることもあった。「私たちはなぜこんなに違うの」。好奇心が湧いた。
外国への興味は自国への疑問に変わった。16歳の時、学生中心の民主化運動に加わった。1988年のことだ。輪の中心にアウン・サン・スー・チー(71)がいた。運動は軍に武力鎮圧され、数千人が命を落とした。
「外の世界を見たい」。18歳で父の友人を頼って欧州に渡り、フランスでホテル運営を学んだ。父が投獄されたと聞いて帰国したが、長女まで捕まるのを恐れた母に追い返され、勉強を続けた。
23歳で帰郷すると「子供の頃からの夢」という湖畔リゾートの立ち上げに奔走した。場所は眺めが好きな東岸。竹製屋根のレトロな木造建築と、スパや無線インターネットなどの最新設備を融合させ、欧州仕込みの接客術を徹底した。古くからの地元の友人、アウン・ジョウ・スワ(41)は「こんな山間の湖畔で、彼女は現在型のリゾート経営を確立した」と驚く。
「外」への憧れを無批判に持ち込みはしなかった。外を見たからこそミスーの意識は自身を育てた「内なるもの」に向かった。「インレー湖についてあまり知らないと気づき、恥ずかしくなった」。水上生活、民芸品、郷土料理……。かけがえのない地域の伝統や文化を伝える活動を始めた。
若者が住み込みで学ぶ学校を設け、毎年40人に語学や接客の心得、郷土の伝統を教える。卒業生のナン・キン・メイ(20)は「ミスーさんは湖の存在を世界に広めてくれた」。ミスーは言う。「次の世代が祖国を知らなければ、それは私たちのせいです」。貴重な異文化体験と優れたサービスは、毎年1万人を超す宿泊客を吸い寄せる。
88年に始まった民主化運動から四半世紀余り。ついに政権を握ったスー・チーは真の民主化を目指し、ミスーはリゾート経営を通じて祖国の経済発展に貢献する。昨年11月の総選挙を経て、国会における女性議員の比率は3%から13%へ高まった。長かった軍政が幕を閉じ、国家として再出発したミャンマーを、強くしなやかな女性たちがけん引する。

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いかがでしょうか。ここにもこれからの日本の観光業を更に飛躍させていくための重要なヒント、手本にしていいプロセスが紹介されています。果たして日本の観光業に携わる人の中にどれだけこんな発想を持って事業を考えている人がいるでしょうか。先代から引き継いだ事業を、これまで通りの発想の枠の中で取り組んで一喜一憂し、結果事業収入は縮小して現在に至っているというケースが多いのではないでしょうか。また、既に10年、20年と同じ事業に携わっている人は、事業内容を革新して飛躍させるといっても〝革新させる〟ということそのものは、今まで自分がやってきたことを全否定することでもあるので現実にはほぼ誰もできない。みんな口先だけで「革新」、「革新」と言っているケースがほとんどでしょう。また、10年、20年とやっていると、それまでの仕事のクセ、意識が染みついてしまいます。
そのことに関連して、また新聞記事を紹介します。日本経済新聞はご存知のように角界で活躍された著名な方(日本人中心ですが一部日本と繋がりのある外国人も含む)の出世から執筆当時までの半生を毎日連載で描く自伝的読みもの『私の履歴書』という61年の歴史を持つ連載記事があります。私の大好きな記事で、毎日欠かさず読んでいます。先月5月はあのディズニーランド、ディズニーシーのオリエンタルランド会長兼CEOの加賀美俊夫さんが執筆しています。その5月13日の記事になります。【↑日本経済新聞5月13日の『私の履歴書』】

この5月13日の記事には正に東京ディズニーランド(TDL)開園直前の様子が書かれています。そしてこの記事のほぼ真ん中にこんな記事があります。
中途採用などで社員もどんどん入ってきた。レジャー施設で働いたことのある人材は採らなかった。かつていた施設の接客のクセが顔を出し、ディズニーのスタイルをおろそかにしがちになる。白紙から育てたかった」。

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この加賀美会長の書かれた記事、その気持ちは多分皆さんも分かると思います。既存のものと全く違うものを創ろうとしたら、既存の施設でクセのついてしまった人はかえって弊害になってしまう。しかし、全く同質の施設、同質の仕事のレベルを求めるのであれば「経験者歓迎」でいいわけです。

では、既存の観光地の観光施設で働いている人ではもうその事業の革新は不可能なのでしょうか。そんことはありません。確かに観光事業に長年携わってきたた方が、今までのやり方を変えることは大変な精神的苦痛を伴います。「いったい今までやってきたことはなんだったんだ」と自己嫌悪に陥ることもあるでしょう。でも、先代から引き継いだ温泉旅館の仕事から始まって温泉地そのものを全く新しい温泉地へと創造(再生というレベルを超えている)した人がいます。


その名は「後藤哲也」さんです。そもそもこの「黒川温泉に学ぼう」という投稿を始めたのは黒川温泉がこれからの日本の温泉地、観光地の進むべきモデル、手本を示しているからです。全く無名の温泉地を、ミシュラン・グリーンガイドで二つ星を取得するという日本の観光地のトップレベルにまで押し上げた人が後藤哲也さんです。後藤さんは終戦の混乱時期に家業を支えるため学校を辞めざるをえなくなり、家業の温泉旅館「新明館」を先代(実質的には先先代の創業者の祖父)から引き継ぎます。温泉旅館「新明館」をなんとかもっと多くの方に利用してもらいたいという一心で、ただ一人ノミとカナヅチだけで2年がかりで洞窟風呂を造ったり、裏山の景観を良くするためにこれも一人ツツジの木を植樹していくなどの努力を黙々と続けました。その一方で旅館をもっと良くするため全国の有名な観光地を訪ね学びます。取り分け学ぶことの多い京都は毎年訪れ、寺院の庭などを観察して、良いところを自分の新明館にも取り入れて改善を進めていきます。それは1回、2回というレベルではなく、毎年欠かさず京都の寺院などを訪れ観察をし続けるというものでした。そしてその定期点検観察によって重大な変化を発見するのです。その変化の内容とは・・・・

その変化を自分の目で確認することで、今後の黒川温泉の行くべき方向を明確につかんだのです。と言っても地元黒川温泉では、後藤さんのことをだれも相手にしてくれませんでした。明確に方向性をつかんでも、その後の後藤さんは自分の新明館の裏山などで、一人自然な雑木林をつくるために植樹の試行錯誤をしながらノウハウを身につけていきます。後藤さんが黒川温泉の再生のために中心的役割を果たすのは、それからほぼ20年、50歳を過ぎてからです。後藤さんの持つ黒川温泉のあるべき街の景観構想と数十年に渡る経験のある植樹のノウハウなどを黒川温泉を挙げて取り入れていくことで、街はみるみる変わっていくのです。


