♨️黒川温泉に学ぼう《第5回(最終回)》2017.8.14

f:id:takeo1954:20170814131951j:image 【⬆︎  奥黒川温泉  旅館  山みずき 2016.7.17】

 

   シリーズ「黒川温泉に学ぼう」は今回が最終回となります。今回も長くなりますがご容赦ください。今回は日本の観光産業の現状の課題(問題点)、そして今後の日本の観光産業及び日本の街並みの改善に向けた課題についてです。

 

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【⬆︎秋田県農林水産部農地整備課の欧州視察のドイツ編より 】

 

   インターネットでヨーロッパの観光産業の事をいろいろ検索していたら、愕然とするある論文に出会いました。それは2014年3月の「立教大学観光学部紀要」第16号に掲載された『ヨーロッパの経験した観光開発と有給休暇制度』と題する白坂 蕃(しらさか しげる  現在帝京大学観光学部教授)氏の論文です。

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  この論文は16ページにわたるものですが、私が〝愕然とした〟という部分「II.旧西ドイツのツーリズム政策と経験」を、少し長くなりますが、全文掲載します。

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【ヨーロッパの経験した観光開発と有給休暇制度  「II  旧西ドイツのツーリズム政策と経験」 立教大学観光学部  第16号  2014年3月  (白坂   蕃)】

 

   第二次世界大戦後,国家が政策として国民生活にいち早くツーリズムを取り入れたのは旧西ドイツ政府であった.旧西ドイツ政府のツーリズム政策と山村開発の経験からわれわれが学ぶべきことは,きわめて多い(富川久美子,2007).

   旧西ドイツのオリンピック委員会のある委員からの筆者の聞き取りによれば,第二次世界大戦後の旧西ドイツ政府は敗戦によって衰えた国民の体力を回復するために,いち早く都市の内部や周辺に各種のスポーツ施設を開設し,スポーツクラブを整備した.これはゴールデン プランとして知られ,その後のオリンピックなどでの西ドイツ選手の活躍の礎は,ここにあるといわれる.

   また西ドイツでは1960年代の,いわゆる「奇跡の経済復興Wirtschaftwunder」により社会生活が安定した.

   その結果,自家用車やキャンピングカーによる旅行が増大した.その受け皿として国内の山村地域に多額の資金援助をして農民民宿を整備した.

   つまり,西ドイツ政府はアデナウワー首相のもとで,次のように考え,都市環境や農山村政策を着実に実施した(Martin Oppermann,1996).

   都市生活が安定してくると,農民から都市への人口移動が顕著になることが旧西ドイツ政府には容易に予測された.これを放置すれば,農山村からの都市への人口流入が顕著になる.都市人口の急速な膨張をおさえて,さらには農山村を健全に維持することを西ドイツ政府は真剣に考えた.

   西ドイツ政府は「農山村は人口の都市への過度集中に対する防波堤であり,人口分散政策のうえからも農山村は重要な役割を果たしている.その価値は単なる経済的な尺度でははかれない」と考え,農山村の人口維持のために資金援助をした.

   1973年における筆者の聞き取りによれば,旧西ドイツ政府は条件不利地域にある農牧業経営にさまざまな補助金を提供した.

   そのひとつが農民民宿である.

   西ドイツ政府は観光に対する需要の増加を見込んで,農家が民宿を経営できるよう多額の補助金を支出し,政策的にその増加を誘導した.

   具体的には,古い農家を建て替えるときに農家には客室(10室以下)を整備してもらい,10年間は民宿経営をしてもらうのである.そのために,家屋の建築のための補助金を農家に与えた.

   たとえば,筆者が1976年に聞き取りをしたときに,バーデンビュルテンベルク州では,その補助金が家屋の建築費用の30%にもなっていた.またバイエルン州では40%であった.

   旧西ドイツの多くの州では,これに倣って農家民宿が政府の補助金政策のもとで整備された.また小さな民宿(8ベッド以下)は自由に開業でき,特別の許可がなく,朝食や牛乳を宿泊者に提供できるようにした.

   その結果,こんにち,旧西ドイツ地域には民宿料金の安い農家民宿が広く分散的にみられる(石井英也,1982;富川久美子,2005;富川久美子,2007,pp.49ー52).

   西ドイツに限らず,1960年代のヨーロッパでは多くの国々で,いわゆる農村観光が盛んになった(Martin  Edmunds,1999;横山秀司,2006).こんにちでは,イギリスにも農家民宿は整備されているが,やはりアルプスをもつスイス(石井啓雄・楜澤能生,1998,pp,181ー208;石原照敏,2001),オーストリア(Masaaki  Kureha,1995;上野福男,1997;石井啓雄・楜澤能生,1998,pp.157-181;池永正人,2000,2008;呉羽正昭2001a,2002),フランス(石原照敏,1999,2001),そしてドイツ(呉羽正昭,2001b;富川久美子,2007)に顕著である.

   筆者の聞き取りによれば,1970年頃から旧西ドイツ政府は「農村で休暇を  Urlaub  auf  Land」の一大キャンペーンをはり,さらには有給休暇制度を整備(後述)して,国民に農山村での休暇をよびかけた.

   旧西ドイツでは国や州の補助金をうけた農家民宿は宿泊価格もてごろで,家族連れで滞在しても大きな負担にはならない(浮田典良,2000).そのセールスポイントは「農村生活」で,すでにこの当時から,いわゆるエコ=ツーリズムやグリーン=ツーリズムを実践していた.

   長い有給休暇に支えられて,国民の旅行は増大し,農山村における景観の維持と人口減少を食い止めることに旧西ドイツ政府は成功したといえる.

   その背景には国家政策としての有給休暇の充実があることを忘れてはならない.

 

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   以上の記述が私が驚愕した内容です。特に文中の太字及び下線部分(とりわけ私が驚愕した部分)です。ドイツと日本は第二次世界大戦後、同じ敗戦国として連合国の支配下の中で、戦争の惨禍の復興から出発した点など、多くの点で置かれた環境が似ていました。しかし、日本はドイツとは全く異なる結果となって現在に至っています。もちろん〝ドイツのような視点は全くなかった〟と言ったら語弊があるでしょう。日本にも農林水産省があり、農山村の農業振興や村の維持のために、農道、林道、用水路等の整備、優遇税制や各種補助金が国の予算で支出されてきました。しかし結果的には日本の農山村と都市の関係は、ドイツとは全く異なるものとなっています。

 

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   その点について前々回になりますが、このシリーズ第3回で紹介した元国土交通省次官の増田優一さんが次官になる前の国交省大臣官房審議官時代に、一般社団法人 土地総合研究所の第100回定期講演会で講演した内容が講演録になっています。その内容の中に、戦前戦後の日本の置かれているやむにやまれぬ事情があったことが書かれています。その辺をもう一度紹介します。

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講演のテーマは「美しいまちづくり、国づくりに向けて 〜景観緑三法について〜  」で、その講演で、〝景観と都市化の動向〟という内容で話した部分があり、〝日本がまちづくりで景観の視点を持てなかった理由〟が述べられています。その部分を講演録から掲載します。

 

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【土地総合研究所  定期講演会  第100回 「美しいまちづくり、国づくりに向けて 〜景観緑三法について〜  」】

   日時:平成16年6月18日

   場所:東海大学交友会館

 (当時)国土交通省大臣官房審議官  増田  優一

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   我が国の土地法制(前段で「我が国の土地法制が日本の景観を悪くし、地域振興を妨げているということではないかなと思います」と述べている。)がそうなっているのは、別に我々行政がサボってきたわけではなくて、一番大きな理由というのは、これも諸外国に例のない急激な人口増、急速な都市化に対応するためやむを得なかったという面もあるんです。ちょうど100年前、今年が2004年ですから1904年、この年はちょうど日露戦争が始まった年ですね。日本の人口は、その年4,780万人なんですね。これは国土の範囲も変わっていたり、あるいはヨーロッパもいろんな形で変わっていますので、一概に比較できないということをお断りした上でいいますと、その年の人口はイギリスもフランスもドイツも大体同じくらいの人口規模なんですね。その後、紆余曲折がありますけれども、大体ヨーロッパの国々は同じように4〜5,000万から5〜6,000万、イギリスも、あるいはドイツもフランスも、ちょうど100年前の人口規模と、それぞれいわゆるベビーブーマーみたいなものがあって、若干でこぼこがあるんですが、我が国のようにあまり急激に増えていないんですね。

   日本はどうかといいますと、ごく最近の数字ですとおよそ1億2,700万人ほどの人口ですから、ちょうど100年前の人口に比べて8,000万人もの人口が増えているわけです。国土の広さというのはほとんど変わらないわけですから、この人たちをどうやって住まわせるか、最低限度の生活をどうやって営ませるかというのは、やっぱり国策の中心課題だったわけです。「衣食足りて礼節を知る」というように社会一般の価値観は景観どころではなかったのです。統合して国土交通省になりましたけれども、旧建設省当時、ちょっと前まで省の重点政策の大きな柱は、長い間、住宅・宅地の大量供給ということだったのです。ともかく増える人口、それから急激な都市化にどう対応していくかが国づくり、都市づくりのこの100年、戦前から含めて、この100年の課題だったわけです。ですから、とてもそういうヨーロッパの土地法制度みたいに「所有権はあっても利用権は認めない」とか「計画なきところに開発なし」といったような、ドイツなんかのBプランみたいに建物の意匠、形態まで含めた計画をつくってこないと新規の開発は認めないというような政策のとりようがなかったわけであります。したがって、我が国の景観はあまりにもひどいと言われましても、もうそれは今ごろ文句を言われてもしようがなかったんですよと弁解もしたくなるわけです。

   ですから、今なぜ景観法かといえば、「衣食が足りた」からということなのです。つまり、急激な人口増も都市化も終わったということです。まさにもうしばらくしたら人口がピークになって、むしろその後人口がどんどん減っていく。つまり急激な人口増や急激な都市化の圧力からもう完全に開放されて、むしろこれからは人口減少の時代ですし、また、土地利用についてもDID(人口集中地区)面積もどんどん減っていくような時代、逆都市化なんて言葉を使う人もいますけれども、市街地がどんどん縮小していく時代になってきたのです。ですから、時計の針が完全に逆に回るような、すべての外的環境、経済社会環境が逆方向に向かっているという時代に日本もなってきたわけでありまして、したがって、なぜ今景観法かと言われれば、一言でいえばそういうことだということなわけです。ですから、そういう意味で言えば、急激な人口増や急速な都市化に対応するためにこれまで整備されてきた都市計画法なり建築基準法なりをこの際抜本的に見直さなきゃいけないという主張もある意味で根拠があるんです。ただ、現実問題としてそんなに急に基本法制を転換するのは無理ということで、やっと遅まきながら景観法を議論することができたということです。

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   こんなふうに増田さんから戦前戦後の状況を率直に説明されると、日本のやむおえない状況も分かってきます。これまで日本の街並みの景観がどんどん醜くなってきている状況を、私は「なんでこんなに日本の政治は無策無能なんだ」という怒りを持っていましたが、増田さんから「そんなに怒っても仕方ない事情が日本にはあったんですよ」となだめられている感じもしてきます。今回のテーマに関連して日本の戦前戦後の歴史を改めて勉強みたのですが、確かに日本の戦前戦後の歴史を知れば知るほどこれまでの日本人の暮らしは貧しく、特に欧米と比較するならばその差は歴然としていることを私は思い知りました。そんな経済的に余裕のない中ではとても景観などと言っていられないのが日本の状況だったといっていいでしょう。私がブログにも書いてきた〝なぜ日本は伝統的な様式の家屋を壊してチープな洋風、国籍不明の家屋にしてしまったのか〟と言う問題意識は、日本の過去の実体を知ればそう単純ではないことも分かってきました。

 

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   それでは私が〝景観どころではなかった日本〟と思う理由をいくつかを紹介し、検証してみたいと思います。

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   私は今年になってから伊勢市の図書館である本を見つけました。『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真 〜マーケーザ号の日本旅行〜 』という本です。この本はイギリスの旅行家で、博物学者、文筆家でもあった「ヘンリー・ギルマール」が、1882年から1883年にかけカムチャッカ半島、東南アジア・ニューギニア、日本などを探検旅行した際に撮影した写真(日本での写真は写真師 臼井秀三郎 撮影)と旅行日誌がケンブリッジ大学に寄贈されていたものを、同大学図書館日本部長だった「小山 謄(のぼる)氏」が日本向けに編集し、2005年に本にしたものです。そんな本だったので明治時代の日本の街並みの写真を見ることができると思い、ページを開いて見て驚きました。日本はその2年の間に2回訪れて旅行をしていますが、その第1回目でなんと私の生まれ故郷の山梨県身延町身延山久遠寺とその門前町の写真、そして甲府や河口湖など他の山梨県の写真が載っていたのです。そしててその写真は、私自身が勝手に思い描いていたイメージとは異なるものでした。

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【⬆︎『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真 〜マーケーザ号の日本旅行〜 』の表表紙、ヘンリー・ギルマール肖像画日本旅行1回目と2回目の行程】

   何が異なったのかといえば、それは街並みがあまりに〝貧相〟に見えたということです。そう見えた写真を掲載します。同じ山梨県吉田村(現 富士吉田市)、同 河口村(現  川口湖町)、同 藤野木(現  笛吹市御坂町)の写真と合わせて掲載します。

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    【⬆︎ (写真上 )吉田村   (写真下)河口村】

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                     【⬆︎ 藤野木】

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        【⬆︎(写真上下)身延山久遠寺祖師堂】

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                    【⬆︎ 身延山久遠寺門前町

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【⬆︎ 比較のため現在の身延山久遠寺門前町(グーグルマップより)】

    今回紹介した写真は、特別な地域という訳ではなく日本の地方、田舎に普通に見られる一般的な住まいの光景だったと思います。この写真から当時の地方の貧しさが伝わってきます。

   それからこの本には、ヘンリー・ギルマールが日本で旅行した時のことを、帰国後に書いた旅行紀『いなごの喰った年』も本の中に収められています。その中に当時の日本の様子の一端を紹介しています。たいへん興味深いのでその何ヶ所かを紹介します。

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   ギルマールの旅行日誌を読んでいると、当時の日本のまだ西洋化されていない貧しい生活の様子が、悪臭とともに伝わってくるようです。こんなギルマールの旅した日本に住めるかと言ったら、私もそうですが今のほとんどの人が住めないでしょう。私は昭和29年生まれで、しかも山梨県身延町の農家の息子に育ったので、ギルマールが言う〝悪臭〟のことはわかる気がします。

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【⬆︎ 国土交通省 『下水道クイックプロジェクト』より』

   国土交通省の資料によれば、日本の下水道普及率は昭和40年(1965年)で都市部を含め全国で8%となっています。当然今から50年前の私のふるさとは下水道もなければ浄化槽もありません。全国のほとんどの地域で、わずか50年前までは、トイレに溜まった屎尿はどうするかというと、柄杓で汲み取って肥桶(こえおけ)に移し、天秤棒でかついで畑にある肥溜めに溜めるか、直接畑の肥料にするため、肥桶から柄杓を使って畑に撒くのです。下の写真は屎尿を肥桶に汲み取って天秤棒でかついでいるの映画『裸の島』の1シーンです。こういう光景は日常的に目にする光景でした。f:id:takeo1954:20170724063242j:image

【⬆︎1960年製作映画『裸の島』(監督 新藤兼人)より  写真の人は女優「乙羽信子」】

 そして、その時の悪臭は今の若い人たちにとって想像を絶するものがあるでしょう。そういう出来事に遭遇したらしばらく鼻をつまんでいないと耐えられない強烈な臭いです。私はふるさとの今は廃校になった小学校(身延町立大和小学校)を昭和41に卒業しましたが、6年生がトイレの清掃を担当していました。当然今と違い、水洗ではなく浄化槽もない汲み取り式トイレです。当然トイレが屎尿で溜まれば汲み取りもやりました。汲み取った屎尿は他の排水同様に学校の敷地から近くの富士川に排出される側溝に柄杓を使って直接流し込むのです。そんな「今やれ」と言われてもとてもできないことを、当時はそれが当たり前だったので(仕方なく)やっていました。そして日本はこの屎尿を〝肥料として使う〟ということを、他のどの国よりも大々的にやっていました。江戸時代は江戸近隣の農家に屎尿を肥料用として売るために、江戸の町から発生する屎尿を有料で買い取って商売としていた業者がいて、屎尿を流通させる仕組みになっていたと言われています。そのためそのことが下水道を必要とせず、下水道普及が進まなかった要因とも言われています。戦後1960年代から農業用の肥料は化学肥料が急速に普及(もちろん戦前から肥料の流通はあった)し、屎尿を肥料として必要としなくなって下水道や浄化槽等の整備が急務となり、今から22年ほど前の平成5年に、やっと全国の下水道普及率が50%を超えるようになったのです。ですからこの日本から屎尿の悪臭を排除できるようになったのは、そんな昔の話ではないのです。

   このイギリスの冒険家ヘンリー・ギルマールの母国イギリスでは、18世紀(1700年代)末まで屎尿は全て地上に留まっていました。便器に溜まった屎尿を窓から投げ捨てるなど行為が日常的に行われ、ロンドンなど異臭が町中に充満していました。ロンドンでは19世紀(1800年代)前半には下水管が整備され、各家庭からの屎尿は他の生活排水とともに直接排水路からテムズ川に流すようにになりました。そのためトイレで使用したおびただしい量の紙(トイレットペーパー)がテムズ川を漂っていたと言われています。そして1858年にロンドンでテムズ川から臭う大異臭が発生します。浄化されないままの屎尿や生活排水、動物の死骸などが漂い、その年の高温が加わって汚物・汚水の発酵が発生したためでした。その悪臭のために議会はストップし、市民から議会への強い抗議行動が起きます。この事態を受け、議会は本格的な下水道の整備に乗り出します。本格的な下水道整備に取りかかったのは1864年からです。それから150年をかけて下水道を整備していきます。ギルマールがもし、自分の誕生年より10〜20年前のイギリスに生まれていたらまた違った日本への感想を持ったと思います。日本の場合は屎尿が農業用の肥料として必要とされたために、本格的な下水道整備がスタートしたのは今から60年ほど前からで、大がかりな基盤整備が必要な下水道を普及させるには相応の年月が掛かってしまいます。

   この日本の屎尿処理方法について、評価する視点での著作もあります。現ケンブリッジ大学名誉教授のアラン・マクファーレン氏の著書『イギリスと日本』です。

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【⬆︎アラン・マクファーレン著『イギリスと日本』の表表紙と日本の屎尿処理を評価している部分】

   その本の中の第9章「人糞処理の二つの方法」の最後の方で述べている一節を紹介します。

 f:id:takeo1954:20170724142240j:image     と、日本の屎尿処理が下水道が普及するまで、非常に優れた仕組みである評価しています。またアメリカの動物学者で1877年(明治10年)に来日し、東京大学教授になったモースは、来日してすぐ電車で横浜から東京まで行く途中の電車の中から貝塚を発見(大森貝塚)したことで有名ですが、日本の民具と陶器の収集家としても有名で、アメリカに戻ってからボストン美術館に寄贈し、目録を整理して〝モース日本コレクション〟としても知られています。そのモースによる日本のトイレのスケッチも残っています。

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【⬆︎『モースの見た日本〜モース・コレクション[民具編]』(小学館)】

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 【⬆︎  同上の「モースの見た日本の便所」】

   モースは日本のトイレにまで興味を持ち、詳細なスケッチ(スケッチの達人でもありました)も残していて、そこに愛情すら感じてしまいます。いずれにしても屎尿処理については日本独特の事情があり、そのことが下水道の普及を遅らせる要因になったようです。

   ギルマールの日本に対する感想にあった〝悪臭〟とか〝寄生虫〟とかの言葉が気になって、話がだいぶ横道に逸れてしまいました。それだけで話が長くなってしまいました。また話を戻しますが、1882年にギルマールが日本に来て見た民家の写真は、明らかに日本の貧しさを物語っています。そんな粗末な住宅にいたるところで屎尿の臭いが漂っていたのです。

