♨️黒川温泉に学ぼう《第5回(最終回)》2017.8.14

f:id:takeo1954:20170814131951j:image 【⬆︎  奥黒川温泉  旅館  山みずき 2016.7.17】

 

   シリーズ「黒川温泉に学ぼう」は今回が最終回となります。今回も長くなりますがご容赦ください。今回は日本の観光産業の現状の課題(問題点)、そして今後の日本の観光産業及び日本の街並みの改善に向けた課題についてです。

 

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【⬆︎秋田県農林水産部農地整備課の欧州視察のドイツ編より 】

 

   インターネットでヨーロッパの観光産業の事をいろいろ検索していたら、愕然とするある論文に出会いました。それは2014年3月の「立教大学観光学部紀要」第16号に掲載された『ヨーロッパの経験した観光開発と有給休暇制度』と題する白坂 蕃(しらさか しげる  現在帝京大学観光学部教授)氏の論文です。

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  この論文は16ページにわたるものですが、私が〝愕然とした〟という部分「II.旧西ドイツのツーリズム政策と経験」を、少し長くなりますが、全文掲載します。

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【ヨーロッパの経験した観光開発と有給休暇制度  「II  旧西ドイツのツーリズム政策と経験」 立教大学観光学部  第16号  2014年3月  (白坂   蕃)】

 

   第二次世界大戦後,国家が政策として国民生活にいち早くツーリズムを取り入れたのは旧西ドイツ政府であった.旧西ドイツ政府のツーリズム政策と山村開発の経験からわれわれが学ぶべきことは,きわめて多い(富川久美子,2007).

   旧西ドイツのオリンピック委員会のある委員からの筆者の聞き取りによれば,第二次世界大戦後の旧西ドイツ政府は敗戦によって衰えた国民の体力を回復するために,いち早く都市の内部や周辺に各種のスポーツ施設を開設し,スポーツクラブを整備した.これはゴールデン プランとして知られ,その後のオリンピックなどでの西ドイツ選手の活躍の礎は,ここにあるといわれる.

   また西ドイツでは1960年代の,いわゆる「奇跡の経済復興Wirtschaftwunder」により社会生活が安定した.

   その結果,自家用車やキャンピングカーによる旅行が増大した.その受け皿として国内の山村地域に多額の資金援助をして農民民宿を整備した.

   つまり,西ドイツ政府はアデナウワー首相のもとで,次のように考え,都市環境や農山村政策を着実に実施した(Martin Oppermann,1996).

   都市生活が安定してくると,農民から都市への人口移動が顕著になることが旧西ドイツ政府には容易に予測された.これを放置すれば,農山村からの都市への人口流入が顕著になる.都市人口の急速な膨張をおさえて,さらには農山村を健全に維持することを西ドイツ政府は真剣に考えた.

   西ドイツ政府は「農山村は人口の都市への過度集中に対する防波堤であり,人口分散政策のうえからも農山村は重要な役割を果たしている.その価値は単なる経済的な尺度でははかれない」と考え,農山村の人口維持のために資金援助をした.

   1973年における筆者の聞き取りによれば,旧西ドイツ政府は条件不利地域にある農牧業経営にさまざまな補助金を提供した.

   そのひとつが農民民宿である.

   西ドイツ政府は観光に対する需要の増加を見込んで,農家が民宿を経営できるよう多額の補助金を支出し,政策的にその増加を誘導した.

   具体的には,古い農家を建て替えるときに農家には客室(10室以下)を整備してもらい,10年間は民宿経営をしてもらうのである.そのために,家屋の建築のための補助金を農家に与えた.

   たとえば,筆者が1976年に聞き取りをしたときに,バーデンビュルテンベルク州では,その補助金が家屋の建築費用の30%にもなっていた.またバイエルン州では40%であった.

   旧西ドイツの多くの州では,これに倣って農家民宿が政府の補助金政策のもとで整備された.また小さな民宿(8ベッド以下)は自由に開業でき,特別の許可がなく,朝食や牛乳を宿泊者に提供できるようにした.

   その結果,こんにち,旧西ドイツ地域には民宿料金の安い農家民宿が広く分散的にみられる(石井英也,1982;富川久美子,2005;富川久美子,2007,pp.49ー52).

   西ドイツに限らず,1960年代のヨーロッパでは多くの国々で,いわゆる農村観光が盛んになった(Martin  Edmunds,1999;横山秀司,2006).こんにちでは,イギリスにも農家民宿は整備されているが,やはりアルプスをもつスイス(石井啓雄・楜澤能生,1998,pp,181ー208;石原照敏,2001),オーストリア(Masaaki  Kureha,1995;上野福男,1997;石井啓雄・楜澤能生,1998,pp.157-181;池永正人,2000,2008;呉羽正昭2001a,2002),フランス(石原照敏,1999,2001),そしてドイツ(呉羽正昭,2001b;富川久美子,2007)に顕著である.

   筆者の聞き取りによれば,1970年頃から旧西ドイツ政府は「農村で休暇を  Urlaub  auf  Land」の一大キャンペーンをはり,さらには有給休暇制度を整備(後述)して,国民に農山村での休暇をよびかけた.

   旧西ドイツでは国や州の補助金をうけた農家民宿は宿泊価格もてごろで,家族連れで滞在しても大きな負担にはならない(浮田典良,2000).そのセールスポイントは「農村生活」で,すでにこの当時から,いわゆるエコ=ツーリズムやグリーン=ツーリズムを実践していた.

   長い有給休暇に支えられて,国民の旅行は増大し,農山村における景観の維持と人口減少を食い止めることに旧西ドイツ政府は成功したといえる.

   その背景には国家政策としての有給休暇の充実があることを忘れてはならない.