こうしてミャンマーでリゾート経営を確立させたイン・ミョー・スーさんや黒川温泉の後藤哲也さんという存在を考えると一人の人間の力とは大変大きいと感じます。仮の話は確かに〝仮〟でしかありませんが、仮にミャンマーにイン・ミョー・スーさんがいなければ、現在のようなリゾート経営をする人が他に現れていた可能性はほとんどないでしょう。熊本県にある黒川温泉に後藤哲也さんという人が存在しなければ、黒川温泉は今も県外でその名を知る人のほとんどいない温泉地のままだったでしょう。そうです、たった一人の人間が存在したことで地域を革新し、国内だけでなく世界にその名を知らしめることにつながっているのです。
私の愛読書にベストセラーになったアドラーの思想を青年と哲人二人の対話形式で紹介した『嫌われる勇気』という本があります。その最後にこんな対話があります。

(哲人)・・・わたしは長年アドラーの思想とともに生きてきて、ひとつ気がついたことがあります。
(青年)なんでしょう?
(哲人)それは「ひとりの力は大きい」、いや「わたしの力は計り知れないほどに大きい」ということです。
(青年)どういうことでしょうか?
(哲人)つまり、「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、・・・

この対話の一節は、少し違和感を感じていました。特に〝わたしの力は計り知れないほどに大きい〟という表現は少し極端すぎるのではと感じていました。しかし、イン・ミョー・スーさんや後藤哲也さんの生きてきた軌跡をたどれば、アドラーの表現は決して極端なものでないことが分かります。



さて、また話を変えます。最近、観光地である伊勢にいて感じるのは、外国からの観光客が幅広くなっていると感じます。アジアでは今まで台湾、中国、韓国の3ヶ国が中心でしたが、他の国からも来るようになりました。特にタイから日本へはビザなし渡航が可能になった効果もあってか、タイ人の観光客が目立つようになりました。その他にも今までほとんど見かけなかったシンガポールやマレーシアなどの東南アジアからの観光客も伊勢に来るようになりました。また欧米からも今までほとんど来ることのなかった国からの観光客も来るようになりました。伊勢神宮を訪れる海外観光客には特徴があります。アジアでは親日国の台湾からの観光客が圧倒的な数で、全体のインバウンド客の3〜4割を占めています。それから日本全体で欧米人の中ではアメリカからの渡航者が最も多く、2015年実績になりますが商用を除く観光目的の渡航者は約75万人と比較的多いのですが、どういう訳か伊勢神宮を訪れる観光客はほとんどいませんでした。欧米から伊勢神宮を訪れる国はフランス、ドイツの2ヶ国がほとんどでしたが、最近やっとアメリカからの観光客も見かけるようになりました。私は今の職場で9年近くになりますが、今年初めてスイスの団体客が当店で昼食で利用してくれました。私がスイスのユングフラウに行ったことがあることを添乗員に話したら、添乗員がスイスの皆さんに「この人はスイスのユングフラウに行ったことがあるそうです」と紹介してくれ、皆さんから「オーゥ」という驚きの声と拍手をいただきました。これからも日本はますます外国からの旅行者、そして欧米からの旅行者が増えていくでしょう。昨年2016年は2404万人のインバウンド客がありました。今年も前年比で15%増くらいで推移しています。
【表↑ 2016年度国別インバウンド数 日本政府観光局(JNTO)】


しかし、以前このシリーズでデービット・アトキンソンさんの『新観光立国論』の中で、インバウンドの旅行者は日本だけでなく世界的に増加傾向にあることと日本はタイに比べ欧米からの旅行者は5分の1に過ぎないということが書かれていることを紹介しました。先ほど紹介した昨年のインバウンド客2404万人の内、韓国、中国、台湾の3ヶ国だけで1563万人で全体の65%を占めています。この3ヶ国だけで2013年の全インバウンド数1036万人をはるかに超える急激な増加になっていて、確かにその増加している国への対応は必要でしょう。しかし、日本のことを世界の人に理解してもらうためにも、もっとバランスよく欧米などから旅行者を比率を増やすべきです。「欧米の旅行者は、中国の人などに比べて土産をほとんど買わないので、増えてもメリットがない」と思っている観光地の人も多いでしょう。確かに私の店でも欧米の皆さんは当店で食事をしても当店の土産品をほとんど買いません。日本のように職場への土産の習慣や中国の様に親戚まで配るような習慣はほとんどありません。しかもアジアの国に比べ、旅行期間が3倍位になります。だいたい2週間程度。当店を利用するドイツ人のツアーで、19日間というのもあります。当店の場合ツアー期間のちょうど中間くらいでの来店が多く、そのあとも旅行は続くのでまだ荷物を増やしたくないという事情もあるでしょう。また、たまに買う場合も菓子類などは少なく、あってもお土産ではなくその日ホテルで自分が食べる分を買うという感じです。多くの欧米人は日本的な文化、特徴を持った商品を厳選して求める傾向があります。食品では日本の緑茶などには関心を示します。とにかく決してムダ使いはしません。それでも日本全体で考えれば、ホテル、旅館の利用を含め欧米人が日本旅行で支出する金額は、旅行期間が長い分アジアの国々より多くなります。お隣の韓国はインバウンド客の40%を超える600万人以上が中国からの観光客です。ところが昨年末に北朝鮮への対応でアメリカの支援で高高度ミサイル防衛システムTHAAD(サード)を配備しました。そのことに反発した中国は韓国への渡航にストップをかけます。そのため韓国は中国からの観光客が激減していて、多くの観光地でその影響を受けています。日本も2012年9月の尖閣諸島国有化問題で中国が反発、マスコミが煽って各地では暴動が起き、現地の日本企業が窓ガラスを割られたり、大変な被害を受けました。中国からの観光客も一時的に激減しました。翌2013年は全体のインバウンド渡航者数が前年比24%で増加している中、中国だけがマイナスとなりました。現在はまた大幅に増加し昨年実績で637万人が日本を訪れ、全体のインバウンド数のトップで26.5%を占めるようになっています(昨年は中国人の爆買いで話題になりました)。しかし、インバウンド渡航者が1国に集中しすぎるのは、長期的に日本の観光産業として考えると好ましくありません。取り分け中国、韓国と日本の関係は政治的にも危うさを持っています。もっと世界からバランスよくきてもらう努力をすべきでしょう。