 

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   さて、話を転じます。私はこのシリーズの中で、日本の住宅の景観が戦後急速に日本の伝統的な佇まいを喪失して見にくくなってしまい、そのことがインバウンド数の少ない要因になっていると書いてきました。この「黒川温泉に学ぼう」の第3回では、長崎大学付属図書館のデータベースから日本の代表的な風景の写真を引用して何枚かを紹介しました。また同じ回の投稿で、旭化成グループの旭リサーチセンターのレポート「日本は美しい景観を取り戻せるか」というテーマでまとめた中の一節を紹介し、幕末から明治維新にかけて日本を訪れた外国人が日本の当時の風景を見て皆がその美しさに驚き、〝桃源郷のようだ〟と感嘆したことを紹介しました。確かに日本には日本庭園を持ち、自然の景観の中に溶け込んだ佇まいの家屋が並ぶ絵になる風景がありました。しかしそれがすべてではありません。むしろ大半の日本人が生活する住まいは、今回紹介した写真にある風景だったと理解するほうが正しいのではと思うようになりました。正直なところ写真にある住まいなら、学術的な観点から住まいとして残すならともかく、実際に居住し、生活を営みながら住まいを残していくと言っても、住宅そのものがあまりに貧相すぎます。今ほとんどの人がギルマールが見た日本の写真にあるような住宅に住みたいとは思わないでしょう。日本の原風景は、岐阜県白川郷福島県の大内宿など、伝統的建造物保存地域に指定されているようなところばかりではなかったのです。日本は大半の貧相な住宅の中に、地主の家や倉敷近江八幡、川越など経済的に余裕のあった商人たちが作った立派な蔵を持つ建物群が点在していたと見るべきでしょう。戦前までは華族や政治家、財閥などの政商=大資本家の多くは、洋館といわれる洒落た建物を建て住んでいて、間違いなく豊かな生活をしていたと思います。でも日本全体の人口に占める割合は1%未満でしょう。また東京などの都会や地方でも公務員や民間企業のサラリーマン勤めをしていた人は、戦前でもそんな贅沢は出来ないにしてもそれなりの住まいと生活水準で生活していたようです。私の実家は山梨の農家で、私自身の生まれは昭和29年です。まだ食生活はとても〝豊か〟とはいえませんでした。逆に一昨年亡くなった私の母親は、隣町にある南部町のサラリーマン(父親が学校の先生)の娘として産まれ、戦前に私の実家に嫁いで来たのですが、昔話を聞いて驚いたのは、私は実家で見たことも食べたこともないステーキを、母親は自分の実家で子供の頃食べたことがあると言うのです。戦前そうした家庭も確かにあったでしょう。でも日本は戦前までほとんどが貧しい生活の中で生きていたのだと思います。後で改めてグラフを紹介しますが、日本は昭和10年日本の産業別の就業構成では、半分近い47%が農業などの第一次産業で、製造業などの第二次産業が20%強、それ以外のサービス業、公務員などの第三次産業が30%強です。では第二次産業第三次産業のほとんどがサラリーマン家庭かというとそうではありません。大実業家というなった松下幸之助本田宗一郎も丁稚からスタートしたように住みこみで無給の丁稚(盆正月に小遣いがでる)や住みこみの奉公人が多くいました。女性なら住みこみの女中(家事手伝い)や製紙工場などの女工さんです。(丁稚のように)ほとんど無給か極めて低い賃金で働く第二次産業第三次産業に従事する人も多くいたのです。1925年に発表された細井和喜の『女工哀史』には、鐘紡(鐘淵紡績)など大手の企業で比較的恵まれた労働環境のところも紹介されていますが、多くの女工が働く工場は、長時間で劣悪な労働環境、低賃金で働かせるところがほとんどと言っていいくらいでした(女優 大竹しのぶが主演した1979年公開の映画『あゝ野麦峠』に当時の女工たちの姿が表現されている)。そして問題の日本の人口の半分以上を占めた地方の農村です。もちろん地方の大地主と地方で製糸工場などを経営する資本家は別で、それ以外の大半を占める小作農や小地主などの農民の生活実体です。それを把握するために少し古いですが、総合研究開発機構が昭和60年(1985年)3月に発行した『生活水準の歴史的推移』のデータも見ながら明治から戦前までの生活実体を探りたいと思います。

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【⬆︎総合研究開発機構『生活水準の歴史的推移』】

   最初にこの時代(1880年代)の日本は、第1次産業(農林水産業)に従事する人口が、約8割となっていることが下のグラフから見てとれます。

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【⬆︎総合研究開発機構 『生活水準の歴史的推移』より】

   上のグラフで見ると第1次産業従事者はこの100年で大きく減っていますが、それでも第二次世界大戦直前でも約50%は第1次産業従事者となっています。そしてもう一つのグラフを見ると日本の戦前の貧しさが分かります。

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                         【⬆︎     同上     】

   上のグラフは昭和55年(1980年)を基準に物価変動を調整した国民所得の推移ですが、戦前の低さが際立っています。前のグラフで見たように、日本の産業構造は戦前で50%は農業従事者で占められます。農業従事者は公務員、工場労働者などの賃金労働者と違い、現物経済を基本にしていたので賃金収入というものはほとんどありませんでした。ほとんど自給自足の生活でした。

    更にエンゲル係数を表した一覧を見てみましょう。

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                       【⬆︎     同上     】

   この一覧で明治18年(1885)から明治33年(1900)まで、15年間の平均のエンゲル係数(全支出に対する食費の占める割合)は67.2%とあります。正に〝食べるために生きている〟〝仕事をしている〟という感じです。食べること以外ほとんど余裕がなかったと言っていいでしょう。大正8年(1919)から昭和16年(1941)の平均が58.8%で、少し下がっていますが、それでも高い数値であることが分かります。

   もう一つ住環境の水準を表すグラフを紹介します。

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                        【       同上       】

   このグラフを見ると、明治20年頃から戦前の昭和15までの一人当たりの住宅延べ面積は全国平均で10㎡を少し超えたレベルでほぼ横ばいで推移しています。10㎡は畳6畳ほどですが、実際は土間(昔は炊事場や玄関が土間)や収納庫も含んだ面積なので生活空間としては更に狭くなります。下のグラフは日本の総人口の推移です。このグラフを見ると日本が明治時代から現在に至るまで、一貫して人口が増えていることが分かります。

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                         【      同上      】

   この2つのグラフと国民所得のグラフ、そしてエンゲル係数の表から読み取れるのは、明治から戦前の時代から戦前の昭和時代まで、日本は人口が丁度2倍近く増えているが、国民の生活水準はほとんど変わっていないことが分かります。更に1929年アメリカから始まった株価暴落に始まる大恐慌は、1930年代に日本を直撃します。日本の主要な輸出産品だった生糸や絹織物の価格は、2年の間におよそ2分の1にまで暴落します。当然世の中に失業者が溢れるようになります。この頃の公的な失業率が初めて統計として残るようになっています。

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                 【⬆︎同上「失業率の推移」】

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   【⬆︎同上  「職業紹介機関数と利用者の推移】 

  失業率はほぼ7%程度あり、確かに現在の感覚からすればかなり高い水準です。しかし目を世界に転じれば1933年のアメリカの失業率は25%、1932年のドイツの失業率は31%と桁違いの高さになっています。これには理由があります。日本はこの当時欧米のような賃労働契約が確立されておらず、住み込みで無報酬の丁稚奉公のように形でも失業ではありません。その当時の世相からすれば〝食べさせてもらえるだけでいい〟という感覚だったでしょう。 それと半分近くを占めた貧しい農村人口が分母の調査人口に加わるので、当然失業率は低くなります。

  そして日本を直撃した大恐慌は、当時47%と日本の人口のおよそ半分を占めた農村で生活する人々を打ちのめします。生糸や米などの主要農産物の価格は、半分にまで下り農業に必要な肥料や生活物資を買うことすら出来なくなります。そんな中、1931年に北海道・東北地方を冷害・凶作が襲います。欠食児童があふれ、授業中に倒れる児童があいつぐなど、北海道・東北地方は飢饉状態となります。このような状態ではとても家族を食べさせることができず、口減らしのために昔の朝の連続ドラマ『おしん』のように幼い子供を丁稚奉公に出したり、借金苦から逃れるために娘を遊女に売ったりする事例が少なからずありました。しかも日本(当時の内地)は、第一次産業が半分近くを占めながら(ほとんどが農業)、戦前まで韓国などから全体の1割程度米を輸入していたというありさまです。いかに日本の農業の生産性が低かったかが分かります。当時日本はそうした農村の過剰人口を受け入れるだけの産業が十分育っていなかったのです。だから日本は明治時代の中頃からアメリカのハワイや西海岸への移民が本格化し、1890年代の後半には年3万人を超える米国移民がありました。そして明治時代後半の1900年代になると人種差別を伴う排日運動が激しくなり、1924年アメリカは移民法でアジアからの移民の受け入れを全面禁止します。するとアメリカの移民と入れ替わるようにブラジル移民が増えていきます。そうです、日本はまだ戦前内地の人口7000万人を労働者として受け入れるだけの産業が育っていなかったのです。

 

    長々と戦前までの日本の貧しい実態を紹介してきました。確かに伝統的な日本文化としても〝清貧は美徳〟という風土が、日本人の気質、遺伝子としても受け継がれていて、その点は評価すべき点でもあります。16世紀の戦国時代に、日本の薩摩(現在の鹿児島県)に上陸したキリシタン宣教師が、武士が貧しくとも平然としていることに驚き、「この国(日本)では貧しさがときに誇りにさえなる、このあたりがヨーロッパと違っている」という主旨の報告書をローマに書き送っているといいます。確かに、農村において見られるように、貧しくとも耐え忍んで一生懸命生きる姿が戦前の歴史の中にありました。従って日本という国は、戦前まで大多数が豊かさを享受するという歴史はないのです。確かに第一次世界大戦後、人口が多く軍事大国にもなった日本は5大国の一員になりますが、国民生活の内実は欧米に比べて貧しい国でした。もちろん欧米も第二次世界大戦前から今の豊かさを享受していたわけではないでしょうが、それでも戦前から日本とは違いがありました。一つだけ100年以上前のアメリカの話を紹介します。私の好きな作家の司馬遼太郎の紀行文『アメリカ素描』という本があります。

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【⬆︎司馬遼太郎アメリカ素描』(新潮文庫)】

アメリカ素描』は、昭和60年(1985年)に読売新聞に発表された紀行文で、アメリカの西から東まで(特に東が中心)40日ほどで旅し、その場所場所で日本とアメリカの文化の違いや、昔の日本人が関係した場所で過去を遡ってその当時のことを考えてみたりするものです。その中にこんな一節がありました。日露戦争当時の外務大臣だった小村寿太郎が外務省のまだ1役人だった明治21年に、同じ宮崎県出身の桝本卯平という人が小村寿太郎家の書生となります(明治の官員は同郷の秀才をひきとって、書生という名目で修学させるのが一種の義務となっていた)。明治31年桝本が東京大学の造船科を卒業する年、小村寿太郎は駐米行使としてアメリカに赴任します。その縁で桝本は小村の紹介状を持って、フィラデルフィアの造船所に入ります。そして後年の大正3年に桝本は『自然の人  小村寿太郎』を刊行します。その中に「アメリカの力は、給料のよさと、食べものの安さと、それに自由にある」と書いてるといいます。

   桝本はフィラデルフィアの造船所で職工の仕事をするのですが、最初は素人工なので日給は1ドル40セントと安い。下宿料は食事付きで週5ドル。休まず働いて収入は週7ドル70セントにすぎない。最初はやっていけるか心配したが、杞憂だった。これは米国生活を経験した人でないとわからない、という。

   この週5ドルの下宿は、当時の日本と比較すれば、「(日本の)職工町の月6円位の下宿にあたる」といい(当時の小学校の教諭、警察官などの初任給は8〜9円といわれた)、しかし実際には比較にならない、という。わずか週5ドルでありながら食事が良く、日曜日にはケーキがついたのである。またふだん果物などはザルで買っていつも蓄えていて、当時の日本の暮らしとひきくらべて、じつに贅沢に感じられた、という。

   確かに、毎週下宿代を払ってしまえば、手元に2ドル70セントしか残らない。

   しかし、使いごたえが違う。

   わずか5セントを持ってゆくだけで、小売りの酒屋でビールがたっぷり飲めるのである。そして酒屋には、大皿にたっぷりとビーフ、ハム、サンドイッチ、チーズといった、当時の日本なら第一級のごちそうが盛り上げてある。しかもいくら食べてもタダなのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   一部ですが、これが今から118年前、桝本卯平という日本人がアメリカのフィラデルフィアで経験した話です。

 

    こうして日本と欧米の歴史を比べると、戦前までの日本は、日本人の大多数の大多数が豊かな生活というものを享受していない、経験していないということが言えます。そして戦後も食料不足、焼け野原からの復興がはじまり、1960年代、1970年代の高度経済成長を通して、アメリカに次ぐ経済規模を誇るまでになり、1970年代には先進国の仲間入りをします。確かに私の過去を振り返っても、1960年代にはテレビや洗濯機、冷蔵庫などの家電製品がどんどんと家の中に入ってきて豊かになっていく感じはありました。70年代にはどこもマイカーを持ち、クーラーも家庭に入るようになって、確かに物質的には豊かになって、その点で日本人のほとんどは豊かさを感じていたでしょう。1980年代には、ほとんどの人は〝自分は中流〟の生活をしていると思うようになりました。しかし、前回の投稿でも紹介したように、〝生活の質を豊かにする〟という点ではまだ欧米に劣っていると感じています。夕食は、モダンのコンセプトのキッチンルームで夫婦とあるいは家族と食事を楽しみ、食後はクラッシックのコンセプトでトータルコーディネートしたリビングで家族と過ごす(もちろん欧米にもそんな生活と無縁の人もいますが)。そんな欧米の中〜上流の人たちのライフスタイルと比較すれば、その質はまだ欧米が圧倒的に上だと思います。そうです、日本はもっと生活を豊かに、生活の質を上げていく必要があるのです。「街の景観を良くする」ということも、日本人全体が問題意識を持って、政治とも関わりつつ変えていく必要があるでしょう。今の貧相な日本の街並みの景観では、本当の意味で豊かさを実感できません。そういう豊かな生活を経験していくことが、これから欧米など豊かな国からの観光客を増やしていくためにも必要だと思います。

 

   それから『新・観光立国論』で有名になったデービッド・アトキンソンさんが、最近その続編で実践編として『世界一訪れたい日本のつくりかた』という本を出しました。その中に特に気になる一説があります。それは日本の5つ星ホテルの少なさです。

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【⬆︎デービッド・アトキンソン『世界一訪れたい日本のつくりかた』(東洋経済)】

    本で紹介されている5つ星ホテルは、日本は28です。一方インバウンド客で日本を上回っているタイは、110と日本の4倍近くあります。当然外国人観光客一人あたり観光収入もタイの方が日本より多くなっています。都市別でも東京の18に対してバンコクは33です。インドネシアのバリ島は、ちょうど日本の千葉県と同じ位の面積ですが、5つ星ホテルは41と日本全体の5つ星ホテルの数を上回っています。世界には1泊数百万もする超高級ホテルがあります(日本にも最近東京にできたようですが)。そんなホテルでないとアラブの国の王族のような超セレブたちは泊まってくれないのです。日本人には〝清貧は美徳〟という考え方が根づいていて、そんなホテルをつくる発想がなかったし、1泊数百万のホテルをつくれといっても、全くイメージできないでしょう。そのためそんなホテルをつくるためには、日本は現在海外の力を借りるしかありません。いずれにしても日本より5倍近くあるタイの欧米人インバウンド数に近づくためには、今以上に高級ホテルを充実させることが必要です。

 

   話が少し横道に逸れすぎて散漫になってしまいました。この章の内容を整理して終わります。

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   あなたが日本人で日本で生まれ、日本で生活しているならば、日本の歴史とその文化、伝統に誇りを持って生きるべきです。もし「日本の文化・伝統が好きになれない」と思っていて、外国の人にそのことを話そうものなら、外国の人はそのことを理解できず、あなたを軽蔑するでしょう。とりわけ日本で観光業に携わる人なら日本の文化・伝統に誇りを持って外国人にも説明し、対応してほしいのです。なぜなら外国から日本に観光で来る人は日本の文化・伝統に触れるために、わざわざ遠くからお金を使って日本に来てくれているのです。受け入れる側の日本人が自信を持って日本の文化・伝統を語り、説明することがあるべき姿です。その一歩としては自分の身近なこと、馴染みのあることから理解を深めていくことと思います。日本全国にはその土地ならではの文化、伝統があります。その地元の文化、伝統への理解を深めること、そのことが日本に誇りを持つ第一歩だと思います。

   しかし、ここで私は日本の多くの皆さんに日本の遥かなる昔、縄文時代の先史時代から続く日本の歴史を知ってほしいと思っています。とりわけ縄文時代については、数年前になりますが、NHKのある番組を見て大変驚いたことがあります。正に〝なるほど、そういうことだったのか〟という思いです。そのことが皆さんに縄文時代のことを知ってほしいきっかけになっています。そのNHKの番組とは、2015年11月8日(日)に放送された「NHKスペシャル  アジア巨大遺跡第4集『縄文奇跡の大集落  1万年持続の秘密〜』」という番組です。その番組の内容をかいつまんで説明します。

 

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【⬆︎ NHKオンデマンドより】

   この番組は冒頭、女優の〝杏〟さんがナビゲーター役で、こんなナレーションから始まります。「今年の5月(2015年)、世界的なオークション会社で日本の遥かいにしえの文化を象徴するものが、驚きの価格で落札されました。縄文時代土偶です。その額1億9000万円……。今、日本の縄文文化に世界の注目が集まっています・・・」。日本史の教科書で見たことのあるあの土偶がなんと1億9000万円!、そして日本の縄文文化を世界が注目している⁉︎。正に驚きの内容でスタートします。そして世界の研究者が縄文時代(文化)を研究しているのです。そして番組は1994年に本格的な発掘調査が行われ、大集落を形成していたことが分かった青森県三内丸山遺跡を中心に縄文文化を考察していきます。

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【⬆︎写真(上)大英博物館の縄文土器等の展示コーナーと同博物館研究員のコメント (下)1万年以上続く縄文時代NHKオンデマンドより編集】

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【⬆︎NHKオンデマンドより (写真上)三内丸山遺跡下の地層から1500年に渡って土器が発掘 (写真下2枚)県の管理で保管されている土器はダンボール箱4万箱分という保管庫】

   世界が注目している縄文時代の特徴とは、

縄文時代は1万年以上文明として続いており、これはメソポタミア、エジプト、インダス、中国の各文明より長い文明である。

② 世界の4大文明は穀物を栽培する〝農耕〟がそれぞれの文明の前提になっているが、縄文文明は農耕文化は普及せず〝狩猟採集〟を基本にした定住生活を1万年以上に渡って続けている。

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【⬆︎NHKオンデマンドより  2013年4月8日付のネイチャーに日本の縄文文化に関する論文が掲載される】

   イギリスヨーク大学などの研究で、縄文時代1万4000年前の土器を分析した結果、魚などを煮炊きした痕跡が残されていることを証明しています。

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 【⬆︎写真上下 NHKオンデマンドより  米国カルフォルニア大学のジャレド・ダイアモンド教授による縄文文化の説明】

   NHKオンデマンドの画像からも分かるように、縄文文化(文明)について正に世界から注目され、実際に世界各国でその研究がすすめられているのです。

   この番組で紹介されている三内丸山遺跡は、今から5500万年前から集落を形成するようになり、その後1500年集落が続いたことが土器の埋蔵されている地層分析から分かっています。そして三内丸山遺跡では縄文時代当時栗を栽培し(苗木からの植樹を毎年繰り返していたと推定される)、貴重な食糧としていた。まだ穀物を栽培する農耕ではないものの〝栗の栽培〟という立派な農業を行っていたのです。