 

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   以上の記述が私が驚愕した内容です。特に文中の太字及び下線部分(とりわけ私が驚愕した部分)です。ドイツと日本は第二次世界大戦後、同じ敗戦国として連合国の支配下の中で、戦争の惨禍の復興から出発した点など、多くの点で置かれた環境が似ていました。しかし、日本はドイツとは全く異なる結果となって現在に至っています。もちろん〝ドイツのような視点は全くなかった〟と言ったら語弊があるでしょう。日本にも農林水産省があり、農山村の農業振興や村の維持のために、農道、林道、用水路等の整備、優遇税制や各種補助金が国の予算で支出されてきました。しかし結果的には日本の農山村と都市の関係は、ドイツとは全く異なるものとなっています。

 

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   その点について前々回になりますが、このシリーズ第3回で紹介した元国土交通省次官の増田優一さんが次官になる前の国交省大臣官房審議官時代に、一般社団法人 土地総合研究所の第100回定期講演会で講演した内容が講演録になっています。その内容の中に、戦前戦後の日本の置かれているやむにやまれぬ事情があったことが書かれています。その辺をもう一度紹介します。

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講演のテーマは「美しいまちづくり、国づくりに向けて 〜景観緑三法について〜  」で、その講演で、〝景観と都市化の動向〟という内容で話した部分があり、〝日本がまちづくりで景観の視点を持てなかった理由〟が述べられています。その部分を講演録から掲載します。

 

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【土地総合研究所  定期講演会  第100回 「美しいまちづくり、国づくりに向けて 〜景観緑三法について〜  」】

   日時:平成16年6月18日

   場所:東海大学交友会館

 (当時)国土交通省大臣官房審議官  増田  優一

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   我が国の土地法制(前段で「我が国の土地法制が日本の景観を悪くし、地域振興を妨げているということではないかなと思います」と述べている。)がそうなっているのは、別に我々行政がサボってきたわけではなくて、一番大きな理由というのは、これも諸外国に例のない急激な人口増、急速な都市化に対応するためやむを得なかったという面もあるんです。ちょうど100年前、今年が2004年ですから1904年、この年はちょうど日露戦争が始まった年ですね。日本の人口は、その年4,780万人なんですね。これは国土の範囲も変わっていたり、あるいはヨーロッパもいろんな形で変わっていますので、一概に比較できないということをお断りした上でいいますと、その年の人口はイギリスもフランスもドイツも大体同じくらいの人口規模なんですね。その後、紆余曲折がありますけれども、大体ヨーロッパの国々は同じように4〜5,000万から5〜6,000万、イギリスも、あるいはドイツもフランスも、ちょうど100年前の人口規模と、それぞれいわゆるベビーブーマーみたいなものがあって、若干でこぼこがあるんですが、我が国のようにあまり急激に増えていないんですね。

   日本はどうかといいますと、ごく最近の数字ですとおよそ1億2,700万人ほどの人口ですから、ちょうど100年前の人口に比べて8,000万人もの人口が増えているわけです。国土の広さというのはほとんど変わらないわけですから、この人たちをどうやって住まわせるか、最低限度の生活をどうやって営ませるかというのは、やっぱり国策の中心課題だったわけです。「衣食足りて礼節を知る」というように社会一般の価値観は景観どころではなかったのです。統合して国土交通省になりましたけれども、旧建設省当時、ちょっと前まで省の重点政策の大きな柱は、長い間、住宅・宅地の大量供給ということだったのです。ともかく増える人口、それから急激な都市化にどう対応していくかが国づくり、都市づくりのこの100年、戦前から含めて、この100年の課題だったわけです。ですから、とてもそういうヨーロッパの土地法制度みたいに「所有権はあっても利用権は認めない」とか「計画なきところに開発なし」といったような、ドイツなんかのBプランみたいに建物の意匠、形態まで含めた計画をつくってこないと新規の開発は認めないというような政策のとりようがなかったわけであります。したがって、我が国の景観はあまりにもひどいと言われましても、もうそれは今ごろ文句を言われてもしようがなかったんですよと弁解もしたくなるわけです。

   ですから、今なぜ景観法かといえば、「衣食が足りた」からということなのです。つまり、急激な人口増も都市化も終わったということです。まさにもうしばらくしたら人口がピークになって、むしろその後人口がどんどん減っていく。つまり急激な人口増や急激な都市化の圧力からもう完全に開放されて、むしろこれからは人口減少の時代ですし、また、土地利用についてもDID(人口集中地区)面積もどんどん減っていくような時代、逆都市化なんて言葉を使う人もいますけれども、市街地がどんどん縮小していく時代になってきたのです。ですから、時計の針が完全に逆に回るような、すべての外的環境、経済社会環境が逆方向に向かっているという時代に日本もなってきたわけでありまして、したがって、なぜ今景観法かと言われれば、一言でいえばそういうことだということなわけです。ですから、そういう意味で言えば、急激な人口増や急速な都市化に対応するためにこれまで整備されてきた都市計画法なり建築基準法なりをこの際抜本的に見直さなきゃいけないという主張もある意味で根拠があるんです。ただ、現実問題としてそんなに急に基本法制を転換するのは無理ということで、やっと遅まきながら景観法を議論することができたということです。

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   こんなふうに増田さんから戦前戦後の状況を率直に説明されると、日本のやむおえない状況も分かってきます。これまで日本の街並みの景観がどんどん醜くなってきている状況を、私は「なんでこんなに日本の政治は無策無能なんだ」という怒りを持っていましたが、増田さんから「そんなに怒っても仕方ない事情が日本にはあったんですよ」となだめられている感じもしてきます。今回のテーマに関連して日本の戦前戦後の歴史を改めて勉強みたのですが、確かに日本の戦前戦後の歴史を知れば知るほどこれまでの日本人の暮らしは貧しく、特に欧米と比較するならばその差は歴然としていることを私は思い知りました。そんな経済的に余裕のない中ではとても景観などと言っていられないのが日本の状況だったといっていいでしょう。私がブログにも書いてきた〝なぜ日本は伝統的な様式の家屋を壊してチープな洋風、国籍不明の家屋にしてしまったのか〟と言う問題意識は、日本の過去の実体を知ればそう単純ではないことも分かってきました。

 

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   それでは私が〝景観どころではなかった日本〟と思う理由をいくつかを紹介し、検証してみたいと思います。

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   私は今年になってから伊勢市の図書館である本を見つけました。『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真 〜マーケーザ号の日本旅行〜 』という本です。この本はイギリスの旅行家で、博物学者、文筆家でもあった「ヘンリー・ギルマール」が、1882年から1883年にかけカムチャッカ半島、東南アジア・ニューギニア、日本などを探検旅行した際に撮影した写真(日本での写真は写真師 臼井秀三郎 撮影)と旅行日誌がケンブリッジ大学に寄贈されていたものを、同大学図書館日本部長だった「小山 謄(のぼる)氏」が日本向けに編集し、2005年に本にしたものです。そんな本だったので明治時代の日本の街並みの写真を見ることができると思い、ページを開いて見て驚きました。日本はその2年の間に2回訪れて旅行をしていますが、その第1回目でなんと私の生まれ故郷の山梨県身延町身延山久遠寺とその門前町の写真、そして甲府や河口湖など他の山梨県の写真が載っていたのです。そしててその写真は、私自身が勝手に思い描いていたイメージとは異なるものでした。

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【⬆︎『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真 〜マーケーザ号の日本旅行〜 』の表表紙、ヘンリー・ギルマール肖像画日本旅行1回目と2回目の行程】