そのことを地方自治体が中心となって取り組んでいるところがあります。岐阜県高山市です。高山市はもともと貴重な財産を持っています。歴史的な街並みです。高山(三町)は国が選定した重要伝統的建造物群保存地区の一つになっていますが、この保存地区というのは全国で現在114地区が選定されています。
【写真↑ 高山市ホームページより】
高山市三町地区は、全国の保存地区114地区のほとんどが規模が小さい中にあって、比較的広い面積があります。同じように広い面積の保存地区というと、奈良県橿原市今井町地区がありますが、高山市三町地区との違いは〝人の営み〟という点です。三町地区は市のほぼ中心地にあり、いわば市のダウンダウン、下町という感じで、今も先代からの家業を継いで生計を立てている家が多くあるようなところです。このことが他の保存地区と違う貴重な財産となっています。そしてこの財産を中心に据え、市が観光事業の振興を行なっています。高山市は外国人の受け入れを市の重要な柱と位置づけ、そのものずばり観光戦略課を設け、戦略方針に基づいたさまざまな取り組みを行なっています。例えば外国人向けのパンフレットは8ヶ国語で英語に関しては、北半球の英語圏と南半球の英語圏(オーストラリア、ニュージーランド等)の2種類のパンフレットを用意しています。
【写真↑ 飛騨高山観光公式サイト】
更に高山市内の散策用マップ〝飛騨高山ぶらり散策マップは、10ヶ国の言語が用意されていて、その中の一つはヘブライ語イスラエルで使われている言語)まであります。
【写真↑ 10ヶ国語の飛騨高山ぶらり散策マップ】
おそらく国内の他の市町村でここまでのレベルでやっているところはないでしょう。この他にも高山市は、一つずつ国を選定した上で、もちろんその国の言語を使って観光用のプロモーションビデオを作成し、その国へ出向いて営業活動をしています。また実際に外国人を受け入れる宿泊施設や飲食店などは、外国人向けにさまざまな工夫をしています。例えば高山市内にあるそば屋『恵比寿』の事例です。そこでは外国人向けに英語でそばの食べ方をマンガで表わしたものを用意しています。そこにはそばはズー、ズーと音を立てて食べていいことが書かれています。これは外国人が喜びます。そば一つ食べることで、現在の日本の習慣、文化を知ることができるのです。もちろんこれは店の従業員が作ったものです。このような地元の店や施設の外国人向けの工夫ある取り組みに対しては市の補助制度もあり、創意工夫を支援しています。
【写真↑ トリップアドバイザーより】
こうした高山市の取り組みの結果、高山市の外国人受け入れ人数、取り分け欧米人の受け入れ人数は他の市町村行政を圧倒しています。平成28年に出された高山市観光統計によれば高山市の宿泊施設で宿泊した延べ人数は207.1万人。そのうち外国人の延べ宿泊人数は36.4万人で、高山市の人口87,701人(2017.4.1現在)を考えると驚異的な数字です。更にヨーロッパ70,232人、北米21,771人、オセアニア18,342人と欧米人の比率外国人高いのも特徴です。
外国人が海外旅行で、実際に利用した施設の評価の書き込みとその閲覧で人気のあるウェブサイト「トリップアドバイザー」は、毎年『外国人に人気の日本のレストランランキング』を発表しています。その2016年度ランキングで、なんと高山市にある『平安楽』が堂々の1位にランクされているのです。
【写真↑ トリップアドバイザーより】
これはそれだけ外国人の観光客が多い点と受け入れ側のレストランの努力によるところが大だと思います。
高山市は黒川温泉と同様に、そして黒川温泉とはまた違った視点、すなはち戦略の明確化、営業対象国を絞り営業活動を徹底、事業主・従業員・市民の創意工夫など、これからの日本の観光業のモデル、先進事例として謙虚に学ぶべきです。



もちろん現状中国、韓国、台湾の3ヶ国で、全国のインバウンド客の65%を占める現状では、この3ヶ国への対応は当然必要でしょう。しかし、先ほども説明したように日本はまだ欧米先進国からの訪日観光客が少なすぎるのです。したがってここでは欧米各国・欧米人に関する考察を中心にすすめたいと思います。