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【⬆︎(上左)時代別の土壌に含まれる花粉から三内丸山遺跡が5500年以上前から栗の栽培をしていたと推定される元となるグラフ (上右)栗花粉の多さと三内丸山遺跡が重なる。(中左)東京大学 辻誠一郎教授「栗の苗から植えていたと思う」といっている。(他3枚)栗の苗木の植樹と栗畑のイメージ写真】

 

   三内丸山遺跡はおよそ1500年から2000年続きました。何があってその後その同じ場所に人が住まなくなったのか、その原因は定かではありません。しかし現在の天皇の先祖が今の奈良県を拠点とし、日本の大半をその影響化に置き始めてから現在に至るまでの年数とほぼ同じ年数が、三内丸山遺跡があった場所では村落共同体として継続したということになります。そしてそんな定住地が場所は変わりながらも、日本の縄文時代は1万以上続くのです。そして縄文時代については〝あれっ?〟と思うことがあります。それはその遺跡が圧倒的に東日本に多いということです。そのことがよく分かる図が私の蔵書の中にありました。少し古いですが、1991年講談社による発行の日本全史(ジャパン・クロニック)です。

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 【⬆︎照葉樹林、落葉広葉樹林の分布とサケ・マスの遡上t分布図及び縄文遺跡の分布図】

まずサケ・マスの遡上の量の違いです。サケ・マスは西日本の河川では遡上しません。そして魚そのものがよく集まるのが北日本です。暖流と寒流がぶつかる場所で、しかも海水の上下の対流が発生しやすい北日本の海の方が栄養分が豊富なため、多くの魚が集まります。それと東日本に多く分布する落葉広葉樹林は、クルミ、クリ、トチとナラ類のドングリなどの木の実をつけるのに対して、西日本では森林のほとんどを占める常緑広葉樹林は、シイ、カシ類のドングリくらいで、木の実もぐっと少なくなります。そして3000年前まで、干満の差が大きかった関東平野には、多くの貝塚がありました。そうした状況を考えれば東日本に遺跡が集中するのが理解できます。

 

   そして、青森県三内丸山遺跡のような1500年ほどの定住生活を続ける例から、比較的短い期間のものもの含め、1万年以上場所を変えながら縄文時代が続いたのです。中国の長江流域で米の稲作が始まったのは、今から約9000年前の紀元前7000年ころと言われています。日本の九州に稲作技術が導入され、栽培がはじまったのは、紀元前350ころと言われています。中国で稲作が始まってから6500年近くが経っています。そんなに長い間、1人の日本人も稲作のことを知らなかったはずはありません。ある時点で既に稲作のことを知っていたが、受け入れなかった。受け入れなくても生活が成り立っていたからでしょう。そのことを、NHKスペシャルに登場した米カルフォルニア大学のジャレド・ダイアモンド教授が説明しています。

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   ということは、日本の縄文時代は1万年以上に渡って、少しずつ場所を変えながら、労働の共同作業などで成り立つ村落共同体を維持してきたことになります。そして1万年以上の同じ社会の継続は、日本独特の文化を形成し、日本人の体質、遺伝子として染みついてきていると思います。〝日本は瑞穂の国〟と言われています。その瑞穂の国としての歴史はおよそ2000年です。しかし、その瑞穂の国のベースにあったのは〝ゆい〟に代表される助け合い、協力しあう精神です。その精神は、1万年以上村落共同体を維持してきた縄文時代に形成されたに違いありません。縄文人は、さまざまな木の実を作り、食料となる動物を与えてくれる森の恵みに、サケ・マスを遡上させる川の恵みや近海にくる魚や貝をもたらす海の恵みに、そして日の光=太陽の恵みで自分たちは生かされていると思ったでしょう。縄文人が住むすべての自然が恵みを与えてくれると思ったとしても不思議はありません。これは草木のほとんど生えない砂漠の国ではありえません。すべての自然=八百万に神が宿っている、その神様によって私たちは生かされていると思うことは、なんら不思議はありません。そんな神に感謝する気持ちを1万年以上に渡って持ち続けてきたのです。ラフカディオ・ハーン小泉八雲)は、1890年に来日し、翌月には島根県松江の中学校と師範学校で英語を教えることとなって、松江での生活を始めます。その時のこととを、後に『神々の国の首都』に書きます。その一節を紹介します。

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   残念ですが、もうこんな風景は日本からなくなってしまいました。こんな光景に今もし出会ったとしたら、日本人の私ですら感動で涙してしまうでしょう。こんな光景が盆正月、祭の特別な日にだけ行われたのではなく、それこそ毎日の日常の姿だったのです。確かにあらゆるところに神様の存在があるという点に関しては、山梨の私の実家で、正月を準備するのに、玄関だけでなく、家の至るところにしめ縄をつけていたことを思いだします。昔の台所は〝かまど〟を使って煮炊きをしていました。そこにも父が「かまどの神様にも」と言って、しめ縄をつけていました。戦後生まれの私は、「こんなところに神様がいるわけがないだろう」と内心思っていましたが、今思えば〝至るところでに神あり〟の八百万の神の伝統は、私の子供時代まで多く残っていたように感じます。そして、日本は1万5000年以上も前から、自然の恵みを享受することによって生命をつなぎ、仲間と助け合って生き、子孫を今日までつないできました。それは日本人の体質、遺伝子とまでなっています。それをあらゆる点で日本の強みとすべきです。もちろん観光業においても同じです。むしろ観光業こそ、異文化の体感を求めてやってくるインバウンド旅行者に最も有効です。1万年以上に及ぶ縄文時代の歴史が、その遺伝子が、今日ある祭など、さまざまな日本の文化につながっているのだと思います。観光業に携わる人こそ縄文時代から続く日本の歴史に学び、誇りを持たなければなりません。あなたが、そんな歴史を外国の方に胸を張って語ることができたなら、外国の方は感動し、そしてあなたをきっと尊敬するでしょう。もちろん日本の歴史に自惚れるだけではいけません。外国の優れたところにも素直に学ぶ必要があります。

 

   多くの欧米人は、日本も中国も韓国も同じ文化圏に属していると思っています。私もアメリカの政治学者 故サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』を読むまでは、 そう思っていました。サミュエル・ハンチントンは、1990年代以降の世界を大きく8つの文明に分けています。その8つ文明とは、中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明(存在すると考えた場合)です。中華文明と日本文明を完全に分けています。欧米の著名な歴史学者政治学者は、みな日本と中国は全く違う文明と認識しているのです。

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   ただしサミュエル・ハンチントンは、日本に対して気になる指摘もしているので紹介します。

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   サミュエル・ハンチントンは、日本に対する課題もしっかり提言してくれています。日本文化は外国人にとってわかりにくい点をたくさん持っています。日本同士のように〝あ・うん〟の呼吸で理解することなどできません。日本文化は、まだインターナショナルで普遍性を持つまでに至っておらず、現在までその努力は不十分です。〝理解できない相手が悪い〟などと独断的な思考や行動を取り続けるならば、日本はまた国際社会から孤立してしまいます。欧米の論理的思考は、キリスト教と並んで欧米文化の基本をなしているように思います。そしてその思考法は、わかりやすく普遍性を持っているから世界中に広がったのです。

   日本と欧米を比べて、トヨタ自動車の生産性の高さなど、仕事においても確かに日本が優れている点も多くあります。しかし、論理的に物事を思考し、組み立てて事業活動を行うという点では、欧米が優れ学ぶべき点が多くあります。何事も具体的でわかりやすいのです。

   先日8月6日(日)の日本経済新聞の1面に「農産品輸出1兆円へ壁 〜安全認証 世界に遅れ〜」という記事が乗っていました。

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【⬆︎8月6日 日本政経済新聞1面記事より】

日本政府は、農産物の輸出額1兆円を目標としていますが、食材の安全性の認証制度が、高いハードルになっているという。ドイツ発祥のグローバルGAP(Good Agricural Practice)で、農薬・肥料の使用量から農業用水の管理、衛生面まで検査項目は数百にわたるという。世界約18万件の農業者が取得しているが、日本は400件で1%にも達していない。一方南半球のニュージーランドでは、全農家の97%が国際認証を取得済みだという。そしてインドネシアやタイなどの東南アジアでも、日本に対してこの国際認証を求め始めているといいます。

 

   もう、20年以上前の話になります。リスク管理の一つとして、食品の安全を確保するため、栽培や飼育から加工、製造流通などの過程を明確にする〝トレーサビリティ〟ということが言われ始めたのは、今から20年以上も前のことです。そのころの前職場のコープでのことです。あるバイヤーがこんな話をしてくれました。視察と商談で、南半球にあるオーストリアニュージーランドに行ってきて驚いたといいます。オーストリアニュージーランドは、カボチャなど、日本向けに野菜なども作っているのですが、その農家を視察して分かったのは、ほとんどの農家が、使用した農薬、肥料の種類と使用した量、使用した時期など10年以上前からデータベース化してあって分かるようになっているという。日本では、とても考えられないことだと言っていました。記録に残すという点を始め、仕事の考え方と組み立て方、そしてすすめ方で日本が学ぶべき点が欧米社会にはたくさんあります。普遍性を持つ論理で貫かれています。現在でも日本と欧米と比べると、あらゆる方面で歴然とした差があると思います。そうした点は謙虚に徹底して学ぶ必要があります。確かに日本の歴史・伝統・文化は世界に誇れるものがあります。司馬遼太郎さんは、そうした日本の歴史、文化を世界で一級のものだと言っていました。アインシュタインを始め、日本文化、日本民族に対して尊敬と畏敬の念を持った外国人も数多くいます。しかしそんな日本の歴史・伝統・文化だけにあぐらをかいていたら進歩はないし、国際社会の中で今より存在感の薄い国になってしまい、世界で孤立してしまう恐れがあります。日本の歴史・伝統・文化に誇りを持ちながら、世界の優れた点は謙虚に、そしてしたたかに学び、取り入れていく必要があります。

 

 

   話を観光のことに戻します。このシリーズで説明したように、とりわけ観光業、宿泊・飲食に関わる業界の生産性が低いために働く人の給料が低すぎます。平均で年収税込300万を切るようでは話しになりません。もちろん、今の仕事のスタイルのままでは給料を上げららません。1人当たりの労働生産性を革新していく必要があります。そのために現状のままの仕事のスタイルでただ〝頑張ります〟というだけではダメでしょう。これまでそのための施策を提言してきましたので、改めて繰り返しません。繰り返したらまた話しが長くなってしまいます。最後にこれまで述べてきたことを簡単にまとめて、このシリーズを終えたいと思います。

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※上のまとめで、このシリーズで一度も紹介していなかった星野リゾートの〝星野佳路社長〟の名前を出しています。このシリーズをまとめている中で、星野社長のことを本で詳しく知りました。この観光業界の生産性の低さと賃金の低さに強い問題意識を持っていて、その変革に向けた実践を実際に行っている人だということが分かりました。そのため日本のこの業界の労働生産性の低さと賃金の低さの問題を変えていく上で、最もキーになる人と思い、あえて名前を出しています。

 

   最後まで読んでいただきありがとうございました。

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【⬆︎2016年7月 黒川温泉湯本荘 露天風呂にて】

 

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    予定よりだいぶ時間がかかってしまいました。本当なら、日本の住宅のあるべき姿についても書くつもりでしたが、あまりに長くなるのでやめました。関心のある方は、このシリーズの第3回を改めて読んでいただければと思います。また改めて勉強し、日本の住宅と街並みの景観については別の機会に紹介できたらと思っています。

   それから今回最終回の一番最後に、星野リゾートの星野社長のことを紹介しました。星野社長のことは、名前だけは知っていたのですが、詳しくは知りませんでした。改めて本を読んで衝撃を受けています。考え方がシンプルで分かりやすく、日本の観光業界の最大の弱点である〝労働生産性の低さ〟に強い問題意識と危機感を持ち、変革期の観光事業を自らが事業を展開する中で変えようとしています。間違いなく日本の観光業変革の中心人物です。

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   これから少し時間がかかりますが、実際星野リゾートの施設を利用してみて、感じたことなどをブログテーマの一つにしたいと思います。実は先月「星野リゾート 界 熱海」に行ってきました。黒川温泉シリーズの最終回が時間がかかってしまい、着手出来ませんでした。これから(仮称)〝星野リゾートを旅する〟の投稿作業に入ります。

 

                              2017年8月14日

 

 

 

 

🔶《余談 その1》私の『137億年の物語』

 

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   やっと第1部「母なる自然」の投稿が終わりました。まだ、全体の4分の1ではありますが、4部構成のうちの一つを終えたので、一応一区切りで少しほっとした気分です。投稿する間はテーマ毎に内容をどう紹介するかを考え、テーマ毎にその都度勉強もしました。仕事とはほとんど関係のない一般教養について、改めて学び直すというプロセスは学生時代に戻ったような気分でした。この投稿をするに当たって、第1回目の投稿で私のこのシリーズの投稿の狙いを紹介しました。それは「私が関心のある歴史(先史を含む)について、改めて自分の頭の中を整理する」というものです。その狙いは狙い通りと言っていいでしょう。それと同時に私の中の問題意識の領域は確実に拡がり、より具体的なものになったと思います。

 

   さて、第1部が終わったところで本書から離れた内容になりますが、この本の原作者の国、そして最も気になる国〝イギリス(英国)〟について、「余談」として紹介したいと思います。イギリス(英国)の正式名はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Irelandグレートブリテン及び北アイルランド連合王国)といいます。「えっ、そんな名前だったの?」と初めて知る人も多いでしょう。もちろん正式名はあまりに長いので、ここではイギリス、場合によっては日本語漢字表記の英国を使用します。 

 

    さて、なぜイギリスという国のことが気になるのか、皆さんに紹介したいと思ったのか、それはいろいろ理由がありますが、その理由を四つ上げてみます。 

   一つ目は、議論によって物事を決っしていくという、民主主義の根幹となる習慣が根付いているということです。更に政治やビジネス、あるいは日常的な場面での論理的な思考とその表現力、そして行動力などで優れている点です。二つ目は、イギリス人の思考の基本となると思われる教育制度についてです。特に12世紀にカレッジ制(学寮)として始まったオックスフォード大学ケンブリッジ大学(13世紀初頭)などで行われている特筆すべき教育についてです。三つ目は何故小国でありながら世界の覇者として君臨出来たのか、〝パクス・ブリタニカ〟を形成した力のゆえんです。そして、四つ目は私の個人的な関心でもありますが、イギリスの素晴らしい景観とそれを維持している景観行政についてです。イギリスにまだ行ったことがない私が、こうしたテーマで書くことは、説得力という点で限界があります。本などでかじったイギリスという国の一面の紹介ということになります。その点ご了解ください。もちろん、ぜひイギリスには行ってみたいと思っています。

 

    さて、話が全く変わります。私が歴史について心から〝おもしろい〟と思い、関心を持ち始めたのは大学時代です。大学時代に学生寮の先輩から借りて読んだ司馬遼太郎歴史小説です。その小説は、新選組副長の土方歳三を主人公とした『燃えよ剣』で、これで歴史小説のおもしろさに目覚めました。次に読んだのは、同じ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』です。この本は読み始めたら止まらなくなり、単行本で全5巻(※文庫本は全8巻)を大学を1週間休んで一気に読みきりました。この本で坂本龍馬という人物に、ぞっこんに惚れ込んでしまいました。ちなみに同じこの本で坂本龍馬に惚れ込み、洗脳されてしまった人は多くいます。例えばソフトバンクグループの創業者で、代表取締役社長の孫正義さんです。孫さんは高校時代に『竜馬がゆく』読み、感動します。坂本龍馬が自分の志を遂げるため、そしてもっと広い視野を持って自分をステップ・アップさせるために脱藩したことに感銘し、高校の2年で中退してアメリカ留学を決意し実現します。海援隊武田鉄矢さんも高校時代『竜馬がゆく』を読んで、龍馬に惚れ込みます。そもそも〝海援隊〟の名前からして坂本龍馬が創設した海援隊からその名をそっくりとっています。もちろん私も洗脳された一人です。この本はもう10回ほどは読みました。日本の歴史上に坂本龍馬という人間的魅力にあふれる人物が存在したということ、そしてその人を発見した感動と喜びは何とも言いがたいものがありました。感動のあまり数日はただ茫然とするだけの状態でした。「自分も坂本龍馬のようになるぞ!」と、しばらくは真面目に考えました。

f:id:takeo1954:20170417170247j:image【⬆︎1975年文庫版第1刷版を購入。42年を経て垢と黄ばみで変色した私蔵本】

 

   それから40年以上経った今、もちろん坂本龍馬のようにはなれませんでしたが、今も最も尊敬する歴史上の人物として私の中に存在します。それから、坂本龍馬と同時にその小説の著者である司馬遼太郎という作家も、同じように尊敬の念を持つようになりました。「よくぞ坂本龍馬を取り上げて書いてくれた」という気持ちです。もちろん小説なのでフィクションなのですが、司馬さんはこの本を書くために膨大な資料を集め、読み込み、坂本龍馬という人物を構想して書いています。言わば十分な資料に基づいた仮説の人物像です。しかし、膨大な資料の裏づけを小説の中に感じるので、極めてリアリティがあります。この本は、昭和37年に自身がそこの新聞記者だったサンケイ新聞の新聞連載小説として書いたものです。そして、この小説を書くために集めた資料や取材で使ったお金は、当時の金でおよそ1000万円かけたと言われています。今でも小説を書くのに1000万円をかける人はいないでしょう。それが昭和37年(1962年)といえば今とは貨幣価値が違います。ちなみに昭和37年の大卒初任給の平均が17800円(厚生労働省資料)の時代です。その時代の1000万円です。今の貨幣価値に換算したらざっと1億年でしょうか。「えっ、司馬さんてそんな金持ちだったんだ」と当然思うでしょう。しかし、司馬さんが自腹を切った訳ではありません。『梟の城』で直木賞を昭和35年に受賞していますが、まだ昭和37年同時、後年のように印税収入はまだほとんどなく、とても自分の収入から支出できるはずもありません。実際は毎月100万円、原稿料という名目で産経新聞社で支払うことが、当時の名物社長の鶴の一声で決まったようです。その額に驚いた司馬さんは、「そんな大金はとても使いきれません」と社長に言ったら、社長は「余ったらドブにでも捨てろ」と言ったそうです。そんな訳で十分な元手を得て、古本屋街に軽トラックを乗りつけては必要な書籍、資料を端から集め、持ち帰ってそれを読み込んでいきます。ちなみに数年後に執筆を始めた『坂の上の雲』では、1500万円を費やしたと言われています。司馬さんが小説を書き始めると、古本屋街の古書の相場が上がっていったという、そんなエピソードを持っています。

    さて、そんな司馬さんが、小説の中で実際に日本に実在した人物を数多く取り上げていきます。司馬さんファンになった私は、司馬さんの小説を片っぱしから読むようになりました。司馬さんの小説は前述したように、十分な資料に裏打ちされているので、リアリティがあり、その人物の時代に自分もいるような気分にさせます。そして、司馬さんが小説で取り上げた人物は数多くいますが、例外なく取り上げた人物に尊敬の念を持ちます。こうして私は司馬さんが小説で取り上げた数多くの人物を尊敬すると同時に日本の歴史というものを見直すようになりました。司馬さん自身も「日本は世界の中で一級の歴史を持つ」と言っています。司馬さんがそういうなら説得力があります。そうして私はますます日本の歴史に関心を持つようになり、好きになり、日本という国に誇りを持つようになりました。

f:id:takeo1954:20170403102333j:image【⬆︎昔購入した司馬さん関連の本、雑誌】

   そうして日本の歴史に誇りを持つようになりましたが、一つ大きな例外があります。太平洋戦争(この言い方は戦後GHQからの指示による。当時の日本の表現は大東亜戦争)とそこに至る前史です。この戦争による犠牲者は、軍人、民間人合わせて約310万人(支那事変以降の犠牲者を含む。1963年日本政府発表)と言われています。その凄惨さはそんな簡単に表現できません。司馬さんもこの時代のことを小説にしようとして、ついに果たせませんでした。私もこの戦争についてまだ総括できるレベルにありません。ただ、いつかはこのブログで書きたいと思っています。もちろん、関心はあるので、関連の本を読んだりはしてきました。