   何が異なったのかといえば、それは街並みがあまりに〝貧相〟に見えたということです。そう見えた写真を掲載します。同じ山梨県吉田村(現 富士吉田市)、同 河口村(現  川口湖町)、同 藤野木(現  笛吹市御坂町)の写真と合わせて掲載します。

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    【⬆︎ (写真上 )吉田村   (写真下)河口村】

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                     【⬆︎ 藤野木】

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        【⬆︎(写真上下)身延山久遠寺祖師堂】

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                    【⬆︎ 身延山久遠寺門前町

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【⬆︎ 比較のため現在の身延山久遠寺門前町(グーグルマップより)】

    今回紹介した写真は、特別な地域という訳ではなく日本の地方、田舎に普通に見られる一般的な住まいの光景だったと思います。この写真から当時の地方の貧しさが伝わってきます。

   それからこの本には、ヘンリー・ギルマールが日本で旅行した時のことを、帰国後に書いた旅行紀『いなごの喰った年』も本の中に収められています。その中に当時の日本の様子の一端を紹介しています。たいへん興味深いのでその何ヶ所かを紹介します。

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   ギルマールの旅行日誌を読んでいると、当時の日本のまだ西洋化されていない貧しい生活の様子が、悪臭とともに伝わってくるようです。こんなギルマールの旅した日本に住めるかと言ったら、私もそうですが今のほとんどの人が住めないでしょう。私は昭和29年生まれで、しかも山梨県身延町の農家の息子に育ったので、ギルマールが言う〝悪臭〟のことはわかる気がします。

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【⬆︎ 国土交通省 『下水道クイックプロジェクト』より』

   国土交通省の資料によれば、日本の下水道普及率は昭和40年(1965年)で都市部を含め全国で8%となっています。当然今から50年前の私のふるさとは下水道もなければ浄化槽もありません。全国のほとんどの地域で、わずか50年前までは、トイレに溜まった屎尿はどうするかというと、柄杓で汲み取って肥桶(こえおけ)に移し、天秤棒でかついで畑にある肥溜めに溜めるか、直接畑の肥料にするため、肥桶から柄杓を使って畑に撒くのです。下の写真は屎尿を肥桶に汲み取って天秤棒でかついでいるの映画『裸の島』の1シーンです。こういう光景は日常的に目にする光景でした。f:id:takeo1954:20170724063242j:image

【⬆︎1960年製作映画『裸の島』(監督 新藤兼人)より  写真の人は女優「乙羽信子」】

 そして、その時の悪臭は今の若い人たちにとって想像を絶するものがあるでしょう。そういう出来事に遭遇したらしばらく鼻をつまんでいないと耐えられない強烈な臭いです。私はふるさとの今は廃校になった小学校(身延町立大和小学校)を昭和41に卒業しましたが、6年生がトイレの清掃を担当していました。当然今と違い、水洗ではなく浄化槽もない汲み取り式トイレです。当然トイレが屎尿で溜まれば汲み取りもやりました。汲み取った屎尿は他の排水同様に学校の敷地から近くの富士川に排出される側溝に柄杓を使って直接流し込むのです。そんな「今やれ」と言われてもとてもできないことを、当時はそれが当たり前だったので(仕方なく)やっていました。そして日本はこの屎尿を〝肥料として使う〟ということを、他のどの国よりも大々的にやっていました。江戸時代は江戸近隣の農家に屎尿を肥料用として売るために、江戸の町から発生する屎尿を有料で買い取って商売としていた業者がいて、屎尿を流通させる仕組みになっていたと言われています。そのためそのことが下水道を必要とせず、下水道普及が進まなかった要因とも言われています。戦後1960年代から農業用の肥料は化学肥料が急速に普及(もちろん戦前から肥料の流通はあった)し、屎尿を肥料として必要としなくなって下水道や浄化槽等の整備が急務となり、今から22年ほど前の平成5年に、やっと全国の下水道普及率が50%を超えるようになったのです。ですからこの日本から屎尿の悪臭を排除できるようになったのは、そんな昔の話ではないのです。

   このイギリスの冒険家ヘンリー・ギルマールの母国イギリスでは、18世紀(1700年代)末まで屎尿は全て地上に留まっていました。便器に溜まった屎尿を窓から投げ捨てるなど行為が日常的に行われ、ロンドンなど異臭が町中に充満していました。ロンドンでは19世紀(1800年代)前半には下水管が整備され、各家庭からの屎尿は他の生活排水とともに直接排水路からテムズ川に流すようにになりました。そのためトイレで使用したおびただしい量の紙(トイレットペーパー)がテムズ川を漂っていたと言われています。そして1858年にロンドンでテムズ川から臭う大異臭が発生します。浄化されないままの屎尿や生活排水、動物の死骸などが漂い、その年の高温が加わって汚物・汚水の発酵が発生したためでした。その悪臭のために議会はストップし、市民から議会への強い抗議行動が起きます。この事態を受け、議会は本格的な下水道の整備に乗り出します。本格的な下水道整備に取りかかったのは1864年からです。それから150年をかけて下水道を整備していきます。ギルマールがもし、自分の誕生年より10〜20年前のイギリスに生まれていたらまた違った日本への感想を持ったと思います。日本の場合は屎尿が農業用の肥料として必要とされたために、本格的な下水道整備がスタートしたのは今から60年ほど前からで、大がかりな基盤整備が必要な下水道を普及させるには相応の年月が掛かってしまいます。

   この日本の屎尿処理方法について、評価する視点での著作もあります。現ケンブリッジ大学名誉教授のアラン・マクファーレン氏の著書『イギリスと日本』です。

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【⬆︎アラン・マクファーレン著『イギリスと日本』の表表紙と日本の屎尿処理を評価している部分】

   その本の中の第9章「人糞処理の二つの方法」の最後の方で述べている一節を紹介します。

 f:id:takeo1954:20170724142240j:image     と、日本の屎尿処理が下水道が普及するまで、非常に優れた仕組みである評価しています。またアメリカの動物学者で1877年(明治10年)に来日し、東京大学教授になったモースは、来日してすぐ電車で横浜から東京まで行く途中の電車の中から貝塚を発見(大森貝塚)したことで有名ですが、日本の民具と陶器の収集家としても有名で、アメリカに戻ってからボストン美術館に寄贈し、目録を整理して〝モース日本コレクション〟としても知られています。そのモースによる日本のトイレのスケッチも残っています。

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【⬆︎『モースの見た日本〜モース・コレクション[民具編]』(小学館)】

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 【⬆︎  同上の「モースの見た日本の便所」】

   モースは日本のトイレにまで興味を持ち、詳細なスケッチ(スケッチの達人でもありました)も残していて、そこに愛情すら感じてしまいます。いずれにしても屎尿処理については日本独特の事情があり、そのことが下水道の普及を遅らせる要因になったようです。