欧米人の余暇、レクレーションというと〝バカンス〟という言葉を思い浮かべる人は多いでしょう。取り分けヨーロッパ、特にフランスが有名です。バカンスという言葉そのものがフランス語です。フランスでバカンスが本格化したのは、今から80年ほど前に有給休暇2週間の取得を国が法制化して、バカンスなどを推奨したことに始まります。現在は有給休暇は5週間の取得が法制化されています。もちろん日本と違い、有給休暇の取得はほぼ100%です。日本では制度はあっても取得率はやっと50%という状況なので大きな違いがあります。その5週間の有給休暇の内、やはりメインは夏のバカンスで、平均3週間程度を取ってバカンスを楽しみます。このフランスのバカンス、意外に質素と言っていいかもしれません。遠く海外でバカンスというのは極少数派です。ほとんどがニースなどの地中海沿岸か地中海に近いフランス南部がほとんどで、国外でもスペイン、イタリアなど、地中海沿岸に接する国が多いようです。そして、ほとんどが高級ホテルに泊まるのではなく、「友人・親戚宅で過ごす」「民宿」「貸別荘・ペンション」「キャンピングカー」などを使います。ただ質素とはいえ、家族4人で3週間の滞在ともなればその費用は日本円に換算して20万円以上にはなるでしょう。それでも大半の人が毎年行く場所を変えてバカンスに出かけます。〝羨ましい〟と日本人なら誰でも思うでしょう。
【写真↑ 地中海沿岸にあるフランス ニースの海岸 ウキペディア「バカンス」(2016.8.30更新)より】
しかし問題があります。日本人が同じように、フランス流のバカンスで楽しめるかという点です。どんなバカンスのスタイルか?朝は家族でも自由に起きて、自分の食べる分だけ作って食べます。あとは昼まで日光浴をしながら本を読んだり、音楽を聴いたり、近辺の散策をしたり、あるいはただボ〜っとして過ごします。昼はみんなで軽食をとって昼寝と日光浴。また読書をしたり、ただボ〜っとして過ごす。そして夕方は夫婦や家族で散歩。浜辺や湖畔などにあるベンチに座って夕日が沈むのを眺める。日が沈んだら夕食の準備を始め、準備が出来たら家族みんなで2時間はかけて会話とワインと食事を楽しむ。そんな1日を3週間続けるのです。近くの観光地に足を運んだりしません。こんな3週間に日本人は果たして耐えられるでしょうか?3週間日光浴をしながらただボ〜っとしていられるでしょうか?多分できないでしょう。1日、2日は非日常で楽しいと思うでしょう。しかし、3日目位からその感激もなくなり、田舎の静けさに飽きて退屈感を感じ始める。4日目には誰ともなくバカンスの地から「どっかに行こう」ということでバカンスの地から観光地を観光し、バカンスの地に戻ったら誰ともなく「もうウチへ帰ろう」と言いだす。そう、もう5日目で都会の喧騒さが懐かしくなり、無性にパチンコがしたくなる。あるいは仕事のことが気になって仕方ない。多分そんな感じでしょう。もちろん日本人でもサーフィンの大好きなサーファーが、休みと金が十分あったら3週間でも4週間でもサーフィンのできる海外の同じ地で、サーフィンを楽しめるでしょう。しかしその場合はあくまでサーフィンを楽しむのであって、日中ただボ〜っとしている訳ではないと思います。ただフランス人はボ〜っと過ごすといっても全く何も考えていない訳でもないでしょうが。ただし仕事のことは全く考えない。その辺を徹底して切り替えが出来るのが日本人と違う点です。フランスだけでなく、ヨーロッパはそういう文化です(余暇に対する考え方はアメリカはまた違って、少し日本に近い感じがします)。仕事から離れておそらく自分の人生をどう充実させて生きるかなどと思索しているのでしょう。その結果日本人とは違い、欧米人(この場合はアメリカ人含め)は退職した後になって、これからの老後をどう生きるかで悩むことはないそうです。
結局日本人はヨーロッパの国と同じように夏に長いバカンスをとることは国民の習性として出来ないと思います。しかし、彼らのそういうライフスタイルはしっかり把握はしておく。彼らはバカンスでも日常でも夕方夫婦で、またはカップルでよく散策します。それと夕日を眺めながら二人での会話を楽しみます。そんなライフスタイルを考慮すると、デービッド・アトキンソンさんが指摘しているように、日本の観光地にベンチが少ないことが分かります。ただ現状の質素なバカンスのスタイルを考えれば、バカンスで遠い日本にわざわざ来てもらうことは難しいことが分かります。
それから欧米人のライフスタイルの一つになっているのが〝日光浴〟です。バカンスの時間の大半はこの日光浴といっていいくらいです。日常的にも家に近い公園などで、水着姿で日光浴をする光景をよく写真などで見ることがあります。そう、彼らは日本と違い、地形上の理由で日光浴が必要なのです。
【↑Yahoo検索画像より】
そして紫外線は人の肌に当たることによってビタミンD3を体内で合成します。このビタミンD3が不足するとカルシウムの吸収が悪くなり、くる病の発症や骨折、骨粗鬆症の原因になると言われています。そして地球は球体なので緯度の高さの違いが日光に対する地面の角度の違いとなり、紫外線の降りそそぐ量の違いとなります。調べるとヨーロッパは日本よりはるかに緯度が高いことが分かります。例えばフランスのパリの緯度は北緯48度51分で日本の施政下で最北端である北海道稚内市弁天島の北緯45度31分より高いのです。更にイギリスのロンドンは北緯51度30分、ドイツベルリンは北緯52度30分と高くなります。これはロシアのカムチャッカ半島の南端の緯度である北緯50度52分よりりも高い緯度になります。日本人のイメージではギリシャアテネはかなり南にある感じですが、それでも北緯37度58分の高さにあり、東京のほほ中心の千代田区(区役所地点)の北緯35度41分より高いことが分かります。こうした地形上の違いがあるので、ヨーロッパの白人たちが紫外線求めて日光浴をすることが分かります。逆に日本はヨーロッパに比べ緯度が低いので、わざわざ日光浴をしなくても日常の生活をしているだけで顔や手から必要な紫外線を吸収し、ビタミンD3を作ることができるそうです。しかし最近日本人も美白(の肌)が美容の主流となり、少しの外出も日傘と日焼け止めクリームを使う潔癖な女性が増えたため、ビタミンD3不足の人が多くなっていて、骨折と将来の骨粗鬆症のリスクが高まっていると言われています。
ところでオーストラリアという国は、日本と反対側の南半球になります。シドニー(南緯33度57分)やメルボルン(南緯37度49分)などの主要都市は南緯ですが日本の東京の北緯35度41分と度数ではほとんど変わりません。しかし大陸の北部にあるダーウィンという都市の緯度は南緯12度25分と極めて低くなります。また北西部の一部の気候は、熱帯モンスーン気候になっています。海水浴で人気のロングビーチの中心地の緯度は23度26分と日本の沖縄本島並の緯度になっています。ご承知のようにオーストラリアはイギリスの植民地としてイギリス人が入植して人口を増やしていった国です。そのため今でも人種はイギリス系の白人が大半です。当然イギリス同様日光浴の習慣はあります。しかし、イギリスとは全く違って降りそそぐ紫外線の量は極めて多い。でも白人なので皮膚のメラニンが少なく、紫外線をうまく処理できない。そのため肌荒れ、そして皮膚ガンの発症を高めていて、国はその対策を取り始めています。それから欧米人は日本人のように日焼け止クリームを使わないで長い時間日光浴をするので皮膚の老化はかなり早くなっているようです。日本に来る欧米人を観察していると、朝晩寒さを感じる4月初めのの桜が咲く時期でも、晴れの風のない日にはもう半袖姿で闊歩している人を見かけます。これも部分浴で紫外線を求めての行動と思います。

こうした日光浴を求めることが習性となっている欧米人は、夏のバカンスでは当然日光浴ができることが条件となります。その点日本は欧米人を欧米人のスタイルで夏のバカンスとして利用してもらうには全く適さない国です。一つは先ほど書いたように地理的に遠いということです。欧米人の夏のバカンスはほとんどが自国か近隣の外国です。約3週間家族4人程度で過ごすには質素にしてもそれなりにお金がかかります。フランス人の場合で、夏のバカンスで一人あたりの支出額は、日本円に換算して12〜13万程度と言われています。この予算で日本に3週間ほどバカンスに来るのは少し無理があります。それと日本の夏は海でも快適さに欠けると私自身は感じています。日本の海水浴場は、人の多さ(昔に比べれば少なくなっていますが)だけでなく蒸し暑さが問題です。午後からは海風もあってそれなりに居心地がよくなりますが、昼頃まではほぼ無風の時間帯もかなりあります。そうするとそんな無風の時間帯に海岸で日光浴をしていると、とても快適な気分ではなく、蒸し暑さで苦痛になります。その不快さ、苦痛に耐えられなくて海に入るという感じです。ヨーロッパは日本の気候と大きく異なり、そのほとんどが西岸海洋性気候で、冬は緯度の割に温暖で、夏は比較的日本のような猛暑日が少なく過ごしやすい気候です。ここでヨーロッパと日本の代表的な海岸沿いにある町の比較をしてみます。ヨーロッパは地中海に面し、フランス南東部に位置するニースと日本は江ノ島の海水浴場のある藤沢市の気候の比較です。

【↑ウィキペディアの各市の気候から作表】
比較するとニースと藤沢では平均気温、平均最高気温、平均最低気温でいずれも藤沢の方が3℃高くなっています。そして降水量は藤沢はニースの5.7倍と高くなり、湿度の高さに影響を与えています。それからこの表にはありませんが、月間の総日照時間はニースの308時間に対して藤沢は208.7時間です。夏のバカンスは日光浴が主な目的でもあるヨーロッパ人は、曇りや雨で日光浴ができないと途端に不機嫌になると言われています。なので藤沢はニースに比べヨーロッパ人が不機嫌になる確率が高くなります。従って以上の理由から欧米人を夏のバカンスとして日本に来てもらう観光戦略はサバサバと諦めるべきです。日本のもっと過ごしやすい春と秋を中心にした日本観光で欧米人への営業を展開していくべきです。その他オーストラリアなどを対象にした冬のスキーなどのリゾート観光は更に利用増が期待できるので工夫次第でこれまでジリ貧だったスキー場を再びリゾート地として活性化させることはできるでしょう。しかしヨーロッパはアルプス、北米はロッキー山脈という世界的な冬のリゾート地を持つところの欧米人から冬のリゾート観光で日本に来てもらうのは無理があります。