   さて、その太平洋戦争の関連で、一つ本を紹介します。太平洋戦争後半期の体験と捕虜としての生活体験、そしてそこでの観察を通して考察を加えた故「小松真一」氏の日記、『虜人日記』です。1944年、醸造発酵の技術者だった小松真一氏がガソリンの代替燃料ブタノール生産のため、軍属としてフィリピンに派遣されます。フィリピンでの2年の戦争経験、そして日本敗戦後捕虜となり、捕虜として約1年の体験をすることになります。その期間の日記ですが、主に捕虜生活中の体験とその体験を通しての日米(日米兵士を通して)比較などの考察が加えられています。本人が1973年逝去後の1974年、残された家族によって私家版『虜人日記』(筑摩書房)が出版されました。この本(日記)は、その当時本人が生きて直接経験したこと、見聞きしたことを、日記という記録に残したもので、後世の人が手を加えていない歴史資料として1次資料とされる貴重な資料でもあります。

f:id:takeo1954:20170403110842j:image【⬆︎『虜人日記』原本と小松真一氏の日記が、戦地フィリピンの捕虜収容所で記されたことを証明する文書(虜人日記 博物館所蔵)】

   そして、この『虜人日記』の中に〝日本の敗因(21箇条)〟という気になる項目があります。その項目を全て原文から紹介します。

 

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ちくま学芸文庫『虜人日記』  P.334、335より)

 

■日本の敗因

   日本の敗因、それは初めから無理な戦いをしたからだといえばそれにつきるが、それでもその内に含まれる諸要素を分析してみようと思う。

(1)精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければでなない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。

(2)物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった。

3)日本の不合理性、米国の合理性。

(4)将兵の素質低下(精兵は満州支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)。

(5)精神的に弱かった(1枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)。

(6)日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する。

(7)基礎科学の研究をしなかった事

8)電波兵器の劣等(物理学貧弱)。

(9)克己心の欠如。

(10)反省力なき事。 

(11)個人としての修養をしていない事。

(12)陸海軍の不協力。

(13)一人よがりで同情心が無い事。

(14)兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事。

(15)バアーシー海峡の損害と、戦意喪失。

(16)思想的に徹底したものがなかった事。

(17)国民が戦いに厭きていた。

(18)日本文化の確立なき為。

(19)日本は人命を粗末にし、米国は大切にした。

(20)日本文化に普遍性なき為。

(21)指導者に生物学的常識がなかった事。

    順不同で重複している点もあるが、日本人には大東亜を治める力も文化もなかった事に結論する。 

 

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    以上です。特に最後の結論「日本人には大東亜(東南アジアから中国、フィリピン、台湾、南北朝鮮、日本を含む大東アジア)を治める力も文化もなかった」と言っています。では、果たして今なら治める力はあるのでしょうか。他国に伝えることのできる日本文化が 確立され、普遍性を持つているのでしょか。いずれも〝否〟でしょう。(10)の「反省力なき事」、(16)「思想的に徹底したものがなかった事」は、全く今も変わらないことは直ぐ想像できます。しかし、この21ヶ条の中に、私には意外と思う項目があります。それは、(13)の「一人よがりで同情心が無い事」です。日本人には、思いやる心、気配りする心、おもてなしの心があると思っていたので、単純に「えっ?」と驚きました。しかし、(16)の日本人に「思想的に徹底したものがなかった事」からすると、〝思いやりの心〟というのも思想的なものはなく、「人様から笑われないようにしよう」「人様から馬鹿にされないようにしよう」という〝恥の文化〟からきたものなのでしょう。日本人は、本当の意味で大人として自立していない、アドラーがいうところの〝承認欲求〟(人から認められることが常に思考の最重点にある)に他の民族以上にとらわれた民族なのかもしれません。

   (5)の「精神的に弱かった」に関連する内容で、〝なるほど〟と思わせる小松氏の文章があります。

   「独(ドイツ)系の米兵がいうのに、米国は徹底した個人主義なので、米国が戦争に負けたら個人の生活は不幸になるという一点において、全米人は鉄の如き団結を持っていた。日本は皇室中心主義ではあったが、個人の生活に対する信念がないので、案外思想的に弱いところがあったのだという」。

 

    それから日本人と米国人を比較した小松氏のコメントも大変参考になります。

    「永いストッケード生活を通じ、日本人の欠点ばかり目に付きだした。総力戦で負けても米人より何か優れている点はないかと考えてみた。面、体格、皆だめだ。ただ、計算能力、暗算能力、手先の器用さは優れていて彼等の遠く及ばないところだ。他には勘が良いこともあるが、これだけで戦争に勝つのは無理だろう。日本の技術が優れていると言われていたが、これを検討してみると、製品の歩留まりを上げるとか、物を精製する技術に優れたものもあったようだが、米国では資源が豊富なので製品の歩留まりなど悪くても大勢に影響なく、為に米国技術者はその面に精力を使わず、新しい研究に力を入れていた。ただ技術の一断面をみると日本が優れていると思う事があるが、総体的にみれば彼等の方が優れている。日本人は、ただ一部分の優秀に酔って日本の技術は世界一だと思い上がっていただけなのだ。小利口者は大局を見誤るの例そのままだ。」と書いています。

 

   こうして小松真一氏の『虜人日記』を読んでいくと、司馬さんの小説で日本人について、また日本の歴史に対して持った〝誇り〟 はぐらついでしまいます。支那事変から太平洋戦争までの時代の日本人だけが特別だったのでしょうか?そんなことは理屈に合いません。物事の結果には必ず原因があります。当時の社会情勢が日本国民として、やむにやまれぬ決断をせざるを得なかった点はあるでしょう。しかし、すべてをそれだけに求めたならば、それこそ小松氏の指摘した日本人の「反省力なき事」は、全く変わっていないということになってしまいます。また、その当時のことを「こんな酷いことがあって可愛いそう」で終わったのでは子供のレベルです。「当時の戦争のことはとても恐くて直視出来ません(原爆投下による当時の被曝者の写真を直視できない人は多い)」で終わってしまったら思考停止状態で、人として進歩がありません。確かに当時のことを事実として掴むことは困難です。終戦と同時に軍は主要な書類をすべて焼却してしまっています。司馬さんは、ノモンハン事件(日ソ国境紛争  1939年5月〜9月)を時代背景にした小説を書こうとして、ついに果たせませんでした。しかし、直接事件に関わった軍関係者に、戦後直接取材しています。が、「メモとして残すに値する内容は、1行もなかった」と司馬さんは言っています。結局人は、自分に都合の悪いことは一言も話さない。自分に都合よく捏造して話す。そういう人がほとんどです。そんな中では、支那事変から太平洋戦争をしっかり総括し、反省し、今後に生かしていくための最初の事実の把握が極めて難しいという問題はありますが、避けてはいけない日本人の課題だと思っています。

 

    もう一つ、日本を、日本人を知るためには世界を知ることが必要です。私自身は日本への、日本の歴史への誇り、そして関心から世界史にも関心を持つようになりました。日本の何が優れているのか、あるいは課題なのか、世界の今と歴史から相対的に見る必要があると思うからです。私が『137億年の物語』という本を手に取ったのもそんな関心からでした。今までも世界史に関連する本をいくつか読んできましたが、その中で最も印象に残った世界史がイギリス史でした。その印象に残った内容は、冒頭で紹介した通りです。前置きが長くなってしまいましたが、これでやっと本題に到達です。

 

 f:id:takeo1954:20170408045931j:image

   今回は、このテーマでイギリスを紹介したいと思います。と言っても、イギリス史などを深く勉強した訳ではありません。ほんのかじった程度で恐縮です。ご了解下さい。ここではこのテーマにしようと思ったいくつかを紹介します。

 

1】スペイン無敵艦隊を迎え撃つ時(1580年代)のイギリスの政治

    20年近く前、中西輝政氏(現 京都大学名誉教授)の書いた『大英帝国衰亡史』を読んで、特に驚いた内容があります。それは、イギリスがスペイン無敵艦隊との戦いが避けられない情勢になりつつあった時代のイギリス(正確にはイングランド王国スコットランド王国と合同して国家となるのは1707年でここから「グレート・ブリテン王国」の国名になる)の政治です。そしてこのときのイングランド国王は初代エリザベス女王(この時代の日本は、本能寺の変織田信長が倒されて以降、天下統一を果たした豊臣秀吉が国を治めていた時代)です。このころのイングランドには、既に議会があり(1215年、諸侯が国王に諸侯の要求事項であるマグナ・カルタを認めさせ、1225年に諸侯大会議を開く。これが議会の原型となる)、初期議会は、主に三つの勢力で構成されていました。一つが国王自身の側近たち。二つ目が聖職諸侯(大司教・司教・大小修道院長)と世俗諸侯(貴族)、三つ目が各州からの騎士(ナイト)、各都市からの市民・下層聖職者で、50〜80人が議会に出席していました。

   それでは、エリザベス一世の時代のスペイン「無敵艦隊」を迎え撃つ前のイングランドの政治を知るために、中西輝政氏の『大英帝国衰亡史』の文章の一節をそのまま紹介します。

 

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 ◾️「無敵艦隊」を撃滅したもの

    (『大英帝国衰亡史』第ニ章  エリザベスと「無敵艦隊」p.64 〜67より抜粋)

 

(注1)国名をイギリス表記にしていますが、原文そのままです。
(注2)文中にある「低地」はオランダ。当時スペインが支配。

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    外交における情報の重視こそ、勢力均衡政策、そして後のパクス・ブリタニカの「外交による平和」を支える大きな(ときには最大の)柱の一つであった。そしてこの点でもエリザベス朝は「近代イギリスの始まり」として、その後のイギリス外交史に顕著な役割を果たしている。

   さまざまなエリザベスの機会主義的な手立てにも関わらず、オランダ人反徒へのスペインの鎮圧が成功しそうな形勢となった1584年7月、女王の臨席を仰いで開かれたイギリス閣議(枢密院)では、次のような審議項目について逐一徹底した議論がなされた。

   ①追いつめられたオランダ人の抵抗は、はたしてもつだろうか。  ②もしスペインが「低地」を完全支配したら、イギリスへの攻撃に出るか。  ③イギリス人の中のカソリック分子の、スペインへの協力の可能性はどうか。 ④具体的にスペインの対英攻撃の手段は何か。  ⑤「低地」の陥落をイギリスが阻止したら、スペインの対英攻撃は回避できるか。  ⑥もしできるとしたら、その阻止のための具体的手段はあるか。  ⑦オランダ人救援のための、フランスとの協力の是非と可能性はどうか。  ⑧イギリス単独でも介入に踏み切るべきか。  ⑨その場合、対スペイン戦争を惹起することになりはしないか。  ⑩もしそうなら、イギリスにとって対スペイン戦争を戦い抜く手段と資源は何か。  ⑪その場合の支出額見積りはどれくらいか。  ⑫戦争の際、スペインのとる戦略は如何。  ⑬その場合、戦争がイギリスの貿易に与える影響は……等々。

   延々23項目にわたる綿密をきわめた情勢判断のためのこの閣議文書は、エリザベスの逐一の指示に基づき、セシルのあとを継いで宰相となったフランシス・ウォルシンガムの作成したものであった。ここには状況の詳細な観察と、事実に基づく判断に徹しようとする、執拗なまでに冷静な分析の姿勢があり、一種の迫力さえ感じさせられる。

   実際、三百数十年後の1950年代にイギリスの外交次官を務めたストラング卿は、この文書をとり上げ、「1956年のスエズ出兵計画も、これほど綿密な情勢分析を行っておれば、あんなに惨めな結果にはなっていなかったろう」と述懐している(Lord, Strang, Briain  in  World  Affairs, London, 1961, p.36)。「真珠湾」を持ち出すまでもなく、20世紀よりも16世紀のほうが、この点での知恵と合理主義において、はるかに優れていたことを示すものであろう。

   当然こうした的確な情勢分析の前提として、第一級の情報の収集と評価が必要となる。そしてこの時期、ウォルシンガムの下に築かれたイギリス外交の生命線をなした情報活動こそ、のちの〝007〟ないしMI 6の伝説にまでつながる「イギリス情報部」の伝統の始まりともなった。

   その伝統の最大のポイントの一つは、必ず外交官組織とは別系統の情報組織をつくり、外交情報をダブル、トリプル・チェックできる体制をつねに確保しておくというものであった。それは現実に外交政策を立案すべき立場にあるパワー・エリートは自己の政策的立場に有利なように情報をねじ曲げる傾向がある、ということの重大さをよく知る知恵に発している。

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   1587年、いよいよ「無敵艦隊」のイギリス来襲が間近になりつつあったとき、ウォルシンガムが作成した『スペインからの情報収集の方策』と題された秘密文書は、全ヨーロッパ中に張りめぐらされ、各国の外交中枢に入り込んだイギリス情報網の「すごさ」を、あからさまに示している。スペイン国内や低地、フランスはいうに及ばず、北欧デンマーク一帯、さらにポーランドのクラコフ、バチカンからベニスへ、主要な国で網羅していない国はないほどであり、駐在国の権力機構においてしばしば信じられないほど高いレベルでの浸透を果し、無敵艦隊の動静をさぐる要所に通じていた。実際この文書を読めば、1年前のこの時点で「無敵艦隊」来襲の結果は、もはや明らかであった。

 

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   どうでしょうか。私はこの一節でイギリスの恐ろしさを改めて知る思いがしました。この中西氏の解説が、後の大英帝国パクス・ブリタニカの登場が、必然のように思えてしまいます。この1点だけでも日本はイギリスから学ぶ必要があります。ただ今の日本の国民が、あるいは政治家が、このイギリスの歴史を学んでも、実際に今の日本の政治の世界で実践することは難しいとは思います。それは情緒的に先に結論ありきで、物事を論理的に組み立てて戦略にすることが未だに不得手な国民性である気がするためです。

 

 

【2】マグナ・カルタ(大憲章)から700年以上続くイギリス議会の歴史

    【1】では、 イギリス人の論理的思考に基づく戦略作りの実例を見ました。それではイギリス人の論理的思考の習性はいつから、どうやって身についたのでしょうか。それはイギリスの長い議会政治の歴史の中にあると思います。イギリス議会の歴史は、1215年のマグナ・カルタ(大憲章)から始まると言っていいでしょう。その時代、時代の置かれたイギリス国内外の情勢の中で、イギリス議会〔諸侯(貴族)大会議から始まる〕議員は、国の政策、制度を議論し、決めていきます。論理的思考も戦略的思考も、長い議会の歴史のその積み重ねの上にあると思います。

   それでは、1215年のマグナ・カルタ以降のイギリスの主要な歴史を簡単に検証してみましょう。

f:id:takeo1954:20170411180349j:image【↑出典  ウィキペディア  フリー百科事典  「マグナ・カルタ」】

 

   1215年、イングランド王国のジョン国王によって制定されたマグナ・カルタ(大憲章)は、必ず世界史に登場するので、内容はともかくその言葉はだれもが知っていると思います。しかしそのマグナ・カルタが、今も現行法として残っていることをご存知でしょうか。 本当に驚きますが、現在もイギリスの憲法を構成する法典の一つとなっています。今からほぼ800年前に制定されたものが今も現行法としてあるです。正確にはジョン国王のマグナ・カルタは、教皇インノケンティウス3世の勅命により無効とされましたが、その後何度か改定され、1225年に作られたヘンリー3世のマグナ・カルタの一部が現行法として残っています。

    マグナ・カルタが制定された経過を簡単に説明しましょう。当時のイングランドのジョン国王は、フランス国王フィリップ2世との2度にわたる戦いで、どちらも敗れてフランス内にあった領地を全て失います。その領地を取り戻そうとさまざまな徴税を課して、再びフランス領地奪回のために戦おうとしますが、諸侯(貴族)と国民のの怒りが爆発し、国王の信用は失墜します。国王は退位するか処刑されるしかない状態に追い込まれます。そこでジョン国王は、王の権限を制限する文書に国王が承諾を与えることで事態の収拾を図ったことで制定された憲章です。

   そのマグナ・カルタの内容です。前文と、63ヶ条から構成されています。

   特に重要な項目は、

⚫︎教会は国王から自由であると述べた第1条
⚫︎王の決定だけでは戦争協力金などの名目で税金を集めることができないと定めた第12条
⚫︎ロンドンほかの自由市は交易の自由を持ち、関税を自ら決められるとした第13条
⚫︎国王が議会を召集しなければならない場合を定めた第14条
⚫︎自由なイングランドの民は国法か裁判によらなければ自由や生命、財産をおかされないとした第38条

などです。

   また、イギリスの現行法令集w:Halsbury's Statutesに載っている条文は、1225年のヘンリー3世の時代に作られた新しいマグナ・カルタを、1297年にエドワード1世が確認したもので、前文と4か条が廃止されずに残っています。

⚫︎前文 国王エドワードによるマグナ・カルタの確認
⚫︎第1条 教会の自由
⚫︎第9条(1215年の原マグナ・カルタの13条に相当) ロンドン市等の都市・港の自由
⚫︎第29条(原39条および40条) 国法によらなければ逮捕・拘禁されたり、財産を奪われない(デュー・プロセス、適正手続)
⚫︎第37条(1225年のマグナ・カルタの37条および38条に相当) 盾金、自由と慣習の確認、聖職者および貴族の署名

マグナ・カルタの説明=ウィキペディア参照

 

   それから今日まで、国王によって議会が招集されなかったり、逆に国王(チャールズ1世)を処刑(清教徒革命=ピューリタン革命時に)して共和制に移行した時期があり、1649年から約10年ほど国王不在の期間がありましたが、王政復古で直ぐに王政は復活(1660年)します。イギリスは、ヨーロッパ大陸の多くの国が18世紀までそうだったような絶対君主制の国ではありませんでした。清教徒革命が起きたころのイギリスは、中央・地方ともに無給の地主貴族階級によって司法・立法・行政が担われていました。国王・貴族院庶民院による三位一体の国政運営が伝統にあった国です。清教徒革命を指導し、国を共和制に変えたクロムウェルの強権的な政治への反動もあって、クロムウェルの死後は議員たちの多くが王政の復活を望むようになっていて、自然に王政復古へすすみます。

   王政復古後の1685年、ジェームズ2世が国王に即位しますが、直ぐに強権的な政治を行います。すると議会も密かに動き、国王の長女メアリの夫(オランダ総督ウォレム 後のウィリアム3世)と結託し、国王を追放ます(名誉革命)。その後は、長女がメアリ2世、夫ウォレムがウィリアム3世を名乗って、2人の君主が共同統治します。

   このように、この時代には国王といえども、これまでに制定された法典などを無視して政治を行うことは出来なくなっていました。この名誉革命の時に制定された「権力章典」では、議会の許可なく国王が徴税できなくなり、議会内の言論の自由も認められるようになりました。さらに、1698年からは、新たに「王室費」が議会の承認に基づく歳費として導入され、王室財政は完全に議会の監視下に置かれるようになります。また、時代が前後しますが、1630年頃からは、枢密院から切り離されて、「内閣評議会」が国王の諮問機関として定着していき、1680年頃には今日につながる2大政党制(と言っても当初は独立派と呼ばれるどちらにも属さない議員が約半数を占めていた)が始まっています。