   ギルマールの日本に対する感想にあった〝悪臭〟とか〝寄生虫〟とかの言葉が気になって、話がだいぶ横道に逸れてしまいました。それだけで話が長くなってしまいました。また話を戻しますが、1882年にギルマールが日本に来て見た民家の写真は、明らかに日本の貧しさを物語っています。そんな粗末な住宅にいたるところで屎尿の臭いが漂っていたのです。

 

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   さて、話を転じます。私はこのシリーズの中で、日本の住宅の景観が戦後急速に日本の伝統的な佇まいを喪失して見にくくなってしまい、そのことがインバウンド数の少ない要因になっていると書いてきました。この「黒川温泉に学ぼう」の第3回では、長崎大学付属図書館のデータベースから日本の代表的な風景の写真を引用して何枚かを紹介しました。また同じ回の投稿で、旭化成グループの旭リサーチセンターのレポート「日本は美しい景観を取り戻せるか」というテーマでまとめた中の一節を紹介し、幕末から明治維新にかけて日本を訪れた外国人が日本の当時の風景を見て皆がその美しさに驚き、〝桃源郷のようだ〟と感嘆したことを紹介しました。確かに日本には日本庭園を持ち、自然の景観の中に溶け込んだ佇まいの家屋が並ぶ絵になる風景がありました。しかしそれがすべてではありません。むしろ大半の日本人が生活する住まいは、今回紹介した写真にある風景だったと理解するほうが正しいのではと思うようになりました。正直なところ写真にある住まいなら、学術的な観点から住まいとして残すならともかく、実際に居住し、生活を営みながら住まいを残していくと言っても、住宅そのものがあまりに貧相すぎます。今ほとんどの人がギルマールが見た日本の写真にあるような住宅に住みたいとは思わないでしょう。日本の原風景は、岐阜県白川郷福島県の大内宿など、伝統的建造物保存地域に指定されているようなところばかりではなかったのです。日本は大半の貧相な住宅の中に、地主の家や倉敷や近江八幡、川越など経済的に余裕のあった商人たちが作った立派な蔵を持つ建物群が点在していたと見るべきでしょう。戦前までは華族や政治家、財閥などの政商=大資本家の多くは、洋館といわれる洒落た建物を建て住んでいて、間違いなく豊かな生活をしていたと思います。でも日本全体の人口に占める割合は1%未満でしょう。また東京などの都会や地方でも公務員や民間企業のサラリーマン勤めをしていた人は、戦前でもそんな贅沢は出来ないにしてもそれなりの住まいと生活水準で生活していたようです。私の実家は山梨の農家で、私自身の生まれは昭和29年です。まだ食生活はとても〝豊か〟とはいえませんでした。逆に一昨年亡くなった私の母親は、隣町にある南部町のサラリーマン(父親が学校の先生)の娘として産まれ、戦前に私の実家に嫁いで来たのですが、昔話を聞いて驚いたのは、私は実家で見たことも食べたこともないステーキを、母親は自分の実家で子供の頃食べたことがあると言うのです。戦前そうした家庭も確かにあったでしょう。でも日本は戦前までほとんどが貧しい生活の中で生きていたのだと思います。後で改めてグラフを紹介しますが、日本は昭和10年日本の産業別の就業構成では、半分近い47%が農業などの第一次産業で、製造業などの第二次産業が20%強、それ以外のサービス業、公務員などの第三次産業が30%強です。では第二次産業第三次産業のほとんどがサラリーマン家庭かというとそうではありません。大実業家というなった松下幸之助本田宗一郎も丁稚からスタートしたように住みこみで無給の丁稚(盆正月に小遣いがでる)や住みこみの奉公人が多くいました。女性なら住みこみの女中(家事手伝い)や製紙工場などの女工さんです。(丁稚のように)ほとんど無給か極めて低い賃金で働く第二次産業第三次産業に従事する人も多くいたのです。1925年に発表された細井和喜の『女工哀史』には、鐘紡(鐘淵紡績)など大手の企業で比較的恵まれた労働環境のところも紹介されていますが、多くの女工が働く工場は、長時間で劣悪な労働環境、低賃金で働かせるところがほとんどと言っていいくらいでした(女優 大竹しのぶが主演した1979年公開の映画『あゝ野麦峠』に当時の女工たちの姿が表現されている)。そして問題の日本の人口の半分以上を占めた地方の農村です。もちろん地方の大地主と地方で製糸工場などを経営する資本家は別で、それ以外の大半を占める小作農や小地主などの農民の生活実体です。それを把握するために少し古いですが、総合研究開発機構が昭和60年(1985年)3月に発行した『生活水準の歴史的推移』のデータも見ながら明治から戦前までの生活実体を探りたいと思います。

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【⬆︎総合研究開発機構『生活水準の歴史的推移』】

   最初にこの時代(1880年代)の日本は、第1次産業(農林水産業)に従事する人口が、約8割となっていることが下のグラフから見てとれます。

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【⬆︎総合研究開発機構 『生活水準の歴史的推移』より】

   上のグラフで見ると第1次産業従事者はこの100年で大きく減っていますが、それでも第二次世界大戦直前でも約50%は第1次産業従事者となっています。そしてもう一つのグラフを見ると日本の戦前の貧しさが分かります。

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                         【⬆︎     同上     】

   上のグラフは昭和55年(1980年)を基準に物価変動を調整した国民所得の推移ですが、戦前の低さが際立っています。前のグラフで見たように、日本の産業構造は戦前で50%は農業従事者で占められます。農業従事者は公務員、工場労働者などの賃金労働者と違い、現物経済を基本にしていたので賃金収入というものはほとんどありませんでした。ほとんど自給自足の生活でした。

    更にエンゲル係数を表した一覧を見てみましょう。

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                       【⬆︎     同上     】

   この一覧で明治18年(1885)から明治33年(1900)まで、15年間の平均のエンゲル係数(全支出に対する食費の占める割合)は67.2%とあります。正に〝食べるために生きている〟〝仕事をしている〟という感じです。食べること以外ほとんど余裕がなかったと言っていいでしょう。大正8年(1919)から昭和16年(1941)の平均が58.8%で、少し下がっていますが、それでも高い数値であることが分かります。

   もう一つ住環境の水準を表すグラフを紹介します。

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                        【       同上       】

   このグラフを見ると、明治20年頃から戦前の昭和15までの一人当たりの住宅延べ面積は全国平均で10㎡を少し超えたレベルでほぼ横ばいで推移しています。10㎡は畳6畳ほどですが、実際は土間(昔は炊事場や玄関が土間)や収納庫も含んだ面積なので生活空間としては更に狭くなります。下のグラフは日本の総人口の推移です。このグラフを見ると日本が明治時代から現在に至るまで、一貫して人口が増えていることが分かります。