日本の観光に関わる仕事をする皆さんにとって理解しないといけないのは、欧米人は夏だけでなく、春や秋でも晴れれば公園で上半身裸になって半身浴をするほど日光浴が余暇の重要な過ごし方であることと通年通して自宅近くを散策し、ベンチに座っておしゃべりしたり、本を読んだりして時間を過ごします。家の中より外で本を読む方が部分浴をしながら好きな本が読めるという感覚なのでしょう。そんな余暇の過ごし方を欧米人がすることを理解はしてあげましょう。




これまで欧米に留学や仕事での駐在で生活した経験がない私には難しいテーマですが、これまで経験したアメリカへの新婚旅行と前職の仕事関係で3回のアメリカ流通業視察研修と同じく前職で組合員活動部時代の1988年にSSD3(第3回国連軍縮総会)に事務局としてコープの会員代表をニューヨークの国連本部に引率した時のこと、そして今の職場でのヨーロッパへの社員旅行、それから本や雑誌などで学んだ知識からこのテーマで考察したいと思います。

私の以前の職場は神奈川にあるコープ(生活協同組合)でした。約32年勤め、役職定年(制度が55歳と早かった)を機に、日本の観光産業への関心と取り分け伊勢神宮への憧れなどもあって、思い切って現在の伊勢神宮近くで参拝者・観光客を対象にした物販・飲食を事業とする現在の職場に転職しました。特に今から10年ほど前に見た『平成19年度版観光白書』に掲載された平成17年の日本のインバウンド数が世界32位で、スイス、シンガポール、ベルギーなどの小国を下回る少なさに当時アメリカに次ぐ経済大国の国(2010年にGDPで中国に抜かれ世界第3位になる)の数字としてはとうてい納得出来なかったこと。もう一つの問題意識は、日本の街並みの景観が一部を除きその大半が貧弱で絵になる景観がほとんどないということでした。日本全国の主要都市の景観はほとんど同じで、百貨店か大型スーパー、銀行、パチンコ屋があり、その建物の前を電柱から電柱へと電線が這い回っているような風景ばかりで語るにも値しない。駅前だけでなく都会から地方の田舎まで日本の伝統的家屋がどんどんなくなり、統一感のない日本の伝統から断絶した無国籍の建物がチグハグに立つようになってしまい、どんどん魅力を無くしている。私は日本のインバウンド数の少なさは、日本の現状の魅力に欠ける街並みの景観にその原因があるのではとまで思うようになっていました。そんな中、伊勢神宮近くには伊勢神宮に続く参宮街道沿いに江戸時代後期から明治時代初期の日本の街並みをコンセプトに、1990年におはらい町通りが、1993年にはおかげ横丁が整備されていました。今後の日本の観光事業のモデルとなりうるところとの思いから今の伊勢神宮内宮近くにある今の職場に転職しました。

さて、話は元の職場での話になります。コープと言えども店舗は小型の店も含めると100店舗を超えていました。そんな規模もあったので、日本では唯一だったチェーンストア経営専門コンサルタント機関、日本リテイリングセンターの指導を受けていました。そしてそのセンターのチーフ・コンサルタント渥美俊一さんです。私も渥美さんについてのアメリカ西海岸チェーンストア視察研修に参加したり、他国内研修で3回ほど渥美さんの講義を聞く機会がありました。また、渥美さん監修のチェーンストア経営に関する本はかなり購入して勉強しました。その渥美さんは2010年に亡くなってしまいましたが、今渥美さんの自宅は渥美さんを尊敬するニトリ会長の似鳥昭雄氏が買い取って「渥美俊一記念博物館」になっています。
【↑渥美俊一氏 2009年6月20日 法政大学にて「流通産業ライブラリー」設立記念セミナーでの講演(逝去の1年前)】
この渥美さんの話は、日本人には珍しく理路整然とした論理的な組み立てですすめます。その理論体系の構築は、徹底した帰納法(個別的な事例から一般法則、普遍的法則を出す論理的推論)によります。おそらく渥美さんほどアメリカの成長しているあらゆるチェーンストアのベンチマーキングをした日本人はいないでしょう。もちろん帰納法も論理的推論なので渥美さんも仮説を誤る場合もありました(そもそも経営手法に絶対はないでしょう)が、それでもその理論は今も普遍性をもっています。その渥美さんのチェーンストア理論の一端を紹介しましょう。



日本は高度経済成長を経て経済大国になった今も、日本人の生活の豊かさは国際水準からみれば、成熟しておらずまだ貧しい。その日本人の大多数の生活の質を豊かさにすることこそが、生活者主体の〝生活民主主義の実現〟であり、それを実現するためには、生産と流通の関係を抜本的に変える必要がある(「流通革命」)。そのことを実現するのがチェーンストア経営の目的であり、そのことを「経済民主主義の実現」と規定する。


〝経済民主主義〟を実現するために、標準化された店舗を200以上に増やすことでマスの特別な経済的効果(ごりやく)を出すこと。
アメリカではこれに「システムづくり」と続けて、生産、流通、保管などの活動も含めてチェーンが商品を扱おうという際のいっさいの活動と制度とを総称する。したがって、チェーンストアが目ざす営業活動のさまざまな努力を簡単に表現した言葉といえよう。チェーンストアは、これによって始めて〝経済民主主義〟が実現できる。逆にいえば、これのできない間は、チェーンストアはまだ便利さを提供しているだけに過ぎない。つまり、この言葉こそチェーンストアの社会的存在意義を意味するものなのである。
特徴は、次ぎの10である。
①消費者の大部分である大衆を対象に、
②彼らが日常に使用する商品を、生産段階から規格を作り、仕様書によって発注し、
③最も合理的なコストになるように、
④品目ごとに膨大な扱い数量を計画し
⑤新しい値ごろを作って、
⑥客にとっても最も便利でしかも楽しい手段で
⑦計画したとおりの期間に、
⑧計画したとおりの量を、
⑨たくさんの店(売場)で、売りさばきながら
⑩消費者の生活を豊かに変革する。
したがって「大量生産」「大量販売」はビッグストアの論理で、チェーンストアの言葉ではない。
それらは、次ぎのが5つの技術を組み合わせて展開される。
①ユニット・マーチャンダイジング(unit merchandising) 少数品目の商品について徹底的な特殊化を図ることや、販売単位や単価を変えること。
②クリエイティブ・マーチャンダイジング(creative merchandising) 日本にはまだない性質や価格の商品や販売方法を開発し、事業にしてしまうこと。
バーティカルマーチャンダイジング(vertical merchandising) 消費財商品の内容やコストを変化させるために、加工工程や材質を原料段階まで、検討の範囲を拡げてゆく努力。
④フィジカル・ディストリビューション・マネジメント(physical distribution management) 材料、半製品、商品などを移動させるときの費用を、最小にするための新しい制度をつくること。
⑤マス・ストアーズ・オペレーション(mass stores operation) 数百、数千の店舗または売場を、全く同じ方法と経営効率で運営してゆくこと。
以上の5技術に共通の考え方は、①単純化(simplification) ②差別化または徹底化、他社にないごりやく(specialization) ③標準化(standardization)の3つ。これをチェーンストアの3S主義と呼ぶ。
絶対の条件は①ポピュラーアイテム、②ポピュラープライス、③ベーシック商品である。
今後の方向は①ウォンツ商品を本当に売れ筋に限定して品切れさせず、②ニーズ商品の開発を活発に行ない、これを売れ筋の主力としてゆくこと。