   1760年代から世界に先駆け、イギリス中北部のマンチェスターバーミンガム、リーズなどの都市を中心に「産業革命」が始まります。そして、18世紀(1700年代)の終わりには、製造業と海運業だけで国民所得の約半分(48%)を占めるようになります。当然人口がそうした都市に集中するようになり、議会議員と選挙区の人口のアンバランスが生じてきます。そんな中で、後の「チャーティスト」につながる議会改革の運動が起きます。また、新興の巨大都市では、商工会議所や通商委員会などが立ち上げられ、それは全英商工会議所の設立(1785年)にまでつながり、「圧力団体」として成長していきます。同時期、国外ではフランス革命(1789年〜)と1799年ナポレオンの登場、19世紀初頭の全ヨーロッパを巻き込んだ対仏戦争へとすすみます。そして、1815年、イギリス陸軍のウェリントン将軍を司令官とする連合軍によりワーテルローの戦いでナポレオンのフランス軍を破り、勝利します。

 

   ここで、イギリスとフランスを比べると〝ある違い〟が明らかになってきます。歴史家のジョン・ブリュア(イギリス歴史学者、現在シカゴ大学教授)によれば、「イギリスの勝因はヒト(兵力)・モノ(武器弾薬・軍需物資)・カネ(軍資金)のうち、特にカネを大量に素早く集めることに成功した点にあった。とりわけ大切だったのが議会の存在であろう。議会の大半を構成する地主貴族階級こそがいざというときに戦費を土地税のかたちで調達し、長期国債の発行を裏付け、中央銀行たるイングランド銀行(1694年創設)と協力して国債を請け負ったからだ。おかげでイギリスは最後のフランスとの戦争(1793年〜1815年)に16億5790万ポンドもの巨額の資金を投入することが可能となったのである。

   対するフランスでは、身分制議会(全国三部会)はこの時期の大半開かれることもなく(絶対君主制が確立した後、1614から開かれていない)、国税を担ったのは富裕階級(教会や貴族)ではなく、政治に声の届かない平民たちだった。これでは革命が起きても仕方なかった。さらに中央銀行ができたのは1800年のことで、国債もあてにはならなかった」。

 

   ここに、フランス貴族とイギリス貴族の覚悟の違いが見て取れます。イギリス貴族の場合、自分や一族の保身だけでない、イギリス国家への献身の精神があります。これは、貴族がイギリス議会において、国政を議論し、議決するというプロセスに長く関わってきた歴史がそうさせたものと思います。時代が変わりますが、1914年からヨーロッパを主戦場として4年にわたり死闘を繰り広げた第一次世界大戦は、イギリスも初めて経験する総力戦で、社会構造をも大きく変えるものでした。これまでのイギリスの政治・経済・社会・文化を主導してきた地主貴族階級(ジェントルマン)は、この戦争で影響力を大きく減退させます。彼らは中世以来の騎士道精神に基づいた〝ノブレス・オブリージュ〟(高貴なる者の責務)に則り、戦争勃発とともにいち早く戦場に駆けつけます。そして、大半が機関銃の餌食になってしまいます。1914年だけで貴族とその子弟(50歳以下の男子)の19%近くが戦死したという記録が残っているのです。このようにイギリスの貴族とは、単に資産家で、優雅で、気取った人というイメージだけでないことが分かります。それは、〝祖国イギリスを守る〟という崇高なスピリットを持った人たちだったのてす。

マグナ・カルタ以降のイギリスの歴史は『物語  イギリスの歴史 上・下』(君塚直隆 著)を参照する。

   イギリス貴族の崇高なスピリットに関連した内容になりますが、会田雄次(1916〜1997年元京都大学名誉教授)著の『アーロン収容所』(中公新書)という本の内容です。この本は著者自身が終戦直後から1947年5月まで、ビルマでの英軍捕虜として経験したこと、そして自身が感じ、考えたことの記録です。その中にこんな一節がありました。

 

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中公新書『アーロン収容所』P.68、69より抜粋)

 

   私たちが英軍とは士官はもちろん、兵隊とも一般的な話をすることはめったにない。会話が苦手のためこちらが話しかけないという事情によるかもしれない。しかし根本的には何度もふれたように、イギリス人自体が、日本人と話し合う、しかも兵卒と話をするというようなはしたない態度はとろうとしなかったからである。

   だが例外もある。なにかの機会に「日本人はこの敗戦をどう考えているか」とか「復讐をしないのか」(かれらはカタキウチという日本語を知っていて、かならずそれを使った)とか、「なぜ簡単に武装解除に応じたか」などと問いかけられることもあった。

   あるとき、私たちの作業指揮官の将校と英軍中尉と話がはじまった。この中尉はアメリカで働いていてハーバードを出たとかいう非常に人なつっこく感じのよい青年であった。かれは、ときおり私たちに何かと話しかけようとした稀なイギリス人の一人であった。それはアメリカにいたという経歴の生んだ気さくさだったかもしれない。私たちの将校は、

「日本が戦争をおこしたのは申しわけないことであった。これからは仲よくしたい」

という意味のことを言った。どのように通じたのだろうか。英軍中尉は非常にきっとした態度をとって答えた。

「君は奴隷(スレイブ)か。奴隷だったのか」

   楽天家らしいかれが、急にいずまいを正すような形をとったので、私はハッとした。この言葉はいまでもよく覚えている。もっともスレイブというのはそのときすぐには聞きわけにくかった。奴隷という言葉がわかったときも、「貴様らは奴隷だから人並に謝ったりするな」ということでおこったと思ったのだから、私の聞きとり能力も心細い話だ。しかし、つぎのような説明を聞いてやっと意味がわかった。

「われわれはわれわれの祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私はかれらが奴隷と戦って死んだとは思いたくない。私たちは日本のサムライたちと戦って勝ったことを誇りとしているのだ。そういう情けないことは言ってくれるな」

🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹

 

   以上、原文のままです。ここでこの中に出てくる中尉がイギリス貴族かどうかはわかりません。ただイギリスから離れたハーバード大学を出ているこというので、多分相当な資産家で貴族だろうと推測されます。なぜそう推測するかといえば、その高い授業料です。現在の大学の授業料比較になってしまいますが、2012年のカレッジボードの調査によれば、まずアメリカの大学の平均年間授業料が270万と日本に比べ倍以上高くなっています。さらにハーバード大学スタンフォード、MITなどの名門大学は大体430万円程度と日本の大学の5倍から8倍(日本の国立で53万、私立で85万が平均)の高さです。これに生活費がプラスされます。常識的に考えてハーバードは、普通の中流家庭から入学させるのは経済的に極めて困難です。これは戦前も基本的に同じでしょう。次の余談のテーマになりますが、それはイギリスのケンブリッジ大学オックスフォード大学も同じです。さらにハーバード大学以上に入学条件が厳しくなるので、大学院ならともかく4年生の大学に日本から入るのはまず無理です。ではなぜそんな学費に差があるのかって?それは教育の質の違いでしょう。教員は学生7人に対して1人と多く、教員もノーベル賞受賞者が圧倒的に多く、研究環境も日本の大学とは比べようもない世界最先端レベルの高さを誇っています。〝戦前にそんな大学を卒業した〟という理由で多分〝貴族〟と推測したわけです。

   この会田氏の捕虜収容所での出来事も実に考えさせる内容を持っています。

 

   こうしたイギリス人の崇高なる精神というものや論理的思考の風土はどこから来ているのでしょうか。ここからは私の推測になりますが、それは欧米社会に共通する点としてギリシャ哲学の伝統と宗教=キリスト教があると思います。ギリシャ哲学にはアリストテレスのような論理的な思考法(三段論法)が当然含まれます。こうしたギリシャ哲学は、必ず聖職者になる人は神学校で学びます。事実16世紀に日本に来た宣教師たちの記録に、日本でのキリスト教の普及活動で、日本人からの質問に答えるのにギリシャ哲学の勉強が役立ったとあります。このように聖職者や中世の時代からあったオックスフォード大学ケンブリッジ大学を出た貴族たちは、ギリシャ哲学、論理的思考の素養を当然身につけていたはずです。それからキリスト教です。当然キリスト教はその聖書(新約聖書)によって普及をしています。聖書はさまざまな使徒による書簡で構成されていますが、パウロが中心的な存在です。パウロはキリストを直接知らないキリストの死後信者となった人ですが、自身の思想を書簡という形で残し、聖書の作成に大きな役割を果たします。キリスト教の聖書は言ってみれば、パウロの思想をベースにした哲学の書といっていいでしょう。その思想のベースには〝愛〟があります。パウロの書簡『ローマ人への手紙』にこんな一節があります。

 

    愛には偽りがあってはなりません。悪を忌みきらい、善から離れてはなりません。互いに兄弟愛をもって心から愛し、競って尊敬し合いなさい。熱心でたゆまず、心を燃やし、主に仕え、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りに励みなさい。聖なる人々の貧しさを自分のものと考えて力を貸し、手厚くをもてなしなさい。あなたがたを迫害する者の上に祝福を願いなさい。祝福を願うのであって、のろいを求めてはなりません。喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々の仲間となりなさい。自分は賢い者だとうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべて人の前でよいことを行なうよう心がけなさい。できることなら、あなたがたの力の及ぶ限り、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する皆さん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は言われる。『復讐はわたしのすること、わたしが仕返しをする』」と書かれているからです。しかし、次のようにも書かれています。「敵が飢えているなら食べさせよ、渇いているなら飲ませよ。そのようにすることで、あなたは敵の頭に燃える炭火を積むからである」。悪に負けてはいけません。むしろ善をもって悪に勝ちなさい。

新約聖書フランシスコ会聖書研究所訳)サンパウロ発行  改定16刷  P.562、563】

 

   こうした愛をベースとした哲学の書である聖書の一節を、牧師(カトリックの場合は神父)が毎週日曜日に教会に集まった信者に対して切々と話し、終わりに賛美歌を歌う習慣が中世の時代から今日まで続いてきました。週1回教会で話を聞くことは、少なくとも週1回〝今の自分を見つめ直し〟あるいは〝兄弟愛からの他の人々への貢献〟など、気持ちを崇高なものにさせたでしょう。それを幼い頃から年老いて死ぬまで続けるのです。そのことが人格形成に影響を与えないはずはありません。そういう風土がヨーロッパには共通してあったということです。そしてイギリスは議会が他の国よりしっかりと着実に根づいていったこと。そのこがイギリス人の論理的思考能力を高め、〝イギリスの国をどうするか〟という政治の世界に身をおくことで、祖国を愛する気持ちにもつながり、崇高なる精神をも高めていったのてはと思っています。

   それから、イギリスのジェントルマン・シップ、騎士道精神には、日本の武士道精神に共通する〝名誉を重んじる〟という点がもともとありました。イギリスで貴族になろうとしてなれなかった人物を主人公にした『バリー・リンドン』というスタンリー・キューブリックの映画の中に〝決闘〟のシーンが出てきますが、貴族と言えども名誉を傷つけられたら第三者を立ち会わせての決闘ということも時にあったのです。決闘は受けたら〝逃げられない〟という点で傭兵中心の戦争より遥かに恐怖です。日本の場合も関ヶ原の戦いで西軍、東軍それぞれ7、8万の軍勢がいても実際戦ったのは全体の半数以下です。大半は様子見で、形成不利となったらほとんど逃げています。そう、戦争、合戦は〝逃げる〟という手段があります。しかし決闘にそれはありません。決闘の結果は、(勝って)生きるか、死ぬか、カタワになるかの3つしかないのです。そうした決闘という形での貴族同士の戦いも、イギリスの歴史の中にはあったのです。

 

   今回のテーマは以上になります。今回の内容はどちらかといえばイギリスの〝光〟の部分になります。イギリスにも当然〝陰〟の部分もあります。それは〝略奪国家〟としての歴史です。それについては改めて別の場で触れたいと思います。

                                                                                 

 

   「余談」ということで書き始めましたが、1万5000字を超えてしまいました。自分でも分かっていながら、ついつい凝ってしまって長くなってしまいます。どうもこのパターンは簡単に変えられそうにないですね。

   さて、現在私のブログは二つのシリーズがあります。「♨️黒川温泉に学ぼう」と「私の『137億年の物語』」です。平行して投稿していくつもりでしたが、やっぱり私はそんな器用な人間ではありません。どっちかに絞って終わらせてからでないとダメですね。そんな訳で、「私の『137億年の物語』」はしばらくお休みして、今度はシリーズの最終回になっている「♨️黒川温泉に学ぼう」に着手します。こっちも話がどんどん広がってしまって「日本の観光業をどうするか」といったような内容にまで至って、話をまとめるのに手こずっています。こちらもまとめるのに1ヶ月位かかりそうですが頑張ります。

 

 

 

🔶《第10回》私の『137億年の物語』

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    いよいよこの章が第1部「母なる自然」の最終章になります。第2部「ホモ・サピエンス」が、先史でおよそ700万年前から紀元前5000千年前までの時代を扱っているので、この章はそれまでの霊長類を含む哺乳類の繁栄を紹介しています。今分かっている最古の哺乳類といわれるものが、「アデロバシレウス」で、今から2億2500万年前に登場します。下にあるのがその想像図です。ほとんど今のネズミです。この動物の登場した時代は、恐竜が全盛に向かう時代になります。その時代から6550万年前の恐竜絶滅まで、アデロバシレウス以降の哺乳類は、1億5000万年以上の長い間、恐竜から隠れるようにして生き延びてきました。例えば恐竜の活動しない夜に餌を求めて活動したり、木の上の活動を基本にする、などです。f:id:takeo1954:20170313070655j:image【⬆︎アデロバシレウス想像図】〈出典〉ウィキペディア フリー百科事典「アデロバシレウス」 更新日時  2016.12.18

 https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Adelobasileus_cromptoni.jpg#mw-jump-to-license

   そうした長い哺乳類の生きてきた時代がありますが、やはり哺乳類が本格的に繁栄していくのは、恐竜が絶滅した6550万年前以降になります。そこから進化によってさまざまな種の哺乳類が生まれ、今日に至っています。ここではそのひとつ、人を含む霊長類の進化の歩みについて紹介していきたいと思います。

    以前、このシリーズの第7回目の中で、NHKスペシャル「地球大進化」(2004年放送)第1回『生命の星』での巨大隕石の衝突のことを紹介しました。今回もこの章の解説を書くにあたって、同じNHKスペシャル「地球大進化」の第5回『大陸大分裂』の中で、詳しく霊長類の進化について紹介した内容が分かりやすく参考になったので、この章の解説もその多くをその内容から引用しています。

 

f:id:takeo1954:20170317212844j:image人は霊長類(霊長目またはサル目ともいう)に属します。そして、今から1億年〜7000万年前に、最初の霊長類が登場します。といっても、まだ霊長目(サル目)に属する最初の種とはいえ、今日知っているさまざまなサルとは印象がかなり異なります。 例えば下の写真です。これは、霊長類の先祖〝カルポレステス〟の想像図です。 f:id:takeo1954:20170314092512j:image【⬆︎カルポレステス(NHKスペシャル「地球大進化」No.5『大陸大分裂』より)】

    カルポレステスは、霊長類の親戚または祖先とされるプレシアダビス目(絶滅した哺乳類)に属する動物ですが、今分かっている中で初めて物をつかむことのできる手(前足)の構造を持った哺乳類でした。このカルポレステスの化石はアメリカで発見されています。その地層から5600万年ほど前に生息していた霊長類ということが分かっています。そのころすでに恐竜は絶滅していなかったのですが、アメリカやヨーロッパでは、巨鳥「ディアトリマ」が、生態系の頂点に君臨して餌として哺乳類を常に狙っていたので、引き続き夜間活動していました。 f:id:takeo1954:20170314104406p:image

【⬆︎馬の祖先ヒラコテリウムを襲うディアトリマ(同NHKスペシャルより)】

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こうした初期霊長類が、長く樹上生活を続けていく中で、さまざまに進化していきます。引き続きNHKスペシャル「地球大進化」の第5回の内容から進化の過程を見てみましょう。このNHKスペシャル全体を通して〝荒ぶる父  地球〟という言葉が使われています。そうです。地球が誕生してから46億年、この時間軸で見れば、地球は荒れ狂う星なのです。決して生命大量絶滅のビッグファイブだけが荒れ狂った訳ではありません。この霊長類の祖先カルポレステスが登場して間もない5500万年前、地球に大変動が起こります。その要因は、マントルの移動に伴うマントルの上向きの力、スーパーホットプルームです。このマントルの移動で、陸続きだった北米大陸ヨーロッパ大陸が切り離されます。切り離された場所になる今のグリーンランド東部の海底で異変が起きます。スーパーホットプルームによるマグマの上昇が、海底の下にあったメタンハイドレートの大きな塊に当たり、メタンハイドレートは大爆発します。その爆発で海底下の地層を突き破り、さらに海上で自然発火して、高さ数Kmになる火柱を大量に発生させます。2003年の調査で、グリーンランド東部沖の海底には、深さ約3000mの巨大な穴がおよそ800個もあり、5500万年前に出来たことが分かっています。

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f:id:takeo1954:20170316050832p:image【⬆︎5500万年前グリーンランド東部で起こったメタンハイドレートの爆発  (同NHKスペシャルより)】

そしてこのメタンハイドレートの炎上によって、地球上の気温は10〜20℃も上昇し、上昇した気温は500万年以上続きます。この気温上昇によって、地球環境も激変します。ユーラシア大陸北アメリカ大陸は酷寒の氷河でつながっていましたが、この気温上昇によって氷河は溶け、緑でおおわれるようになります。その結果、ユーラシア大陸から北米大陸へ多くの哺乳類が移動します。また、樹木も広葉樹が大繁殖します。ご存知のように、広葉樹の多くは、木の実、果実をつけます。木の実を餌とする霊長類にとって最良の環境が現れ、さらに繁栄し、多くの霊長類の種が誕生するようになります。地球上の大陸のいたるとこで現在のアフリカの東にあるマダガスカル島のように、広葉樹と広葉樹が重なり合う〝樹冠〟といわれる森が出現します。地球で初めて起こった現象です。f:id:takeo1954:20170316052527p:imagef:id:takeo1954:20170316052550p:image【⬆︎写真2枚 現在のマダガスカル島の広葉樹の森  (同NHKスペシャルより)】

正に霊長類にとって楽園の時代が始まるのです。そんな樹冠と呼ばれる広葉樹の森が現われてから500万年後、霊長類は顔の形を変えた新たな種が登場します。ショショニアスです。目の位置が顔に並んであります。f:id:takeo1954:20170316053914p:image【⬆︎同NHKスペシャルより】

 このことによって視界は狭くなるものの、目に入るものを立体視することが可能となり、より正確な距離感をつかめるようになります。こうして霊長類の進化も進んでいきます。

 

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今から5500万年前、南極大陸は今の南アメリカ大陸、オーストラリア大陸とつながっていました(このころには、すでにインド亜大陸は、南極らか離れ北上し、ユーラシア大陸にぶつかろうとしていた)。そのため赤道で暖められた海流(暖流)は、大陸沿いに南極まで到達していました。このことで、当時の南極は、緑に覆われた温暖なところでした。その後南アメリカ大陸とオーストラリア大陸は、プレートの動きで北上をはじめ、3300万年前には完全に切り離されます。そのため暖流は南極まで到達しなくなり、南極大陸は数千mの氷河と周りを厚い氷で囲まれるようになります。このプレートの動きが地球の気候を激変させ、5500万年前と比べ平均気温で約30 ℃近く下がってしまいます。

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f:id:takeo1954:20170318051842p:image【⬆︎同NHKスペシャルより】

このことで5000万年前には地球全土に広がった広葉樹の森も激減して、赤道近辺の地域に限られるようになってしまいます。f:id:takeo1954:20170318052542p:image【⬆︎3000万年前の広葉樹の分布=緑の部分(同 NHKスペシャルより)】