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                         【      同上      】

   この2つのグラフと国民所得のグラフ、そしてエンゲル係数の表から読み取れるのは、明治から戦前の時代から戦前の昭和時代まで、日本は人口が丁度2倍近く増えているが、国民の生活水準はほとんど変わっていないことが分かります。更に1929年アメリカから始まった株価暴落に始まる大恐慌は、1930年代に日本を直撃します。日本の主要な輸出産品だった生糸や絹織物の価格は、2年の間におよそ2分の1にまで暴落します。当然世の中に失業者が溢れるようになります。この頃の公的な失業率が初めて統計として残るようになっています。

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                 【⬆︎同上「失業率の推移」】

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   【⬆︎同上  「職業紹介機関数と利用者の推移】 

  失業率はほぼ7%程度あり、確かに現在の感覚からすればかなり高い水準です。しかし目を世界に転じれば1933年のアメリカの失業率は25%、1932年のドイツの失業率は31%と桁違いの高さになっています。これには理由があります。日本はこの当時欧米のような賃労働契約が確立されておらず、住み込みで無報酬の丁稚奉公のように形でも失業ではありません。その当時の世相からすれば〝食べさせてもらえるだけでいい〟という感覚だったでしょう。 それと半分近くを占めた貧しい農村人口が分母の調査人口に加わるので、当然失業率は低くなります。

  そして日本を直撃した大恐慌は、当時47%と日本の人口のおよそ半分を占めた農村で生活する人々を打ちのめします。生糸や米などの主要農産物の価格は、半分にまで下り農業に必要な肥料や生活物資を買うことすら出来なくなります。そんな中、1931年に北海道・東北地方を冷害・凶作が襲います。欠食児童があふれ、授業中に倒れる児童があいつぐなど、北海道・東北地方は飢饉状態となります。このような状態ではとても家族を食べさせることができず、口減らしのために昔の朝の連続ドラマ『おしん』のように幼い子供を丁稚奉公に出したり、借金苦から逃れるために娘を遊女に売ったりする事例が少なからずありました。しかも日本(当時の内地)は、第一次産業が半分近くを占めながら(ほとんどが農業)、戦前まで韓国などから全体の1割程度米を輸入していたというありさまです。いかに日本の農業の生産性が低かったかが分かります。当時日本はそうした農村の過剰人口を受け入れるだけの産業が十分育っていなかったのです。だから日本は明治時代の中頃からアメリカのハワイや西海岸への移民が本格化し、1890年代の後半には年3万人を超える米国移民がありました。そして明治時代後半の1900年代になると人種差別を伴う排日運動が激しくなり、1924年アメリカは移民法でアジアからの移民の受け入れを全面禁止します。するとアメリカの移民と入れ替わるようにブラジル移民が増えていきます。そうです、日本はまだ戦前内地の人口7000万人を労働者として受け入れるだけの産業が育っていなかったのです。

 

    長々と戦前までの日本の貧しい実態を紹介してきました。確かに伝統的な日本文化としても〝清貧は美徳〟という風土が、日本人の気質、遺伝子としても受け継がれていて、その点は評価すべき点でもあります。16世紀の戦国時代に、日本の薩摩(現在の鹿児島県)に上陸したキリシタン宣教師が、武士が貧しくとも平然としていることに驚き、「この国(日本)では貧しさがときに誇りにさえなる、このあたりがヨーロッパと違っている」という主旨の報告書をローマに書き送っているといいます。確かに、農村において見られるように、貧しくとも耐え忍んで一生懸命生きる姿が戦前の歴史の中にありました。従って日本という国は、戦前まで大多数が豊かさを享受するという歴史はないのです。確かに第一次世界大戦後、人口が多く軍事大国にもなった日本は5大国の一員になりますが、国民生活の内実は欧米に比べて貧しい国でした。もちろん欧米も第二次世界大戦前から今の豊かさを享受していたわけではないでしょうが、それでも戦前から日本とは違いがありました。一つだけ100年以上前のアメリカの話を紹介します。私の好きな作家の司馬遼太郎の紀行文『アメリカ素描』という本があります。

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【⬆︎司馬遼太郎アメリカ素描』(新潮文庫)】

アメリカ素描』は、昭和60年(1985年)に読売新聞に発表された紀行文で、アメリカの西から東まで(特に東が中心)40日ほどで旅し、その場所場所で日本とアメリカの文化の違いや、昔の日本人が関係した場所で過去を遡ってその当時のことを考えてみたりするものです。その中にこんな一節がありました。日露戦争当時の外務大臣だった小村寿太郎が外務省のまだ1役人だった明治21年に、同じ宮崎県出身の桝本卯平という人が小村寿太郎家の書生となります(明治の官員は同郷の秀才をひきとって、書生という名目で修学させるのが一種の義務となっていた)。明治31年桝本が東京大学の造船科を卒業する年、小村寿太郎は駐米行使としてアメリカに赴任します。その縁で桝本は小村の紹介状を持って、フィラデルフィアの造船所に入ります。そして後年の大正3年に桝本は『自然の人  小村寿太郎』を刊行します。その中に「アメリカの力は、給料のよさと、食べものの安さと、それに自由にある」と書いてるといいます。

   桝本はフィラデルフィアの造船所で職工の仕事をするのですが、最初は素人工なので日給は1ドル40セントと安い。下宿料は食事付きで週5ドル。休まず働いて収入は週7ドル70セントにすぎない。最初はやっていけるか心配したが、杞憂だった。これは米国生活を経験した人でないとわからない、という。

   この週5ドルの下宿は、当時の日本と比較すれば、「(日本の)職工町の月6円位の下宿にあたる」といい(当時の小学校の教諭、警察官などの初任給は8〜9円といわれた)、しかし実際には比較にならない、という。わずか週5ドルでありながら食事が良く、日曜日にはケーキがついたのである。またふだん果物などはザルで買っていつも蓄えていて、当時の日本の暮らしとひきくらべて、じつに贅沢に感じられた、という。

   確かに、毎週下宿代を払ってしまえば、手元に2ドル70セントしか残らない。

   しかし、使いごたえが違う。

   わずか5セントを持ってゆくだけで、小売りの酒屋でビールがたっぷり飲めるのである。そして酒屋には、大皿にたっぷりとビーフ、ハム、サンドイッチ、チーズといった、当時の日本なら第一級のごちそうが盛り上げてある。しかもいくら食べてもタダなのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   一部ですが、これが今から118年前、桝本卯平という日本人がアメリカのフィラデルフィアで経験した話です。

 