以上渥美さんの理論の一端ですが、潔癖な理論展開で多くの日本人には嫌いなタイプかもしれません。しかし渥美さんの本は今読んでも説得力があります。論理的な主張の展開は日本人の欠けるところであり、その点大いに学ぶべきです。


さて、渥美さんの話で前置きが長くなりました。ちょっと古い話になりますが、今から33年前の30歳の時のことです。その渥美さんのコーディネートと指導のもとに、始めてアメリカ流通セミナー(チェーンストア視察)に参加した時の話です。視察の大半はアメリカの代表的なスーパーマーケット、ディスカウントストアなどのチェーンの視察でしたが、その中にアメリカの日常のライフスタイルを知ってもらうために、アメリカのハウスメーカーのモデルハウスを見学したときのことが今でも印象に残っています。そして渥美さんはアメリカの住宅のスタイルを次のように解説してくれたのを今でも鮮明に覚えています。記憶に基づいて簡単な一覧にすると以下の通りです。

ここにある「コンテンポラリー」とは、〝流行りの〟とか〝最新の〟という意味です。もうそのときの写真は残っていないのでインターネットから代表的な家庭のリビングの一部を拾ってみます。ただアメリカのリビングの写真は33年前に見たモデルハウスのリビングのスタイルと、特徴が少し変わっている感じがします。そこでヨーロッパ諸国のリビングの写真も合わせて紹介します。
《⬇︎アメリカのリビング》

《⬇︎ヨーロッパのリビング》

写真を見るとヨーロッパの方がよりクラッシックのスタイルが維持されているようです。どちらにしても日本のリビングより広く重厚感があります。33年前にアメリカのモデルハウスを見たときもそうでしたが、日本のように照明に蛍光灯を使っていません。蛍光灯はただ明るいだけで室内の雰囲気、ムードを演出できないということが理由だそうです。写真を見ると間接照明だったり照明に工夫があります。それと欧米では室内の壁の色や模様、床のカーペット、窓のカーテンなど、家ごとにトータルコーディネートします。したがって統一感もあります。『新・観光立国論』を書いたデービッド・アトキンソンさんは、日本と出身のイギリスの住まいを比較して、「日本の家の室内はどこに行っても壁はベージュ系の1色という感じで変化に乏しく、また壁紙を変えることもほとんどしない。その点イギリスでは、売られている壁紙の色も100種類ほどはあり、各家庭では一定の期間で壁紙の色も変えて全体をリホームするのでそれぞれに個性がある」と言っています。それだけ手をかけ、家の雰囲気をそれぞれので感性でコーディネートして作り楽しんでいるからでしょうか、よく気軽に人を招待したり、少人数のパーティをしたりします。招待された人は今度は自分の家に招待してくれた人を招待したり、パーティをしたりするのです。ここ最近日本では人を招待したり、個人の家でお茶飲み会をすることはほとんどなくなしました。

アメリカのキッチンと寝室の写真も参考に紹介します。
《⬇︎アメリカのキッチンの事例》

《⬇︎アメリカの寝室の事例》

日本と違う豪華な雰囲気を感じます。日本もだんだん欧米のような家の作りになっていますが、食器や洋服などの収納は、室内備えつけで箱物家具の食器棚、洋服だんすなどはありません。あるのはベッド、テーブル、イスのみといっていいでしょう。欧米は日本以上に中古住宅を買い替えて家の大きさを選択していく利用が多く、その都度自分たちにあった部屋に自分たちでリホームしていきます。それによって自分たちが室内の雰囲気を楽しむのと売る時のことも考え高く売れるよう、家の価値を高めるという要素もあります。

明治時代の初期、日本の要人(大物政治家や大物財界人)は欧米の先進国に学ぼうして盛んに洋行して先進国の視察をしました。さまざまな建物を見てその建物の壮大さ、豪華さに圧倒されたことでしょう。日本では考えられないような室内の広さと天井高の高さ、壁面高くまで施された彫刻、天井まで描かれた壁画。今でも十分に圧倒するものを持っています。そして要人たちの多くが西洋の住まいをまねて〝洋館〟と言われる住居を建てています。そして当時の日本人はそうした洋館を〝ハイカラ〟な家として憧れました。それと以前このシリーズの第3回で紹介したように、戦後のGHQによる6年に渡る占領政策の中で、日本人の意識の中に洋風への憧れが根づいてしまったと思います。確かに欧米の国の建物、住まい、室内のコーディネートされた雰囲気は大いに学ぶところがあります。しかし、ここでもう一度今回の投稿で紹介したミャンマーで自国伝統の〝ヴィラ〟を使ったインレー・プリンセス・リゾートを経営するイン・ミョー・スー(ミスー)さんのやったことを考えてほしいのです(日経新聞の記事)。彼女は約5年に渡りフランスでホテル運営を学びました。そして無線インターネットなどの最新設備の導入や欧州仕込みの接客術を徹底するとともにホテルはミャンマー伝統の竹製屋根のレトロな木造建築にこだわって造ったのです。もう一度記事の一部を紹介しましょう。

そうです。私たち日本人もミスーさんの考え方に学ぶべきです。これまで私たちは西洋の憧れを無批判に持ちここもうとしなかったでしょうか。日本の伝統などということをひとかけらも考えなくなってしまったのではないでしょうか。その結果が今のチグハグな街の景観に表れていることを知るべきです。
ミスーさんの考え方に立つなら日本の伝統的な古民家の作りを基本的に残しながらバス・トイレなど、欧米の機能的で使いやすいスタイルも取り入れる。各部屋はもちろん畳で日本式の布団を使ってもらう。居間と兼用の床の間もあり、季節にあった日本画の掛軸を飾り、棚には生花(または盆栽)が飾ってある。もちろんその日本画と生花は数ヶ国語の簡単な説明書きがある。そんなスタイルの日本式ホテル、旅館なら外国の人は日本の文化、日本のテイストを味わうことができ、きっと喜ぶことでしょう。日本人自身がふだん住む住宅についての提案は、次回の投稿(最終回の予定)でもう一度触れたいと思います。