霊長類にとって天国だった環境は一変し、北半球の大半で霊長類は存在しなくなります。北米大陸で、5500万年前の地層から初期の霊長類〝カルポレステス〟が発見されていることは、最初に紹介しました。しかし、北米大陸からは、広葉樹の森がなくなって以降、今日に至るまで霊長類(人は除く)は存在しなくなります(どういう訳か、南米大陸にも3000万年前の地層から霊長類の化石が発見されていないという)。霊長類はアフリカを中心に生き延び、進化していきます。1700万年前、アフリカ大陸とユーラシア大陸が陸続きになると、再び霊長類はアジアにも広がっていきます。

   更に、1000万年以降にアフリカ大陸を中心に、新たに気候変動が始まります。一つはヒマラヤ山脈の形成です。インド亜大陸ユーラシア大陸が陸続きになるのが約5000万年前。そして、ぶつかった境界線上で少しずつ隆起が始まり、今から700万年前には、5000m級の大山脈が形成されます。そのヒマラヤ山脈の影響で、アフリカ大陸に乾燥した風が流れるようになります。f:id:takeo1954:20170320105333p:image【⬆︎ヒマラヤ山脈の影響で乾燥した大気が流れこむ  (NHKスペシャル「地球大進化」No6『ヒト』より)】

   それから、もう一つはアフリカ大陸東部を走る〝大地溝帯〟です。大地溝帯はアフリカ大陸東部の真下にあるマントルの上昇の力、スーパープルームによって、1000万年前〜500万年前ころから隆起が始まり、幅35〜100Km、総延長7000Kmに及ぶ断層、2000m級の高地を形成します。このことによってインド洋からの湿った空気は、大陸の西側には乾燥した空気に変わるようになります。こうして広大なサハラ砂漠とサバンナ(草原地帯)が生まれます。f:id:takeo1954:20170320150607p:imagef:id:takeo1954:20170320150614p:image【⬆︎同「地球大進化」No6より】

 

   そうした大きな環境の変化の中で、絶滅した霊長類の種も多くあります。しかし、生き残った霊長類は、厳しい環境の中で進化を続け、猿人により近づいていきます。進化の特徴の大きな変化の一つが、〝眼〟です。今から3300万年ほど前、霊長類で最初の真猿類(人に近いサルらしいサル)カトピテクスが登場します。このカトピテクスは、霊長類ではじめて眼球を骨で包む〝眼窩後壁〟の頭蓋骨を持っていました。このことでカトピテクスの目は、前方の焦点が揺らぐことなくものを見ることができました。それともう一つフォベア(中心窩)です。フォベアは眼球奥に視細胞が集中してあり、前方の物体をきめ細かく見ることを可能にしました。 f:id:takeo1954:20170320113608p:imagef:id:takeo1954:20170320113714p:image【⬆︎カトピテクス   想像図  (NHKスペシャルNo5『大陸大分裂』より)】f:id:takeo1954:20170320083616j:imageこれと平行して真猿類は、表情筋を発達させていきます。f:id:takeo1954:20170320173541p:imagef:id:takeo1954:20170320173552p:image【⬆︎真猿類のさまざまな表情(NHKスペシャル「地球大進化」No6より)】

そして、真猿類は仲間のさまざまな表情を、優れた目で見て判断できるようになります。そうです。仲間の顔の表情を読み取って、仲間同士のコミュニケーションをとるようになります。それによって鳥などが群れて行動するのとは別次元のサル社会をつくります。例えば、子供を持つ母ザルが餌を探すために単独で活動する時、別の母ザルがその子供の面倒を見るなどです。

   こうした進化の先に、およそ700万年前の猿人の登場につながっていくのです。

 

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⚫︎6550万年前の巨大隕石の衝突する以前の地球では、哺乳類は恐竜が支配する世界で、細々と暮していた。ただ恐竜から身を守るためのさまざまな進化があった。子どもは胎内で十分育ててから産む。母乳を分泌し、巣穴から離れず子育てする。もともと温血だったが、体毛を増やして恐竜の出歩かない夜間にも狩りができた。そんな哺乳類の進化があった中で、巨大隕石の衝突があり、恐竜は絶滅した。その結果、哺乳類は草食性の小さなネズミのような動物から飛躍的に進化していく。


⚪️多様性の源
・小さなネズミほどの大きさの哺乳類は、300万年後にはイヌくらいの大きさになり、更に時間を下って、始新世( 5500万年前から3500万年前)と呼ばれる時代になると、驚くほど多様な哺乳類であふれるようになる。森には、シカ、イノシシ、クマ、パンダ、サル、そして類人猿が暮らし、草原では、ウマ、ウシ、バイソン、ヒツジ、ブタ、シマウマ、キリン、カンガルー、ロバが草を食み、地中では、ウサギ、アナグマ、ハリネズミ、ネズミ、キツネが穴を掘り、川や沼では、カバ、ゾウ、ビーバー、カワウソが水しぶきをあげる。また、砂漠ではラクダ、ラマが歩き、海をクジラ、イルカ、アザラシ、セイウチが泳ぎ、空をコウモリが飛びかった。
・多様な哺乳類の進化は、地球の地殻の移動と深い関係がある。このころ(始新世の時代)超大陸パンゲアは、二つの巨大大陸、ローラシア大陸ゴンドワナ大陸に分かれており、更に今日ある諸大陸へと分裂していった。大陸が離れていくにつれて、島が生まれ、その上にいた動物や植物は、新しい環境に適応していった。それらは世代を経るにしたがって、大陸ごと、島ごとに異なる種へと進化していった。
・哺乳類は大きく三つのグループに分かれた。単孔類、有袋類、有胎盤類だ。そのうち有胎盤類、有袋類が種としてはほとんどとなる。


⚪️単孔類
・カモノハシ科とハリモグラ科の二つのみ。哺乳類の中で唯一卵を産むグループ。また哺乳類で唯一電気センサーを備えていて、獲物が出す生体電流を感じることができる。


⚪️有袋類
・代表的な動物がカンガルーとコアラ。有袋類の子どもは、とても小さく生まれ、母親の腹をはい上がって袋に入り、その中で母乳を飲んで成長する。有袋類も多様に進化したが、4万年ほど前、人類がさまざまな動物を持ち込んでやってくると、その生態系はむしばまれていった。
・絶滅した有袋類の一つに、肉食性のタスマニア・タイガーがいた。最後の1頭が1937年にタスマニアホバート動物園で死んだ。


⚪️有胎盤

三つ目のグループは有胎盤類で、哺乳類最大のグループだ。人間もこの仲間で、子どもが十分に成長するまで体の中で育てる。胎児と母体は「胎盤」で結びついており、母親から胎児の血液へ栄養分が送られ、胎児から母親の血液へ老廃物が送られている。


⚪️霊長類
・哺乳類の一つでサル目ともいう。代表的なグループは、旧世界ザル(オナガザル科)、新世界ザル(広鼻猿)、類人猿。
・サルは、アフリカで進化する。そして2500万年ほど前、一つの集団が南米大陸に渡る(いかだのようなものに乗って偶然漂着したと思われる)。もう一つのグループは、陸伝いにインド、マレーシアなどアジアにたどり着く。
・アジアにたどり着いたサルは、オランウータンやテナガザルに進化する。そのどちらかが、またアフリカに戻る。そしてアフリカでゴルラ、チンパンジー、ボノボなどに進化する。
・人類とチンパンジーのDNAの配列は、96%以上が同じであることが分かっている。そのデータから、人類の系統はおよそ700万年前にある類人猿の系統から分岐したとされている。

 

   これでやっと第1部の終了です。次回は、本書のテーマから離れて、閑話休題(余談)として投稿したいと思います。外国の中で最も気になる国であり、また尊敬すべき国であり、かつ学ぶべき国である。そして、またこの本の原作者の生まれた国である英国。その英国のことについて少し紹介したいと思います。本書が4部作なので4回に分けての投稿を予定しています。

♨️黒川温泉に学ぼう!(第4回)


今回は「黒川温泉に学ぼう」の4回目になります。今回の投稿を最終回にするつもりでしたがやっぱり無理でした。最終回は次回持ち越しとなります。話がどんどん横道にそれてしまうのが私の欠点ですが、今回も同じでした。長すぎてつき合いきれないという人は多いと思っていますが、どうもやめられません。どうぞご容赦下さい。それでも読んでいただければ本当にうれしいです。それでは今回は以下の内容がテーマになります。日本への外国人旅行者が少ない要因になっている2番目の理由についてです。




標題に「…発想が貧困である」と極端な表現を使いましたが、これは日本と外国、取り分け欧米諸国との習慣、意識が大きく異なるがために生じている文化の違いであり、それを単純に「貧困である」とか「劣っている」というのは本来適切ではないことをお断りしておきます。その上で少しインパクトを狙った表現にしました。


もちろん日本には日本の文化、伝統に基づいた娯楽、楽しみがあります。例えば今も全国至るところにある〝祭〟です。それぞれに特徴があり、物語があり、悠久の歴史を持っています。昨年ユネスコ無形文化遺産に、「山・鉾・屋台」として18府県、33件の祭りが登録されました。その他にも青森の「ねぶた祭」や東京神田の「神田祭」、大阪岸和田の「だんじり祭」、徳島の「阿波踊り」、それから長野県諏訪の「御柱祭」など、日本人だけでなく外国の方にも是非紹介したい日本の風土の中で生まれ、引き継がれている〝祭〟があります。その他にもユネスコ無形文化遺産に登録されている代表的なものとして、「能楽」、「人形浄瑠璃文楽」、「歌舞伎」、「雅楽」、「和食(日本の伝統的食文化)」、「和紙(伝統的紙漉き)」などがあります。それからまだまだ無形文化遺産に登録されていない日本の伝統的文化はたくさんあります。例えば「大相撲」があります。あるいは「舞妓」「芸妓」の存在もあります。宮中(皇居)や伊勢神宮で行われている日本を代表する「御神楽」は、平安時代中期にはほぼ現在の形が完成したとされ、今もその時代のままに雅楽と舞の構成で行っています。また地方にはその土地ならではの「里神楽」(江戸の里神楽など)があり、海外公演まで行っているものもあります。更に日本には茶道や華道、武道(剣道、柔道、空手、合気道少林寺拳法弓道薙刀など)、禅、浮世絵などの日本絵画、俳句や短歌などの文芸、盆栽や日本庭園、日本の伝統的家屋など数多くの文化があります。そうした日本の文化のいくつかは今の日常の生活の中に存在しています。日本の観光業を考えた時、こうした日本の文化を徹底して海外の方に伝える。伝える工夫をさまざまに行い、日本文化を全面に打ち出していくことが、日本の観光業の課題であり、今回の結論でもあります。今回結論を先にしました。これで終わりにしてもいいのですが、それでは全く説得力がありません。これからその結論に至るプロセスを説明していきます。


さて、話が変わります。私は今から3年前、2014年の10月に社員旅行でスイス、ドイツ、オーストリアの3ヶ国のツアー旅行に行ってきました。初めてのヨーロッパ旅行で、大変貴重な経験をさせていただきました。スイスではレマン湖クルーズとシヨン城見学、そしてユングフラウ観光。ドイツではノイシュバンシュタイン城観光と世界遺産ビース教会見学。オーストリアでは世界遺産ザルツブルク観光、世界遺産ハルシュタット湖遊覧と散策。ウイーンでは世界遺産シェーンブルン宮殿世界遺産ウイーン観光を楽しみました。丁度1週間、ヨーロッパ現地での観光は実質5日間と短く少しハードな日程でしたが、ヨーロッパの雰囲気を味わうことはできました。ヨーロッパは、是非また行ってみたいところです。
【写真↑ フランス シャモニー、スイス レマン湖とシヨン城、スイス ユングフラウ、ドイツ ノイシュバンシュタイン城とビース教会、オーストリア ザルツブルクハルシュタット湖など】

そう、確かにヨーロッパはまた行ってみたいとところですが、では改めてディズニーランドにあるシンデレラ城のモデルとなったと言われているドイツの「ノイシュバンシュタイン城」やオーストリアハプスブルク家の宮殿だった世界遺産シェーンブルン宮殿」の建物だけ、あるいは世界遺産の「ウイーン」の街並みだけを見に行きたいかといえば、そうではありません。今度同じところに行くとすれば、その素晴らしい景観がある場所のそこに生活する人々の営みについて知りたい。そこでの人々の習慣や気質、そして文化の一端でもいいから知りたい。そう思います。多分多くの方が同じように思うでしょう。これは日本に来る外国人観光客の方も同じだと思います。現に日本に来る外国人観光客が増えているのに、ただ世界遺産の施設や景観を見せるだけの観光地では外国人観光客が減っているところもあります。
私の3年前のヨーロッパ旅行のの話に戻りますが、旅行の最終日はウイーンで午前中シェーンブルン宮殿観光とバスでのウイーン観光。昼食の後は夜まで自由時間でした。実はこの自由時間が一番印象に残っています。まず午後3時からウイーンのオペラ座を現地ガイドが日本語で案内してくれるということを知り、時間に行って案内してもらいます。ハンサムな好青年で、日本にも数年滞在したことがあるということで日本語は完璧でした。やっぱり日本語での詳しい説明があるのとないのとでは大ちがいで、ガイドがなかったら建物の中に入って、〝すごいな〟と思っても、日本に帰ったらほとんど記憶に残らなかったでしょう。

【↑写真上=ウイーンオペラ座内観客席 左下=オペラ座入口 右下=オペラ座内での日本語でのガイド案内(こちらを向いている男性がガイド)】

それから事前に旅行ガイドでオーストリアの郷土料理がウイーンで食べられるというレストランを調べ、地図を片手にそのレストランまで行って、片言の英語で予約を頼んだのですが、あいにく夜9時まで満席とのことで諦めました。その代わりにウイーン中心部のダウンダウンを散策しながら適当なレストランを探し、そのレストランに職場の仲間7人で入りました。それぞれが違うメニューを頼み、取り皿も用意してもらっていろいろな料理をみんなで取り分けて味わいました。もちろんワインも入って盛り上がり、ヨーロッパ旅行の最後の夜を十分楽しみました。実は最初いきなり予約なしでレストランに入ったときは断られ、諦めて店を出ようとしたときに店のスタッフから呼び止められ、急遽席を用意してくれました。せっかく遠いアジアの国から来たのでなんとかしてあげようと思ったのでしょうか。取り皿も頼むと直ぐに持って来てくれたり、いろいろ親切に対応してくれました。またメニュー表は日本語表記のものがあり、料理内容をだいたいイメージできて注文もほとんど悩むことなくできました。ほんの一端ではありますが、ツアーの決まった食事を日本人だけで食べるのと違い、レストランのスタッフのサービス(イレギュラーの対応を含め)の質を知ることができました。昔アメリカのレストランを利用したときもそうでしたが、ツアーの決まった食事ではなく、少数グループなどでレストランに入ってメニュー表で注文を頼むといろいろ勉強になります。例えばレストランのスタッフのサービスクォリティや仕事への取り組み姿勢、店の雰囲気。利用しているお客の様子や着ている服のセンスなども観察できます。アメリカもヨーロッパのレストランも雰囲気を大切にします。蛍光灯をむき出しで使っているレストランはありません。それなりのシャンデリアや間接照明の電球です。したがって日本のレストランに比べ、店内はやや暗い。理由は蛍光灯はただ明るいだけで雰囲気がないということです。もっとも日本でも新しくそれなりの店舗では、ほとんどが間接照明を使うようになっていますが。それからもちろんテーブルクロスは大半のレストランで使っています。水を飲むのもほとんどのレストランで洒落たグラス(夕食をレストランでとる場合はワインを飲むのが普通なので兼用でワイングラスを置く場合も多いようです)を使っています。【写真↑ (左上 )レマン湖シヨン城近くのレストラン「タルティフレット」《昼》、(右上)ハルシュタット湖沿岸の「白馬亭」《昼》、(左下)ウィーン「ラートハウスケラー」《昼》、(右下)ウィーン「グヤーシュ」《夕食》】
以前この投稿のシリーズでも一度紹介しましたが、私の仕事は伊勢神宮近くで参拝・観光客を対象に、土産物販売兼食堂業を行っているところです。食堂は一般の人と団体の方の両方が対象で、座席数は1階2階合わせて約1200席ほどです。特に忙しい月は連日満席状態が続きます。従って当店のような店で、グラスは洗う、保管場所に保管するなどのメンテナンスを考えれば、ヨーロッパのレストランのようなウォーターグラスを使う訳にはいきません。某ビールメーカーの名前が入ったグラスなども使用しています。でも、たまにフランスなどヨーロッパからのツアーのお客様が利用することがあります。そのヨーロッパのお客様に当店のグラスを出すときは(ヨーロッパのレストランで使っているようなグラスはないので)、いつも気が引けてしまいます。でも、私がこうした問題意識を持つようになったのは、短い期間でしたがヨーロッパ旅行に行ったから分かったことです。
これから本当に日本が観光立国を目指していくためには、先ほど書いたように日本文化を全面に打ち出していくべきです。しかしそれは日本人の一人よがりで一方的なものではなく、これからは彼らの思考の特徴や行動スタイルなども把握して対応するようなクォリティのレベルが求められるでしょう。
【↑写真 (左上)ウィーンで食事をしたレストラン (右上)日本語表記のメニュー表 (下2枚)会食の様子】




さて、ここで外国の事例を紹介しましょう。一人の女性が18歳でヨーロッパに渡ってホテル運営を学び、23歳でミャンマーに帰ってリゾートホテルを立ち上げて軌道に乗せるというその取り組みが海外からも注目されているのです。日本とは条件が異なりますが、そのホテル運営の考え方は大変参考になります。

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【↑ 2016年10月26日 日本経済新聞


上の新聞記事は昨年10月26日の日本経済新聞1面に掲載された特集記事で、「アジア ひと未来〝女性が拓く〟」というテーマのシリーズ第4回目の記事になります。日本で現在観光に携わる人、あるいはこれから観光に携わることを考えている人には大変参考になると思います。ミャンマー(1989年以前はビルマ連邦)というと第2次世界大戦後約半世紀に渡って軍による統治が続いた国で、現在は国家顧問とという立場で政治の世界で活躍しているアウンサンスーチーさんは、軍政時代長く自宅軟禁されていました。そんな軍事独裁色の強い国にあって観光事業で活躍することになる一人の女性の記事ですが、その人生は正に〝物語〟です。それでは写真の記事は読みにくいので、記事の全文を掲載します。

ミャンマー中部シャン高原で満々と水をたたえるインレー湖。少数民族インダーが昔ながらの水上生活を営み、野菜の水耕栽培で生計を立てる。
観光客は舟で水上寺院を訪ね、秘境の暮らしを体感する。湖畔では伝統的な腰巻きスカート「ロンジー」を身につけたイン・ミョー・スー(ミスー、44)が出迎える。
木立には40棟のヴィラが点在する「インレー・プリンセス・リゾート」を経営する。2013年には米フォーチュン誌などが選ぶ「グローバル女性リーダー賞」を受賞。勃興期のミャンマー観光業への貢献を通じて「自身のビジネス知識を途上国の女性に伝承し、教育した」と高く評価された。
祖国は旧軍事政権下で長く国際社会から孤立してきた。ミスーは湖畔の小村で生まれたが、英語を話せる父を欧米からの旅行者がまれに訪ねてくることもあった。「私たちはなぜこんなに違うの」。好奇心が湧いた。
外国への興味は自国への疑問に変わった。16歳の時、学生中心の民主化運動に加わった。1988年のことだ。輪の中心にアウン・サン・スー・チー(71)がいた。運動は軍に武力鎮圧され、数千人が命を落とした。
「外の世界を見たい」。18歳で父の友人を頼って欧州に渡り、フランスでホテル運営を学んだ。父が投獄されたと聞いて帰国したが、長女まで捕まるのを恐れた母に追い返され、勉強を続けた。
23歳で帰郷すると「子供の頃からの夢」という湖畔リゾートの立ち上げに奔走した。場所は眺めが好きな東岸。竹製屋根のレトロな木造建築と、スパや無線インターネットなどの最新設備を融合させ、欧州仕込みの接客術を徹底した。古くからの地元の友人、アウン・ジョウ・スワ(41)は「こんな山間の湖畔で、彼女は現在型のリゾート経営を確立した」と驚く。
「外」への憧れを無批判に持ち込みはしなかった。外を見たからこそミスーの意識は自身を育てた「内なるもの」に向かった。「インレー湖についてあまり知らないと気づき、恥ずかしくなった」。水上生活、民芸品、郷土料理……。かけがえのない地域の伝統や文化を伝える活動を始めた。
若者が住み込みで学ぶ学校を設け、毎年40人に語学や接客の心得、郷土の伝統を教える。卒業生のナン・キン・メイ(20)は「ミスーさんは湖の存在を世界に広めてくれた」。ミスーは言う。「次の世代が祖国を知らなければ、それは私たちのせいです」。貴重な異文化体験と優れたサービスは、毎年1万人を超す宿泊客を吸い寄せる。
88年に始まった民主化運動から四半世紀余り。ついに政権を握ったスー・チーは真の民主化を目指し、ミスーはリゾート経営を通じて祖国の経済発展に貢献する。昨年11月の総選挙を経て、国会における女性議員の比率は3%から13%へ高まった。長かった軍政が幕を閉じ、国家として再出発したミャンマーを、強くしなやかな女性たちがけん引する。