    こうして日本と欧米の歴史を比べると、戦前までの日本は、日本人の大多数が豊かな生活というものを享受していない、経験していないということが言えます。そして戦後も食料不足、焼け野原からの復興がはじまり、1960年代、1970年代の高度経済成長を通して、アメリカに次ぐ経済規模を誇るまでになり、1970年代には先進国の仲間入りをします。確かに私の過去を振り返っても、1960年代にはテレビや洗濯機、冷蔵庫などの家電製品がどんどんと家の中に入ってきて豊かになっていく感じはありました。70年代にはどこもマイカーを持ち、クーラーも家庭に入るようになって、確かに物質的には豊かになって、その点で日本人のほとんどは豊かさを感じていたでしょう。1980年代には、ほとんどの人は〝自分は中流〟の生活をしていると思うようになりました。しかし、前回の投稿でも紹介したように、〝生活の質を豊かにする〟という点ではまだ欧米に劣っていると感じています。夕食は、モダンのコンセプトのキッチンルームで夫婦とあるいは家族と食事を楽しみ、食後はクラッシックのコンセプトでトータルコーディネートしたリビングで家族と過ごす(もちろん欧米にもそんな生活と無縁の人もいますが)。そんな欧米の中〜上流の人たちのライフスタイルと比較すれば、その質はまだ欧米が圧倒的に上だと思います。そうです、日本はもっと生活を豊かに、生活の質を上げていく必要があるのです。「街の景観を良くする」ということも、日本人全体が問題意識を持って、政治とも関わりつつ変えていく必要があるでしょう。今の貧相な日本の街並みの景観では、本当の意味で豊かさを実感できません。そういう豊かな生活を経験していくことが、これから欧米など豊かな国からの観光客を増やしていくためにも必要だと思います。

 

   それから『新・観光立国論』で有名になったデービッド・アトキンソンさんが、最近その続編で実践編として『世界一訪れたい日本のつくりかた』という本を出しました。その中に特に気になる一説があります。それは日本の5つ星ホテルの少なさです。

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【⬆︎デービッド・アトキンソン『世界一訪れたい日本のつくりかた』(東洋経済)】

    本で紹介されている5つ星ホテルは、日本は28です。一方インバウンド客で日本を上回っているタイは、110と日本の4倍近くあります。当然外国人観光客一人あたり観光収入もタイの方が日本より多くなっています。都市別でも東京の18に対してバンコクは33です。インドネシアのバリ島は、ちょうど日本の千葉県と同じ位の面積ですが、5つ星ホテルは41と日本全体の5つ星ホテルの数を上回っています。世界には1泊数百万もする超高級ホテルがあります(日本にも最近東京にできたようですが)。そんなホテルでないとアラブの国の王族のような超セレブたちは泊まってくれないのです。日本人には〝清貧は美徳〟という考え方が根づいていて、そんなホテルをつくる発想がなかったし、1泊数百万のホテルをつくれといっても、全くイメージできないでしょう。そのためそんなホテルをつくるためには、日本は現在海外の力を借りるしかありません。いずれにしても日本より5倍近くあるタイの欧米人インバウンド数に近づくためには、今以上に高級ホテルを充実させることが必要です。

 

   話が少し横道に逸れすぎて散漫になってしまいました。この章の内容を整理して終わります。

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   あなたが日本人で日本で生まれ、日本で生活しているならば、日本の歴史とその文化、伝統に誇りを持って生きるべきです。もし「日本の文化・伝統が好きになれない」と思っていて、外国の人にそのことを話そうものなら、外国の人はそのことを理解できず、あなたを軽蔑するでしょう。とりわけ日本で観光業に携わる人なら日本の文化・伝統に誇りを持って外国人にも説明し、対応してほしいのです。なぜなら外国から日本に観光で来る人は日本の文化・伝統に触れるために、わざわざ遠くからお金を使って日本に来てくれているのです。受け入れる側の日本人が自信を持って日本の文化・伝統を語り、説明することがあるべき姿です。その一歩としては自分の身近なこと、馴染みのあることから理解を深めていくことと思います。日本全国にはその土地ならではの文化、伝統があります。その地元の文化、伝統への理解を深めること、そのことが日本に誇りを持つ第一歩だと思います。

   しかし、ここで私は日本の多くの皆さんに日本の遥かなる昔、縄文時代の先史時代から続く日本の歴史を知ってほしいと思っています。とりわけ縄文時代については、数年前になりますが、NHKのある番組を見て大変驚いたことがあります。正に〝なるほど、そういうことだったのか〟という思いです。そのことが皆さんに縄文時代のことを知ってほしいきっかけになっています。そのNHKの番組とは、2015年11月8日(日)に放送された「NHKスペシャル  アジア巨大遺跡第4集『縄文奇跡の大集落  1万年持続の秘密〜』」という番組です。その番組の内容をかいつまんで説明します。

 

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【⬆︎ NHKオンデマンドより】

   この番組は冒頭、女優の〝杏〟さんがナビゲーター役で、こんなナレーションから始まります。「今年の5月(2015年)、世界的なオークション会社で日本の遥かいにしえの文化を象徴するものが、驚きの価格で落札されました。縄文時代土偶です。その額1億9000万円……。今、日本の縄文文化に世界の注目が集まっています・・・」。日本史の教科書で見たことのあるあの土偶がなんと1億9000万円!、そして日本の縄文文化を世界が注目している⁉︎。正に驚きの内容でスタートします。そして世界の研究者が縄文時代(文化)を研究しているのです。そして番組は1994年に本格的な発掘調査が行われ、大集落を形成していたことが分かった青森県三内丸山遺跡を中心に縄文文化を考察していきます。

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【⬆︎写真(上)大英博物館縄文土器等の展示コーナーと同博物館研究員のコメント (下)1万年以上続く縄文時代NHKオンデマンドより編集】

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【⬆︎NHKオンデマンドより (写真上)三内丸山遺跡下の地層から1500年に渡って土器が発掘 (写真下2枚)県の管理で保管されている土器はダンボール箱4万箱分という保管庫】

   世界が注目している縄文時代の特徴とは、

縄文時代は1万年以上文明として続いており、これはメソポタミア、エジプト、インダス、中国の各文明より長い文明である。

② 世界の4大文明は穀物を栽培する〝農耕〟がそれぞれの文明の前提になっているが、縄文文明は農耕文化は普及せず〝狩猟採集〟を基本にした定住生活を1万年以上に渡って続けている。

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【⬆︎NHKオンデマンドより  2013年4月8日付のネイチャーに日本の縄文文化に関する論文が掲載される】