ところで、私が今の職場にいて日本の伝統文化が消えていっていることを思い知ることが4年前の2013年にありました。先程も紹介したように、私の職場は伊勢神宮の内宮近くにある参拝者、観光客向けの食堂と土産物の販売を主な事業としているところです。ご存知かと思いますが、伊勢神宮は20年に1回、内宮、外宮の二つの正殿と14の別宮全ての社殿を新しく造り替える式年遷宮という神宮最大の祭り事があります。その第62回目の遷宮のあったのが2013年でした。その年は外宮、内宮の参拝者は年間1420万人で、統計を取り始めてから過去最高を記録しました。当然私の職場である店の食堂、土産物を扱う物販コーナーもたくさんの方々に利用いただいて、大きく売上を伸ばすことができました。そんなほとんどの土産品の売上が伸びている中で、例外が一つありました。それは〝掛軸〟です。伊勢神宮内宮で祭られている「天照皇大神」を筆で書いたものです。これが前々回第61回の式年遷宮のときは掛軸だけの売上で、残っていた記録の概算で計算すると(遷御のあった10月からその年の12月末までの期間)約6000万円ほどの売上がありました。それが今回第62回では1000万円にもほど遠い実績だったのです。20年でこれほど極端に減ったことに大変驚きました。おそらく日本の家屋がどんどん変わり、洋間ばかりで掛軸を掛ける床の間などの部屋がなくなってしまったこと、人を家に招待することもなくなり、床の間に掛軸があっても見る人もいなくなったので掛軸など不要に思うようになったことが原因だろうと思います。




さて、今回の投稿の最後になります。このテーマも欧米で生活したことのない私が書くのはふさわしくありませんが、こちらもアメリカの視察研修の経験などから少し紹介します。最初に人種のルツボと言われるアメリカ合衆国の人種構成をざっと把握してください。少し古いですが、ウィキペディアから2010年のアメリカ合衆国の人種構成比から集計したものです。

【⬆︎ウイキペディア フリー百科事典『アメリカ合衆国の人種構成と使用言語』より引用】
この表を見ると白人の比率は一番多く72.4%になります。次に多いのが黒人で12.6%になります。ヒスパニックという言葉が人種構成で使われることがありますが、これはスペイン、ポルトガル語を話す文化・言語圏の人達で、当然ヒスパニック系白人も存在します。そしてこのヒスパニック系を含む白人の比率は州によって大きく異なります。例えば日本人になじみのある西海岸のカルフォルニア州の白人の比率は57.6%と低くなります。全米最大の都市ニューヨークのあるニューヨーク州の白人比率は65.8%とこちらも全米の平均以下になります。今度はヒスパニック系と非ヒスパニック系で分類にしてみると、非ヒスパニック系白人が63.4%、ヒスパニック系(白人、混血、黒人含む)が16.7%と黒人より比率が高くなります。さらにこれを主要都市でみましょう。カリフォルニア州ロスアンゼルス市では、ヒスパニック系が48.5%、非ヒスパニック系白人が28.7%とヒスパニック系の人口が圧倒的な多数となります。ニューヨーク州ニューヨーク市だけで見ると、ヒスパニック系が28.6%、非ヒスパニック系白人が33.3%とかろうじて非ヒスパニック系白人が上回っているだけになってます。アメリカを観光で訪れる場合は、西海岸が圧倒的に多いと思います。その場合はカリフォルニア州ロスアンゼルス、そしてサンフランシスコのホテルを利用してヨセミテ公園やグランドキャニオンを観光するパターンが多いでしょう。西海岸より少ないですが、アメリカの東部なら当然ワシントン、ニューヨークに滞在してそれぞれの都市を観光するでしょう。ニューヨークでは超高層ビル(私は丁度30年前になりますが、2001年911日の同時多発テロで航空機が衝突して崩壊してしまって、今はないワールドトレードセンタービルの高さ400mを越す屋上からニューヨークの摩天楼を眺めました)からのニューヨークの摩天楼の景観を楽しみ、午後はマンハッタン島周遊のクルーズで自由の女神ハドソン川からニューヨークの街の景観を楽しみます。夜はブロードウェイでミュージカルを観劇、翌日はメトロポリタン美術館で鑑賞し、午後はセントラルパークを散策・・・、という感じでしょうか。
【⬆︎yahoo検索「ニューヨーク」写真画像より】

【⬆︎私のニューヨークでの1コマ。上がメトロポリタン美術館前で 下がニューヨークマンハッタン島周遊にて 写真の日付は’88.6.8とある。私の顔の奥に見えるのが偶然にもテロで崩壊したワールド・トレードセンター】
そういった大都市が中心になるので、最初は「あれ、やっぱりアメリカは人種のルツボの国だな〜、街を歩いている人種は白人の方が少ないくらいだな〜」と思うでしょう。服装もラフで、ジーパン、短パンにTシャツといった格好が多い。昨年ニューヨークに短期の音楽(ギター)留学した友人の話では、日本ではスパッツの上にスカートをつけてお尻を隠しているが、向こうはスパッツそのままで街を闊歩している。当然お尻のラインは丸見えで平気で歩いているそうです。昔からそうですが日本人には真似できそうもない、胸の谷間を大胆に見せる格好も多い。しかし、ロスアンゼルスやニューヨークの大都市を観光する時は自分の格好、ファッションに関しては、実は気楽でいられると思います。これが白人の多い大都市の郊外、または近い州になると様相が一変します。非ヒスパニック系の白人が圧倒的に多くなります。ニューヨーク州に隣接するバーモント州の人口構成は、非ヒスパニック系白人94.3%、ヒスパニック系1.5%、アジア系1.3%、黒人1.0%となります。ニューヨーク州の南西に位置するウェストバージニア州では、非ヒスパニック系白人93.2%黒人3.4%、ヒスパニック系1.2%、アジア系0.2%という人口構成です。この他ニューヨーク州に近いニューハンプシャー州やアイオア州なども白人の人口構成は90%を越えています。多分こうした州に短期滞在したら、「やっぱりアメリカは白人の国だな〜」と思い知ることでしょう。