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いかがでしょうか。ここにもこれからの日本の観光業を更に飛躍させていくための重要なヒント、手本にしていいプロセスが紹介されています。果たして日本の観光業に携わる人の中にどれだけこんな発想を持って事業を考えている人がいるでしょうか。先代から引き継いだ事業を、これまで通りの発想の枠の中で取り組んで一喜一憂し、結果事業収入は縮小して現在に至っているというケースが多いのではないでしょうか。また、既に10年、20年と同じ事業に携わっている人は、事業内容を革新して飛躍させるといっても〝革新させる〟ということそのものは、今まで自分がやってきたことを全否定することでもあるので現実にはほぼ誰もできない。みんな口先だけで「革新」、「革新」と言っているケースがほとんどでしょう。また、10年、20年とやっていると、それまでの仕事のクセ、意識が染みついてしまいます。
そのことに関連して、また新聞記事を紹介します。日本経済新聞はご存知のように角界で活躍された著名な方(日本人中心ですが一部日本と繋がりのある外国人も含む)の出世から執筆当時までの半生を毎日連載で描く自伝的読みもの『私の履歴書』という61年の歴史を持つ連載記事があります。私の大好きな記事で、毎日欠かさず読んでいます。先月5月はあのディズニーランド、ディズニーシーのオリエンタルランド会長兼CEOの加賀美俊夫さんが執筆しています。その5月13日の記事になります。【↑日本経済新聞5月13日の『私の履歴書』】

この5月13日の記事には正に東京ディズニーランド(TDL)開園直前の様子が書かれています。そしてこの記事のほぼ真ん中にこんな記事があります。
中途採用などで社員もどんどん入ってきた。レジャー施設で働いたことのある人材は採らなかった。かつていた施設の接客のクセが顔を出し、ディズニーのスタイルをおろそかにしがちになる。白紙から育てたかった」。

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この加賀美会長の書かれた記事、その気持ちは多分皆さんも分かると思います。既存のものと全く違うものを創ろうとしたら、既存の施設でクセのついてしまった人はかえって弊害になってしまう。しかし、全く同質の施設、同質の仕事のレベルを求めるのであれば「経験者歓迎」でいいわけです。

では、既存の観光地の観光施設で働いている人ではもうその事業の革新は不可能なのでしょうか。そんことはありません。確かに観光事業に長年携わってきたた方が、今までのやり方を変えることは大変な精神的苦痛を伴います。「いったい今までやってきたことはなんだったんだ」と自己嫌悪に陥ることもあるでしょう。でも、先代から引き継いだ温泉旅館の仕事から始まって温泉地そのものを全く新しい温泉地へと創造(再生というレベルを超えている)した人がいます。


その名は「後藤哲也」さんです。そもそもこの「黒川温泉に学ぼう」という投稿を始めたのは黒川温泉がこれからの日本の温泉地、観光地の進むべきモデル、手本を示しているからです。全く無名の温泉地を、ミシュラン・グリーンガイドで二つ星を取得するという日本の観光地のトップレベルにまで押し上げた人が後藤哲也さんです。後藤さんは終戦の混乱時期に家業を支えるため学校を辞めざるをえなくなり、家業の温泉旅館「新明館」を先代(実質的には先先代の創業者の祖父)から引き継ぎます。温泉旅館「新明館」をなんとかもっと多くの方に利用してもらいたいという一心で、ただ一人ノミとカナヅチだけで2年がかりで洞窟風呂を造ったり、裏山の景観を良くするためにこれも一人ツツジの木を植樹していくなどの努力を黙々と続けました。その一方で旅館をもっと良くするため全国の有名な観光地を訪ね学びます。取り分け学ぶことの多い京都は毎年訪れ、寺院の庭などを観察して、良いところを自分の新明館にも取り入れて改善を進めていきます。それは1回、2回というレベルではなく、毎年欠かさず京都の寺院などを訪れ観察をし続けるというものでした。そしてその定期点検観察によって重大な変化を発見するのです。その変化の内容とは・・・・

その変化を自分の目で確認することで、今後の黒川温泉の行くべき方向を明確につかんだのです。と言っても地元黒川温泉では、後藤さんのことをだれも相手にしてくれませんでした。明確に方向性をつかんでも、その後の後藤さんは自分の新明館の裏山などで、一人自然な雑木林をつくるために植樹の試行錯誤をしながらノウハウを身につけていきます。後藤さんが黒川温泉の再生のために中心的役割を果たすのは、それからほぼ20年、50歳を過ぎてからです。後藤さんの持つ黒川温泉のあるべき街の景観構想と数十年に渡る経験のある植樹のノウハウなどを黒川温泉を挙げて取り入れていくことで、街はみるみる変わっていくのです。


こうしてミャンマーでリゾート経営を確立させたイン・ミョー・スーさんや黒川温泉の後藤哲也さんという存在を考えると一人の人間の力とは大変大きいと感じます。仮の話は確かに〝仮〟でしかありませんが、仮にミャンマーにイン・ミョー・スーさんがいなければ、現在のようなリゾート経営をする人が他に現れていた可能性はほとんどないでしょう。熊本県にある黒川温泉に後藤哲也さんという人が存在しなければ、黒川温泉は今も県外でその名を知る人のほとんどいない温泉地のままだったでしょう。そうです、たった一人の人間が存在したことで地域を革新し、国内だけでなく世界にその名を知らしめることにつながっているのです。
私の愛読書にベストセラーになったアドラーの思想を青年と哲人二人の対話形式で紹介した『嫌われる勇気』という本があります。その最後にこんな対話があります。

(哲人)・・・わたしは長年アドラーの思想とともに生きてきて、ひとつ気がついたことがあります。
(青年)なんでしょう?
(哲人)それは「ひとりの力は大きい」、いや「わたしの力は計り知れないほどに大きい」ということです。
(青年)どういうことでしょうか?
(哲人)つまり、「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、・・・

この対話の一節は、少し違和感を感じていました。特に〝わたしの力は計り知れないほどに大きい〟という表現は少し極端すぎるのではと感じていました。しかし、イン・ミョー・スーさんや後藤哲也さんの生きてきた軌跡をたどれば、アドラーの表現は決して極端なものでないことが分かります。



さて、また話を変えます。最近、観光地である伊勢にいて感じるのは、外国からの観光客が幅広くなっていると感じます。アジアでは今まで台湾、中国、韓国の3ヶ国が中心でしたが、他の国からも来るようになりました。特にタイから日本へはビザなし渡航が可能になった効果もあってか、タイ人の観光客が目立つようになりました。その他にも今までほとんど見かけなかったシンガポールやマレーシアなどの東南アジアからの観光客も伊勢に来るようになりました。また欧米からも今までほとんど来ることのなかった国からの観光客も来るようになりました。伊勢神宮を訪れる海外観光客には特徴があります。アジアでは親日国の台湾からの観光客が圧倒的な数で、全体のインバウンド客の3〜4割を占めています。それから日本全体で欧米人の中ではアメリカからの渡航者が最も多く、2015年実績になりますが商用を除く観光目的の渡航者は約75万人と比較的多いのですが、どういう訳か伊勢神宮を訪れる観光客はほとんどいませんでした。欧米から伊勢神宮を訪れる国はフランス、ドイツの2ヶ国がほとんどでしたが、最近やっとアメリカからの観光客も見かけるようになりました。私は今の職場で9年近くになりますが、今年初めてスイスの団体客が当店で昼食で利用してくれました。私がスイスのユングフラウに行ったことがあることを添乗員に話したら、添乗員がスイスの皆さんに「この人はスイスのユングフラウに行ったことがあるそうです」と紹介してくれ、皆さんから「オーゥ」という驚きの声と拍手をいただきました。これからも日本はますます外国からの旅行者、そして欧米からの旅行者が増えていくでしょう。昨年2016年は2404万人のインバウンド客がありました。今年も前年比で15%増くらいで推移しています。
【表↑ 2016年度国別インバウンド数 日本政府観光局(JNTO)】


しかし、以前このシリーズでデービット・アトキンソンさんの『新観光立国論』の中で、インバウンドの旅行者は日本だけでなく世界的に増加傾向にあることと日本はタイに比べ欧米からの旅行者は5分の1に過ぎないということが書かれていることを紹介しました。先ほど紹介した昨年のインバウンド客2404万人の内、韓国、中国、台湾の3ヶ国だけで1563万人で全体の65%を占めています。この3ヶ国だけで2013年の全インバウンド数1036万人をはるかに超える急激な増加になっていて、確かにその増加している国への対応は必要でしょう。しかし、日本のことを世界の人に理解してもらうためにも、もっとバランスよく欧米などから旅行者を比率を増やすべきです。「欧米の旅行者は、中国の人などに比べて土産をほとんど買わないので、増えてもメリットがない」と思っている観光地の人も多いでしょう。確かに私の店でも欧米の皆さんは当店で食事をしても当店の土産品をほとんど買いません。日本のように職場への土産の習慣や中国の様に親戚まで配るような習慣はほとんどありません。しかもアジアの国に比べ、旅行期間が3倍位になります。だいたい2週間程度。当店を利用するドイツ人のツアーで、19日間というのもあります。当店の場合ツアー期間のちょうど中間くらいでの来店が多く、そのあとも旅行は続くのでまだ荷物を増やしたくないという事情もあるでしょう。また、たまに買う場合も菓子類などは少なく、あってもお土産ではなくその日ホテルで自分が食べる分を買うという感じです。多くの欧米人は日本的な文化、特徴を持った商品を厳選して求める傾向があります。食品では日本の緑茶などには関心を示します。とにかく決してムダ使いはしません。それでも日本全体で考えれば、ホテル、旅館の利用を含め欧米人が日本旅行で支出する金額は、旅行期間が長い分アジアの国々より多くなります。お隣の韓国はインバウンド客の40%を超える600万人以上が中国からの観光客です。ところが昨年末に北朝鮮への対応でアメリカの支援で高高度ミサイル防衛システムTHAAD(サード)を配備しました。そのことに反発した中国は韓国への渡航にストップをかけます。そのため韓国は中国からの観光客が激減していて、多くの観光地でその影響を受けています。日本も2012年9月の尖閣諸島国有化問題で中国が反発、マスコミが煽って各地では暴動が起き、現地の日本企業が窓ガラスを割られたり、大変な被害を受けました。中国からの観光客も一時的に激減しました。翌2013年は全体のインバウンド渡航者数が前年比24%で増加している中、中国だけがマイナスとなりました。現在はまた大幅に増加し昨年実績で637万人が日本を訪れ、全体のインバウンド数のトップで26.5%を占めるようになっています(昨年は中国人の爆買いで話題になりました)。しかし、インバウンド渡航者が1国に集中しすぎるのは、長期的に日本の観光産業として考えると好ましくありません。取り分け中国、韓国と日本の関係は政治的にも危うさを持っています。もっと世界からバランスよくきてもらう努力をすべきでしょう。


そのことを地方自治体が中心となって取り組んでいるところがあります。岐阜県高山市です。高山市はもともと貴重な財産を持っています。歴史的な街並みです。高山(三町)は国が選定した重要伝統的建造物群保存地区の一つになっていますが、この保存地区というのは全国で現在114地区が選定されています。
【写真↑ 高山市ホームページより】
高山市三町地区は、全国の保存地区114地区のほとんどが規模が小さい中にあって、比較的広い面積があります。同じように広い面積の保存地区というと、奈良県橿原市今井町地区がありますが、高山市三町地区との違いは〝人の営み〟という点です。三町地区は市のほぼ中心地にあり、いわば市のダウンダウン、下町という感じで、今も先代からの家業を継いで生計を立てている家が多くあるようなところです。このことが他の保存地区と違う貴重な財産となっています。そしてこの財産を中心に据え、市が観光事業の振興を行なっています。高山市は外国人の受け入れを市の重要な柱と位置づけ、そのものずばり観光戦略課を設け、戦略方針に基づいたさまざまな取り組みを行なっています。例えば外国人向けのパンフレットは8ヶ国語で英語に関しては、北半球の英語圏と南半球の英語圏(オーストラリア、ニュージーランド等)の2種類のパンフレットを用意しています。
【写真↑ 飛騨高山観光公式サイト】
更に高山市内の散策用マップ〝飛騨高山ぶらり散策マップは、10ヶ国の言語が用意されていて、その中の一つはヘブライ語イスラエルで使われている言語)まであります。
【写真↑ 10ヶ国語の飛騨高山ぶらり散策マップ】
おそらく国内の他の市町村でここまでのレベルでやっているところはないでしょう。この他にも高山市は、一つずつ国を選定した上で、もちろんその国の言語を使って観光用のプロモーションビデオを作成し、その国へ出向いて営業活動をしています。また実際に外国人を受け入れる宿泊施設や飲食店などは、外国人向けにさまざまな工夫をしています。例えば高山市内にあるそば屋『恵比寿』の事例です。そこでは外国人向けに英語でそばの食べ方をマンガで表わしたものを用意しています。そこにはそばはズー、ズーと音を立てて食べていいことが書かれています。これは外国人が喜びます。そば一つ食べることで、現在の日本の習慣、文化を知ることができるのです。もちろんこれは店の従業員が作ったものです。このような地元の店や施設の外国人向けの工夫ある取り組みに対しては市の補助制度もあり、創意工夫を支援しています。
【写真↑ トリップアドバイザーより】
こうした高山市の取り組みの結果、高山市の外国人受け入れ人数、取り分け欧米人の受け入れ人数は他の市町村行政を圧倒しています。平成28年に出された高山市観光統計によれば高山市の宿泊施設で宿泊した延べ人数は207.1万人。そのうち外国人の延べ宿泊人数は36.4万人で、高山市の人口87,701人(2017.4.1現在)を考えると驚異的な数字です。更にヨーロッパ70,232人、北米21,771人、オセアニア18,342人と欧米人の比率外国人高いのも特徴です。
外国人が海外旅行で、実際に利用した施設の評価の書き込みとその閲覧で人気のあるウェブサイト「トリップアドバイザー」は、毎年『外国人に人気の日本のレストランランキング』を発表しています。その2016年度ランキングで、なんと高山市にある『平安楽』が堂々の1位にランクされているのです。
【写真↑ トリップアドバイザーより】
これはそれだけ外国人の観光客が多い点と受け入れ側のレストランの努力によるところが大だと思います。
高山市は黒川温泉と同様に、そして黒川温泉とはまた違った視点、すなはち戦略の明確化、営業対象国を絞り営業活動を徹底、事業主・従業員・市民の創意工夫など、これからの日本の観光業のモデル、先進事例として謙虚に学ぶべきです。



もちろん現状中国、韓国、台湾の3ヶ国で、全国のインバウンド客の65%を占める現状では、この3ヶ国への対応は当然必要でしょう。しかし、先ほども説明したように日本はまだ欧米先進国からの訪日観光客が少なすぎるのです。したがってここでは欧米各国・欧米人に関する考察を中心にすすめたいと思います。


欧米人の余暇、レクレーションというと〝バカンス〟という言葉を思い浮かべる人は多いでしょう。取り分けヨーロッパ、特にフランスが有名です。バカンスという言葉そのものがフランス語です。フランスでバカンスが本格化したのは、今から80年ほど前に有給休暇2週間の取得を国が法制化して、バカンスなどを推奨したことに始まります。現在は有給休暇は5週間の取得が法制化されています。もちろん日本と違い、有給休暇の取得はほぼ100%です。日本では制度はあっても取得率はやっと50%という状況なので大きな違いがあります。その5週間の有給休暇の内、やはりメインは夏のバカンスで、平均3週間程度を取ってバカンスを楽しみます。このフランスのバカンス、意外に質素と言っていいかもしれません。遠く海外でバカンスというのは極少数派です。ほとんどがニースなどの地中海沿岸か地中海に近いフランス南部がほとんどで、国外でもスペイン、イタリアなど、地中海沿岸に接する国が多いようです。そして、ほとんどが高級ホテルに泊まるのではなく、「友人・親戚宅で過ごす」「民宿」「貸別荘・ペンション」「キャンピングカー」などを使います。ただ質素とはいえ、家族4人で3週間の滞在ともなればその費用は日本円に換算して20万円以上にはなるでしょう。それでも大半の人が毎年行く場所を変えてバカンスに出かけます。〝羨ましい〟と日本人なら誰でも思うでしょう。
【写真↑ 地中海沿岸にあるフランス ニースの海岸 ウキペディア「バカンス」(2016.8.30更新)より】
しかし問題があります。日本人が同じように、フランス流のバカンスで楽しめるかという点です。どんなバカンスのスタイルか?朝は家族でも自由に起きて、自分の食べる分だけ作って食べます。あとは昼まで日光浴をしながら本を読んだり、音楽を聴いたり、近辺の散策をしたり、あるいはただボ〜っとして過ごします。昼はみんなで軽食をとって昼寝と日光浴。また読書をしたり、ただボ〜っとして過ごす。そして夕方は夫婦や家族で散歩。浜辺や湖畔などにあるベンチに座って夕日が沈むのを眺める。日が沈んだら夕食の準備を始め、準備が出来たら家族みんなで2時間はかけて会話とワインと食事を楽しむ。そんな1日を3週間続けるのです。近くの観光地に足を運んだりしません。こんな3週間に日本人は果たして耐えられるでしょうか?3週間日光浴をしながらただボ〜っとしていられるでしょうか?多分できないでしょう。1日、2日は非日常で楽しいと思うでしょう。しかし、3日目位からその感激もなくなり、田舎の静けさに飽きて退屈感を感じ始める。4日目には誰ともなくバカンスの地から「どっかに行こう」ということでバカンスの地から観光地を観光し、バカンスの地に戻ったら誰ともなく「もうウチへ帰ろう」と言いだす。そう、もう5日目で都会の喧騒さが懐かしくなり、無性にパチンコがしたくなる。あるいは仕事のことが気になって仕方ない。多分そんな感じでしょう。もちろん日本人でもサーフィンの大好きなサーファーが、休みと金が十分あったら3週間でも4週間でもサーフィンのできる海外の同じ地で、サーフィンを楽しめるでしょう。しかしその場合はあくまでサーフィンを楽しむのであって、日中ただボ〜っとしている訳ではないと思います。ただフランス人はボ〜っと過ごすといっても全く何も考えていない訳でもないでしょうが。ただし仕事のことは全く考えない。その辺を徹底して切り替えが出来るのが日本人と違う点です。フランスだけでなく、ヨーロッパはそういう文化です(余暇に対する考え方はアメリカはまた違って、少し日本に近い感じがします)。仕事から離れておそらく自分の人生をどう充実させて生きるかなどと思索しているのでしょう。その結果日本人とは違い、欧米人(この場合はアメリカ人含め)は退職した後になって、これからの老後をどう生きるかで悩むことはないそうです。
結局日本人はヨーロッパの国と同じように夏に長いバカンスをとることは国民の習性として出来ないと思います。しかし、彼らのそういうライフスタイルはしっかり把握はしておく。彼らはバカンスでも日常でも夕方夫婦で、またはカップルでよく散策します。それと夕日を眺めながら二人での会話を楽しみます。そんなライフスタイルを考慮すると、デービッド・アトキンソンさんが指摘しているように、日本の観光地にベンチが少ないことが分かります。ただ現状の質素なバカンスのスタイルを考えれば、バカンスで遠い日本にわざわざ来てもらうことは難しいことが分かります。
それから欧米人のライフスタイルの一つになっているのが〝日光浴〟です。バカンスの時間の大半はこの日光浴といっていいくらいです。日常的にも家に近い公園などで、水着姿で日光浴をする光景をよく写真などで見ることがあります。そう、彼らは日本と違い、地形上の理由で日光浴が必要なのです。
【↑Yahoo検索画像より】
そして紫外線は人の肌に当たることによってビタミンD3を体内で合成します。このビタミンD3が不足するとカルシウムの吸収が悪くなり、くる病の発症や骨折、骨粗鬆症の原因になると言われています。そして地球は球体なので緯度の高さの違いが日光に対する地面の角度の違いとなり、紫外線の降りそそぐ量の違いとなります。調べるとヨーロッパは日本よりはるかに緯度が高いことが分かります。例えばフランスのパリの緯度は北緯48度51分で日本の施政下で最北端である北海道稚内市弁天島の北緯45度31分より高いのです。更にイギリスのロンドンは北緯51度30分、ドイツベルリンは北緯52度30分と高くなります。これはロシアのカムチャッカ半島の南端の緯度である北緯50度52分よりりも高い緯度になります。日本人のイメージではギリシャアテネはかなり南にある感じですが、それでも北緯37度58分の高さにあり、東京のほほ中心の千代田区(区役所地点)の北緯35度41分より高いことが分かります。こうした地形上の違いがあるので、ヨーロッパの白人たちが紫外線求めて日光浴をすることが分かります。逆に日本はヨーロッパに比べ緯度が低いので、わざわざ日光浴をしなくても日常の生活をしているだけで顔や手から必要な紫外線を吸収し、ビタミンD3を作ることができるそうです。しかし最近日本人も美白(の肌)が美容の主流となり、少しの外出も日傘と日焼け止めクリームを使う潔癖な女性が増えたため、ビタミンD3不足の人が多くなっていて、骨折と将来の骨粗鬆症のリスクが高まっていると言われています。
ところでオーストラリアという国は、日本と反対側の南半球になります。シドニー(南緯33度57分)やメルボルン(南緯37度49分)などの主要都市は南緯ですが日本の東京の北緯35度41分と度数ではほとんど変わりません。しかし大陸の北部にあるダーウィンという都市の緯度は南緯12度25分と極めて低くなります。また北西部の一部の気候は、熱帯モンスーン気候になっています。海水浴で人気のロングビーチの中心地の緯度は23度26分と日本の沖縄本島並の緯度になっています。ご承知のようにオーストラリアはイギリスの植民地としてイギリス人が入植して人口を増やしていった国です。そのため今でも人種はイギリス系の白人が大半です。当然イギリス同様日光浴の習慣はあります。しかし、イギリスとは全く違って降りそそぐ紫外線の量は極めて多い。でも白人なので皮膚のメラニンが少なく、紫外線をうまく処理できない。そのため肌荒れ、そして皮膚ガンの発症を高めていて、国はその対策を取り始めています。それから欧米人は日本人のように日焼け止クリームを使わないで長い時間日光浴をするので皮膚の老化はかなり早くなっているようです。日本に来る欧米人を観察していると、朝晩寒さを感じる4月初めのの桜が咲く時期でも、晴れの風のない日にはもう半袖姿で闊歩している人を見かけます。これも部分浴で紫外線を求めての行動と思います。