   イギリスヨーク大学などの研究で、縄文時代1万4000年前の土器を分析した結果、魚などを煮炊きした痕跡が残されていることを証明しています。

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 【⬆︎写真上下 NHKオンデマンドより  米国カルフォルニア大学のジャレド・ダイアモンド教授による縄文文化の説明】

   NHKオンデマンドの画像からも分かるように、縄文文化(文明)について正に世界から注目され、実際に世界各国でその研究がすすめられているのです。

   この番組で紹介されている三内丸山遺跡は、今から5500万年前から集落を形成するようになり、その後1500年集落が続いたことが土器の埋蔵されている地層分析から分かっています。そして三内丸山遺跡では縄文時代当時栗を栽培し(苗木からの植樹を毎年繰り返していたと推定される)、貴重な食糧としていた。まだ穀物を栽培する農耕ではないものの〝栗の栽培〟という立派な農業を行っていたのです。

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【⬆︎(上左)時代別の土壌に含まれる花粉から三内丸山遺跡が5500年以上前から栗の栽培をしていたと推定される元となるグラフ (上右)栗花粉の多さと三内丸山遺跡が重なる。(中左)東京大学 辻誠一郎教授「栗の苗から植えていたと思う」といっている。(他3枚)栗の苗木の植樹と栗畑のイメージ写真】

 

   三内丸山遺跡はおよそ1500年から2000年続きました。何があってその後その同じ場所に人が住まなくなったのか、その原因は定かではありません。しかし現在の天皇の先祖が今の奈良県を拠点とし、日本の大半をその影響化に置き始めてから現在に至るまでの年数とほぼ同じ年数が、三内丸山遺跡があった場所では村落共同体として継続したということになります。そしてそんな定住地が場所は変わりながらも、日本の縄文時代は1万以上続くのです。そして縄文時代については〝あれっ?〟と思うことがあります。それはその遺跡が圧倒的に東日本に多いということです。そのことがよく分かる図が私の蔵書の中にありました。少し古いですが、1991年講談社による発行の日本全史(ジャパン・クロニック)です。

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 【⬆︎照葉樹林、落葉広葉樹林の分布とサケ・マスの遡上t分布図及び縄文遺跡の分布図】

まずサケ・マスの遡上の量の違いです。サケ・マスは西日本の河川では遡上しません。そして魚そのものがよく集まるのが北日本です。暖流と寒流がぶつかる場所で、しかも海水の上下の対流が発生しやすい北日本の海の方が栄養分が豊富なため、多くの魚が集まります。それと東日本に多く分布する落葉広葉樹林は、クルミ、クリ、トチとナラ類のドングリなどの木の実をつけるのに対して、西日本では森林のほとんどを占める常緑広葉樹林は、シイ、カシ類のドングリくらいで、木の実もぐっと少なくなります。そして3000年前まで、干満の差が大きかった関東平野には、多くの貝塚がありました。そうした状況を考えれば東日本に遺跡が集中するのが理解できます。

 

   そして、青森県三内丸山遺跡のような1500年ほどの定住生活を続ける例から、比較的短い期間のものもの含め、1万年以上場所を変えながら縄文時代が続いたのです。中国の長江流域で米の稲作が始まったのは、今から約9000年前の紀元前7000年ころと言われています。日本の九州に稲作技術が導入され、栽培がはじまったのは、紀元前350ころと言われています。中国で稲作が始まってから6500年近くが経っています。そんなに長い間、1人の日本人も稲作のことを知らなかったはずはありません。ある時点で既に稲作のことを知っていたが、受け入れなかった。受け入れなくても生活が成り立っていたからでしょう。そのことを、NHKスペシャルに登場した米カルフォルニア大学のジャレド・ダイアモンド教授が説明しています。

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   ということは、日本の縄文時代は1万年以上に渡って、少しずつ場所を変えながら、労働の共同作業などで成り立つ村落共同体を維持してきたことになります。そして1万年以上の同じ社会の継続は、日本独特の文化を形成し、日本人の体質、遺伝子として染みついてきていると思います。〝日本は瑞穂の国〟と言われています。その瑞穂の国としての歴史はおよそ2000年です。しかし、その瑞穂の国のベースにあったのは〝ゆい〟に代表される助け合い、協力しあう精神です。その精神は、1万年以上村落共同体を維持してきた縄文時代に形成されたに違いありません。縄文人は、さまざまな木の実を作り、食料となる動物を与えてくれる森の恵みに、サケ・マスを遡上させる川の恵みや近海にくる魚や貝をもたらす海の恵みに、そして日の光=太陽の恵みで自分たちは生かされていると思ったでしょう。縄文人が住むすべての自然が恵みを与えてくれると思ったとしても不思議はありません。これは草木のほとんど生えない砂漠の国ではありえません。すべての自然=八百万に神が宿っている、その神様によって私たちは生かされていると思うことは、なんら不思議はありません。そんな神に感謝する気持ちを1万年以上に渡って持ち続けてきたのです。ラフカディオ・ハーン小泉八雲)は、1890年に来日し、翌月には島根県松江の中学校と師範学校で英語を教えることとなって、松江での生活を始めます。その時のこととを、後に『神々の国の首都』に書きます。その一節を紹介します。

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   残念ですが、もうこんな風景は日本からなくなってしまいました。こんな光景に今もし出会ったとしたら、日本人の私ですら感動で涙してしまうでしょう。こんな光景が盆正月、祭の特別な日にだけ行われたのではなく、それこそ毎日の日常の姿だったのです。確かにあらゆるところに神様の存在があるという点に関しては、山梨の私の実家で、正月を準備するのに、玄関だけでなく、家の至るところにしめ縄をつけていたことを思いだします。昔の台所は〝かまど〟を使って煮炊きをしていました。そこにも父が「かまどの神様にも」と言って、しめ縄をつけていました。戦後生まれの私は、「こんなところに神様がいるわけがないだろう」と内心思っていましたが、今思えば〝至るところでに神あり〟の八百万の神の伝統は、私の子供時代まで多く残っていたように感じます。そして、日本は1万5000年以上も前から、自然の恵みを享受することによって生命をつなぎ、仲間と助け合って生き、子孫を今日までつないできました。それは日本人の体質、遺伝子とまでなっています。それをあらゆる点で日本の強みとすべきです。もちろん観光業においても同じです。むしろ観光業こそ、異文化の体感を求めてやってくるインバウンド旅行者に最も有効です。1万年以上に及ぶ縄文時代の歴史が、その遺伝子が、今日ある祭など、さまざまな日本の文化につながっているのだと思います。観光業に携わる人こそ縄文時代から続く日本の歴史に学び、誇りを持たなければなりません。あなたが、そんな歴史を外国の方に胸を張って語ることができたなら、外国の方は感動し、そしてあなたをきっと尊敬するでしょう。もちろん日本の歴史に自惚れるだけではいけません。外国の優れたところにも素直に学ぶ必要があります。