また私の前職のコープ時代の話になります。今から24年前の1993年2月、カリフォルニア州の東に隣接するアリゾナ州フェニックス市を中心にアメリカのチェーンストア視察研修に参加しました。砂漠の中に造られた都市で、州の南はメキシコに隣接し、夏は暑いですが冬季は温暖な気候で過ごしやすく、大リーグの春季キャンプで利用するチームはドジャースなど15チームにもなります。アメリカ大陸の州としては一番遅く、正式には1912年にアメリカ合衆国の48番目の州となっています。そのため本格的な開発は第二次世界大戦後になりますが、急速に人口が増え、カリフォルニアから多くの企業の進出もあり、今はハイテク産業の一大拠点になっています。一方1960年代からは宅地造成の一つとして温暖な気候のメリットを生かして退職者の地域社会が形成され、寒いアメリカ北東部や中西部から移り住む人や冬季だけ滞在する人も多いそうです。従ってアリゾナ州に移り住めるということは経済的に余裕のある人が多いとも言えます。そのためロスアンゼルスやニューヨークのダウンダウンを散策しているときと人種の様相は一変します。アリゾナ州フェニックスは先程紹介したアメリカ東部諸州の白人比率には及びませんが、白人の比率はアメリカの丁度平均並の71.1%となっています。あとはその他(大半がヒスパニック)16.4%、黒人5.1%、先住民2.0%、アジア系2.0%という構成です。

【⬆︎ウィキペディア フリー百科事典「フェニックス(アリゾナ州)」より】

【⬆︎24年前のフェニックス視察研修のときのノートが残っていました】
ほとんどの視察店舗がフェニックスの郊外ということもあってショッピングセンターの店舗、レストランを利用する人は、ほとんど白人です。店のスタッフにもしかしたらアジア系の人がいたかもしれないという程度の記憶で、5日ほどのフェニックスの滞在で黒人を見かけた記憶がありません。そこでアメリカの白人の服装、ファッションについて感じたことがあります。一言で言うと〝決まっている〟ということです。体型は長身で足が長く、胸板は厚くいかにも堂々としている。セイターやジャケットを着ても〝様〟になっている。仲間の一人が「歩いている人がみんな映画スターに見えるな〜」と言っていた。そんな中を我々日本の視察グループがショッピングセンター内を歩くのですが身長は小さく、体型もファッションセンスも今一つで、何か貧相に見えてしまいます。私はそのとき39歳。40歳を超える人も数人いたのですが、ある店で私たちが売場の視察をしていると、たまたまバックルームから出てきた20歳代くらいに見える店のスタッフから〝Oh,children! 〟と言われる始末。私もフェニックスでは貧弱な体型の我々日本人仲間の中にいることに何か恥ずかしさを感じてしまい、仲間から離れたくなる衝動にかられました(グループで行動する方がフェニックスでは目立つので)。そして髪の毛は金髪あり、茶髪ありで黒髪は少ない。髪質も日本人と違って柔らかくソフトな感じで、しかもヘアスタイルが決まっています。場所は違いますが、1996年にアメリカのアトランタでオリンピックが開催されました。確かその年に現地の人へのオリンピック関連の取材で「名作『風と共に去りぬ』の舞台になった場所だけに、若い女性は〝美しくある〟ことにこだわり、2週間に1度は美容院に行く」という記事があったことを記憶しています。フェニックス郊外も正にそんな感じです。服装の上下のコーディネート、着こなしなどのセンスはさすがと思わせるものがあります。それから服の生地の色合いは原色が少なく、シックで落ち着いたものです。分かりやすい例では日米のタオル・バスタオルなどの色の比較です。当時日本の生地は原色に近いものが多く、アメリカに行ってその違いが直ぐ分かりました(最近はタオルの色は日本もアメリカと変わらなくなりましたが)。フェニックスでは、やはりアメリカは洋服の国であることを痛感させられました。フェニックスでもう一つ印象的なことがありました。昼に仲間とあるレストランで食事をしていると70歳代と思われる男女の老人グループ10数名が食事に同じレストランに入ってきたのです。そして驚いたのはその服装です。
上はアロハシャツのようなやや明るめの服にボトムは全員が白のスラックスかスカートです。そしてそのスラックス、スカートは全てがまるで新品かクリーニングしたばかりのものを着ているように見えました。しみやしわ一つない感じで清潔感が漂っていました。こんな光景は日本で見たことがありません。私は今でもこと時の光景を忘れず、外見が衰えていく老人ほど清潔感ある服装に心がけるべきと思っています。そんな視点で今でもふだん近所での買い物や食事、職場の店を利用するお客様の服装を良く観察するようにしています。そして、日本人も老人といえば地味な服装という昔のイメージはだんだん変わりつつあります。伊勢市ユニクロでも60代と思われる男女をよく見かけるようになりました。でも世代全体ではまだまだ少ないですね。70代になるともうダメです。服装が地味でしかも着古したものが多い。流行からはほとんど無縁になっているようです。〝もったいない〟は確かに日本の文化のが美徳かもしれませんが、一方で70代、80代でもオシャレも遊びも趣味も楽しみながらバランス良く余生を生きることを心がけるべきです。もちろんそのために適当な経済的余力と健康な体を維持していく努力は必要です。それから今でも10代、20代で、学校生活の延長でジャージー、トレーニングウェア姿でショッピングセンターや街中を歩いている姿を見かけます。これは何でもありのアメリカニューヨークのダウンダウンならともかく、フェニックスや他の内陸部都市郊外で、その姿はダメです。これはダメだということが短期の滞在で分かります。一人浮いてしまうからです。


ここでまた前に紹介した渥美さんんに登場してもらいます。

確かにトレーニングウェアは何回も選択が可能で、ニット材質で軽く、私もどうしてもホームウェアで便利に利用してしまっています。それと最近のジャージーは、カジュアルウェアとして利用できそうなものもありますが。

いずれにしても私たち日本人は、洋服を普段着にしている以上、洋服の本場欧米から学ぶことはたくさんあります。

さて、話は変わります。確かに日本でももうふだんの生活に洋服は欠かせなくなってしまったのですが、私たち日本には伝統の衣装、和服があります。本当は日本人の体型に最も合っていて日本人が着れば〝決まる〟のです。特に女性の和服は完成された美しさがあります。残念ながら活動的な現在の仕事で女性が使うには無理があります。黒川温泉の後藤哲也さんも和服は旅館の仕事に向かないので作務衣を制服に使っているといい、事実観光地の旅館や和風のレストランで作務衣を使うところは多くなっています(これも和装ですが)。しかし日本でもできるだけTPOで和服も着ればいいと思います。最近どこでも古民家の街並みが残るような観光地ではレンタル衣装が流行っています。私の伊勢でも数軒のレンタル衣装があって割と人気です。私の職場もテナントですがやっています。古民家の街並みに和服は絶対絵になります。それと訪れる外国人観光客に日本文化を発信することにもつながっています。


今回も大変長くなってしまいました。黒川温泉のことから離れることも多くなってしまって、焦点が呆けてしまっているかもしれません。そして次回のシリーズ5回目が本当の最終回となります。今回シリーズ第4回は少し長くかかりすぎました。最終回は何とか1ヶ月以内で投稿たいと思います。