 

   多くの欧米人は、日本も中国も韓国も同じ文化圏に属していると思っています。私もアメリカの政治学者 故サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』を読むまでは、 そう思っていました。サミュエル・ハンチントンは、1990年代以降の世界を大きく8つの文明に分けています。その8つ文明とは、中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明(存在すると考えた場合)です。中華文明と日本文明を完全に分けています。欧米の著名な歴史学者政治学者は、みな日本と中国は全く違う文明と認識しているのです。

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   ただしサミュエル・ハンチントンは、日本に対して気になる指摘もしているので紹介します。

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   サミュエル・ハンチントンは、日本に対する課題もしっかり提言してくれています。日本文化は外国人にとってわかりにくい点をたくさん持っています。日本同士のように〝あ・うん〟の呼吸で理解することなどできません。日本文化は、まだインターナショナルで普遍性を持つまでに至っておらず、現在までその努力は不十分です。〝理解できない相手が悪い〟などと独断的な思考や行動を取り続けるならば、日本はまた国際社会から孤立してしまいます。欧米の論理的思考は、キリスト教と並んで欧米文化の基本をなしているように思います。そしてその思考法は、わかりやすく普遍性を持っているから世界中に広がったのです。

   日本と欧米を比べて、トヨタ自動車の生産性の高さなど、仕事においても確かに日本が優れている点も多くあります。しかし、論理的に物事を思考し、組み立てて事業活動を行うという点では、欧米が優れ学ぶべき点が多くあります。何事も具体的でわかりやすいのです。

   先日8月6日(日)の日本経済新聞の1面に「農産品輸出1兆円へ壁 〜安全認証 世界に遅れ〜」という記事が乗っていました。

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【⬆︎8月6日 日本政経済新聞1面記事より】

日本政府は、農産物の輸出額1兆円を目標としていますが、食材の安全性の認証制度が、高いハードルになっているという。ドイツ発祥のグローバルGAP(Good Agricural Practice)で、農薬・肥料の使用量から農業用水の管理、衛生面まで検査項目は数百にわたるという。世界約18万件の農業者が取得しているが、日本は400件で1%にも達していない。一方南半球のニュージーランドでは、全農家の97%が国際認証を取得済みだという。そしてインドネシアやタイなどの東南アジアでも、日本に対してこの国際認証を求め始めているといいます。

 

   もう、20年以上前の話になります。リスク管理の一つとして、食品の安全を確保するため、栽培や飼育から加工、製造流通などの過程を明確にする〝トレーサビリティ〟ということが言われ始めたのは、今から20年以上も前のことです。そのころの前職場のコープでのことです。あるバイヤーがこんな話をしてくれました。視察と商談で、南半球にあるオーストリアニュージーランドに行ってきて驚いたといいます。オーストリアニュージーランドは、カボチャなど、日本向けに野菜なども作っているのですが、その農家を視察して分かったのは、ほとんどの農家が、使用した農薬、肥料の種類と使用した量、使用した時期など10年以上前からデータベース化してあって分かるようになっているという。日本では、とても考えられないことだと言っていました。記録に残すという点を始め、仕事の考え方と組み立て方、そしてすすめ方で日本が学ぶべき点が欧米社会にはたくさんあります。普遍性を持つ論理で貫かれています。現在でも日本と欧米と比べると、あらゆる方面で歴然とした差があると思います。そうした点は謙虚に徹底して学ぶ必要があります。確かに日本の歴史・伝統・文化は世界に誇れるものがあります。司馬遼太郎さんは、そうした日本の歴史、文化を世界で一級のものだと言っていました。アインシュタインを始め、日本文化、日本民族に対して尊敬と畏敬の念を持った外国人も数多くいます。しかしそんな日本の歴史・伝統・文化だけにあぐらをかいていたら進歩はないし、国際社会の中で今より存在感の薄い国になってしまい、世界で孤立してしまう恐れがあります。日本の歴史・伝統・文化に誇りを持ちながら、世界の優れた点は謙虚に、そしてしたたかに学び、取り入れていく必要があります。

 

 

   話を観光のことに戻します。このシリーズで説明したように、とりわけ観光業、宿泊・飲食に関わる業界の生産性が低いために働く人の給料が低すぎます。平均で年収税込300万を切るようでは話しになりません。もちろん、今の仕事のスタイルのままでは給料を上げららません。1人当たりの労働生産性を革新していく必要があります。そのために現状のままの仕事のスタイルでただ〝頑張ります〟というだけではダメでしょう。これまでそのための施策を提言してきましたので、改めて繰り返しません。繰り返したらまた話しが長くなってしまいます。最後にこれまで述べてきたことを簡単にまとめて、このシリーズを終えたいと思います。

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※上のまとめで、このシリーズで一度も紹介していなかった星野リゾートの〝星野佳路社長〟の名前を出しています。このシリーズをまとめている中で、星野社長のことを本で詳しく知りました。この観光業界の生産性の低さと賃金の低さに強い問題意識を持っていて、その変革に向けた実践を実際に行っている人だということが分かりました。そのため日本のこの業界の労働生産性の低さと賃金の低さの問題を変えていく上で、最もキーになる人と思い、あえて名前を出しています。

 

   最後まで読んでいただきありがとうございました。

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【⬆︎2016年7月 黒川温泉湯本荘 露天風呂にて】

 

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    予定よりだいぶ時間がかかってしまいました。本当なら、日本の住宅のあるべき姿についても書くつもりでしたが、あまりに長くなるのでやめました。関心のある方は、このシリーズの第3回を改めて読んでいただければと思います。また改めて勉強し、日本の住宅と街並みの景観については別の機会に紹介できたらと思っています。

   それから今回最終回の一番最後に、星野リゾートの星野社長のことを紹介しました。星野社長のことは、名前だけは知っていたのですが、詳しくは知りませんでした。改めて本を読んで衝撃を受けています。考え方がシンプルで分かりやすく、日本の観光業界の最大の弱点である〝労働生産性の低さ〟に強い問題意識と危機感を持ち、変革期の観光事業を自らが事業を展開する中で変えようとしています。間違いなく日本の観光業変革の中心人物です。

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   これから少し時間がかかりますが、実際星野リゾートの施設を利用してみて、感じたことなどをブログテーマの一つにしたいと思います。実は先月「星野リゾート 界 熱海」に行ってきました。黒川温泉シリーズの最終回が時間がかかってしまい、着手出来ませんでした。これから(仮称)〝星野リゾートを旅する〟の投稿作業に入ります。

 

                              2017年8月14日