こうした日光浴を求めることが習性となっている欧米人は、夏のバカンスでは当然日光浴ができることが条件となります。その点日本は欧米人を欧米人のスタイルで夏のバカンスとして利用してもらうには全く適さない国です。一つは先ほど書いたように地理的に遠いということです。欧米人の夏のバカンスはほとんどが自国か近隣の外国です。約3週間家族4人程度で過ごすには質素にしてもそれなりにお金がかかります。フランス人の場合で、夏のバカンスで一人あたりの支出額は、日本円に換算して12〜13万程度と言われています。この予算で日本に3週間ほどバカンスに来るのは少し無理があります。それと日本の夏は海でも快適さに欠けると私自身は感じています。日本の海水浴場は、人の多さ(昔に比べれば少なくなっていますが)だけでなく蒸し暑さが問題です。午後からは海風もあってそれなりに居心地がよくなりますが、昼頃まではほぼ無風の時間帯もかなりあります。そうするとそんな無風の時間帯に海岸で日光浴をしていると、とても快適な気分ではなく、蒸し暑さで苦痛になります。その不快さ、苦痛に耐えられなくて海に入るという感じです。ヨーロッパは日本の気候と大きく異なり、そのほとんどが西岸海洋性気候で、冬は緯度の割に温暖で、夏は比較的日本のような猛暑日が少なく過ごしやすい気候です。ここでヨーロッパと日本の代表的な海岸沿いにある町の比較をしてみます。ヨーロッパは地中海に面し、フランス南東部に位置するニースと日本は江ノ島の海水浴場のある藤沢市の気候の比較です。

【↑ウィキペディアの各市の気候から作表】
比較するとニースと藤沢では平均気温、平均最高気温、平均最低気温でいずれも藤沢の方が3℃高くなっています。そして降水量は藤沢はニースの5.7倍と高くなり、湿度の高さに影響を与えています。それからこの表にはありませんが、月間の総日照時間はニースの308時間に対して藤沢は208.7時間です。夏のバカンスは日光浴が主な目的でもあるヨーロッパ人は、曇りや雨で日光浴ができないと途端に不機嫌になると言われています。なので藤沢はニースに比べヨーロッパ人が不機嫌になる確率が高くなります。従って以上の理由から欧米人を夏のバカンスとして日本に来てもらう観光戦略はサバサバと諦めるべきです。日本のもっと過ごしやすい春と秋を中心にした日本観光で欧米人への営業を展開していくべきです。その他オーストラリアなどを対象にした冬のスキーなどのリゾート観光は更に利用増が期待できるので工夫次第でこれまでジリ貧だったスキー場を再びリゾート地として活性化させることはできるでしょう。しかしヨーロッパはアルプス、北米はロッキー山脈という世界的な冬のリゾート地を持つところの欧米人から冬のリゾート観光で日本に来てもらうのは無理があります。

日本の観光に関わる仕事をする皆さんにとって理解しないといけないのは、欧米人は夏だけでなく、春や秋でも晴れれば公園で上半身裸になって半身浴をするほど日光浴が余暇の重要な過ごし方であることと通年通して自宅近くを散策し、ベンチに座っておしゃべりしたり、本を読んだりして時間を過ごします。家の中より外で本を読む方が部分浴をしながら好きな本が読めるという感覚なのでしょう。そんな余暇の過ごし方を欧米人がすることを理解はしてあげましょう。




これまで欧米に留学や仕事での駐在で生活した経験がない私には難しいテーマですが、これまで経験したアメリカへの新婚旅行と前職の仕事関係で3回のアメリカ流通業視察研修と同じく前職で組合員活動部時代の1988年にSSD3(第3回国連軍縮総会)に事務局としてコープの会員代表をニューヨークの国連本部に引率した時のこと、そして今の職場でのヨーロッパへの社員旅行、それから本や雑誌などで学んだ知識からこのテーマで考察したいと思います。

私の以前の職場は神奈川にあるコープ(生活協同組合)でした。約32年勤め、役職定年(制度が55歳と早かった)を機に、日本の観光産業への関心と取り分け伊勢神宮への憧れなどもあって、思い切って現在の伊勢神宮近くで参拝者・観光客を対象にした物販・飲食を事業とする現在の職場に転職しました。特に今から10年ほど前に見た『平成19年度版観光白書』に掲載された平成17年の日本のインバウンド数が世界32位で、スイス、シンガポール、ベルギーなどの小国を下回る少なさに当時アメリカに次ぐ経済大国の国(2010年にGDPで中国に抜かれ世界第3位になる)の数字としてはとうてい納得出来なかったこと。もう一つの問題意識は、日本の街並みの景観が一部を除きその大半が貧弱で絵になる景観がほとんどないということでした。日本全国の主要都市の景観はほとんど同じで、百貨店か大型スーパー、銀行、パチンコ屋があり、その建物の前を電柱から電柱へと電線が這い回っているような風景ばかりで語るにも値しない。駅前だけでなく都会から地方の田舎まで日本の伝統的家屋がどんどんなくなり、統一感のない日本の伝統から断絶した無国籍の建物がチグハグに立つようになってしまい、どんどん魅力を無くしている。私は日本のインバウンド数の少なさは、日本の現状の魅力に欠ける街並みの景観にその原因があるのではとまで思うようになっていました。そんな中、伊勢神宮近くには伊勢神宮に続く参宮街道沿いに江戸時代後期から明治時代初期の日本の街並みをコンセプトに、1990年におはらい町通りが、1993年にはおかげ横丁が整備されていました。今後の日本の観光事業のモデルとなりうるところとの思いから今の伊勢神宮内宮近くにある今の職場に転職しました。

さて、話は元の職場での話になります。コープと言えども店舗は小型の店も含めると100店舗を超えていました。そんな規模もあったので、日本では唯一だったチェーンストア経営専門コンサルタント機関、日本リテイリングセンターの指導を受けていました。そしてそのセンターのチーフ・コンサルタント渥美俊一さんです。私も渥美さんについてのアメリカ西海岸チェーンストア視察研修に参加したり、他国内研修で3回ほど渥美さんの講義を聞く機会がありました。また、渥美さん監修のチェーンストア経営に関する本はかなり購入して勉強しました。その渥美さんは2010年に亡くなってしまいましたが、今渥美さんの自宅は渥美さんを尊敬するニトリ会長の似鳥昭雄氏が買い取って「渥美俊一記念博物館」になっています。
【↑渥美俊一氏 2009年6月20日 法政大学にて「流通産業ライブラリー」設立記念セミナーでの講演(逝去の1年前)】
この渥美さんの話は、日本人には珍しく理路整然とした論理的な組み立てですすめます。その理論体系の構築は、徹底した帰納法(個別的な事例から一般法則、普遍的法則を出す論理的推論)によります。おそらく渥美さんほどアメリカの成長しているあらゆるチェーンストアのベンチマーキングをした日本人はいないでしょう。もちろん帰納法も論理的推論なので渥美さんも仮説を誤る場合もありました(そもそも経営手法に絶対はないでしょう)が、それでもその理論は今も普遍性をもっています。その渥美さんのチェーンストア理論の一端を紹介しましょう。



日本は高度経済成長を経て経済大国になった今も、日本人の生活の豊かさは国際水準からみれば、成熟しておらずまだ貧しい。その日本人の大多数の生活の質を豊かさにすることこそが、生活者主体の〝生活民主主義の実現〟であり、それを実現するためには、生産と流通の関係を抜本的に変える必要がある(「流通革命」)。そのことを実現するのがチェーンストア経営の目的であり、そのことを「経済民主主義の実現」と規定する。


〝経済民主主義〟を実現するために、標準化された店舗を200以上に増やすことでマスの特別な経済的効果(ごりやく)を出すこと。
アメリカではこれに「システムづくり」と続けて、生産、流通、保管などの活動も含めてチェーンが商品を扱おうという際のいっさいの活動と制度とを総称する。したがって、チェーンストアが目ざす営業活動のさまざまな努力を簡単に表現した言葉といえよう。チェーンストアは、これによって始めて〝経済民主主義〟が実現できる。逆にいえば、これのできない間は、チェーンストアはまだ便利さを提供しているだけに過ぎない。つまり、この言葉こそチェーンストアの社会的存在意義を意味するものなのである。
特徴は、次ぎの10である。
①消費者の大部分である大衆を対象に、
②彼らが日常に使用する商品を、生産段階から規格を作り、仕様書によって発注し、
③最も合理的なコストになるように、
④品目ごとに膨大な扱い数量を計画し
⑤新しい値ごろを作って、
⑥客にとっても最も便利でしかも楽しい手段で
⑦計画したとおりの期間に、
⑧計画したとおりの量を、
⑨たくさんの店(売場)で、売りさばきながら
⑩消費者の生活を豊かに変革する。
したがって「大量生産」「大量販売」はビッグストアの論理で、チェーンストアの言葉ではない。
それらは、次ぎのが5つの技術を組み合わせて展開される。
①ユニット・マーチャンダイジング(unit merchandising) 少数品目の商品について徹底的な特殊化を図ることや、販売単位や単価を変えること。
②クリエイティブ・マーチャンダイジング(creative merchandising) 日本にはまだない性質や価格の商品や販売方法を開発し、事業にしてしまうこと。
バーティカルマーチャンダイジング(vertical merchandising) 消費財商品の内容やコストを変化させるために、加工工程や材質を原料段階まで、検討の範囲を拡げてゆく努力。
④フィジカル・ディストリビューション・マネジメント(physical distribution management) 材料、半製品、商品などを移動させるときの費用を、最小にするための新しい制度をつくること。
⑤マス・ストアーズ・オペレーション(mass stores operation) 数百、数千の店舗または売場を、全く同じ方法と経営効率で運営してゆくこと。
以上の5技術に共通の考え方は、①単純化(simplification) ②差別化または徹底化、他社にないごりやく(specialization) ③標準化(standardization)の3つ。これをチェーンストアの3S主義と呼ぶ。
絶対の条件は①ポピュラーアイテム、②ポピュラープライス、③ベーシック商品である。
今後の方向は①ウォンツ商品を本当に売れ筋に限定して品切れさせず、②ニーズ商品の開発を活発に行ない、これを売れ筋の主力としてゆくこと。

以上渥美さんの理論の一端ですが、潔癖な理論展開で多くの日本人には嫌いなタイプかもしれません。しかし渥美さんの本は今読んでも説得力があります。論理的な主張の展開は日本人の欠けるところであり、その点大いに学ぶべきです。


さて、渥美さんの話で前置きが長くなりました。ちょっと古い話になりますが、今から33年前の30歳の時のことです。その渥美さんのコーディネートと指導のもとに、始めてアメリカ流通セミナー(チェーンストア視察)に参加した時の話です。視察の大半はアメリカの代表的なスーパーマーケット、ディスカウントストアなどのチェーンの視察でしたが、その中にアメリカの日常のライフスタイルを知ってもらうために、アメリカのハウスメーカーのモデルハウスを見学したときのことが今でも印象に残っています。そして渥美さんはアメリカの住宅のスタイルを次のように解説してくれたのを今でも鮮明に覚えています。記憶に基づいて簡単な一覧にすると以下の通りです。

ここにある「コンテンポラリー」とは、〝流行りの〟とか〝最新の〟という意味です。もうそのときの写真は残っていないのでインターネットから代表的な家庭のリビングの一部を拾ってみます。ただアメリカのリビングの写真は33年前に見たモデルハウスのリビングのスタイルと、特徴が少し変わっている感じがします。そこでヨーロッパ諸国のリビングの写真も合わせて紹介します。
《⬇︎アメリカのリビング》

《⬇︎ヨーロッパのリビング》

写真を見るとヨーロッパの方がよりクラッシックのスタイルが維持されているようです。どちらにしても日本のリビングより広く重厚感があります。33年前にアメリカのモデルハウスを見たときもそうでしたが、日本のように照明に蛍光灯を使っていません。蛍光灯はただ明るいだけで室内の雰囲気、ムードを演出できないということが理由だそうです。写真を見ると間接照明だったり照明に工夫があります。それと欧米では室内の壁の色や模様、床のカーペット、窓のカーテンなど、家ごとにトータルコーディネートします。したがって統一感もあります。『新・観光立国論』を書いたデービッド・アトキンソンさんは、日本と出身のイギリスの住まいを比較して、「日本の家の室内はどこに行っても壁はベージュ系の1色という感じで変化に乏しく、また壁紙を変えることもほとんどしない。その点イギリスでは、売られている壁紙の色も100種類ほどはあり、各家庭では一定の期間で壁紙の色も変えて全体をリホームするのでそれぞれに個性がある」と言っています。それだけ手をかけ、家の雰囲気をそれぞれので感性でコーディネートして作り楽しんでいるからでしょうか、よく気軽に人を招待したり、少人数のパーティをしたりします。招待された人は今度は自分の家に招待してくれた人を招待したり、パーティをしたりするのです。ここ最近日本では人を招待したり、個人の家でお茶飲み会をすることはほとんどなくなしました。

アメリカのキッチンと寝室の写真も参考に紹介します。
《⬇︎アメリカのキッチンの事例》

《⬇︎アメリカの寝室の事例》

日本と違う豪華な雰囲気を感じます。日本もだんだん欧米のような家の作りになっていますが、食器や洋服などの収納は、室内備えつけで箱物家具の食器棚、洋服だんすなどはありません。あるのはベッド、テーブル、イスのみといっていいでしょう。欧米は日本以上に中古住宅を買い替えて家の大きさを選択していく利用が多く、その都度自分たちにあった部屋に自分たちでリホームしていきます。それによって自分たちが室内の雰囲気を楽しむのと売る時のことも考え高く売れるよう、家の価値を高めるという要素もあります。

明治時代の初期、日本の要人(大物政治家や大物財界人)は欧米の先進国に学ぼうして盛んに洋行して先進国の視察をしました。さまざまな建物を見てその建物の壮大さ、豪華さに圧倒されたことでしょう。日本では考えられないような室内の広さと天井高の高さ、壁面高くまで施された彫刻、天井まで描かれた壁画。今でも十分に圧倒するものを持っています。そして要人たちの多くが西洋の住まいをまねて〝洋館〟と言われる住居を建てています。そして当時の日本人はそうした洋館を〝ハイカラ〟な家として憧れました。それと以前このシリーズの第3回で紹介したように、戦後のGHQによる6年に渡る占領政策の中で、日本人の意識の中に洋風への憧れが根づいてしまったと思います。確かに欧米の国の建物、住まい、室内のコーディネートされた雰囲気は大いに学ぶところがあります。しかし、ここでもう一度今回の投稿で紹介したミャンマーで自国伝統の〝ヴィラ〟を使ったインレー・プリンセス・リゾートを経営するイン・ミョー・スー(ミスー)さんのやったことを考えてほしいのです(日経新聞の記事)。彼女は約5年に渡りフランスでホテル運営を学びました。そして無線インターネットなどの最新設備の導入や欧州仕込みの接客術を徹底するとともにホテルはミャンマー伝統の竹製屋根のレトロな木造建築にこだわって造ったのです。もう一度記事の一部を紹介しましょう。

そうです。私たち日本人もミスーさんの考え方に学ぶべきです。これまで私たちは西洋の憧れを無批判に持ちここもうとしなかったでしょうか。日本の伝統などということをひとかけらも考えなくなってしまったのではないでしょうか。その結果が今のチグハグな街の景観に表れていることを知るべきです。
ミスーさんの考え方に立つなら日本の伝統的な古民家の作りを基本的に残しながらバス・トイレなど、欧米の機能的で使いやすいスタイルも取り入れる。各部屋はもちろん畳で日本式の布団を使ってもらう。居間と兼用の床の間もあり、季節にあった日本画の掛軸を飾り、棚には生花(または盆栽)が飾ってある。もちろんその日本画と生花は数ヶ国語の簡単な説明書きがある。そんなスタイルの日本式ホテル、旅館なら外国の人は日本の文化、日本のテイストを味わうことができ、きっと喜ぶことでしょう。日本人自身がふだん住む住宅についての提案は、次回の投稿(最終回の予定)でもう一度触れたいと思います。

ところで、私が今の職場にいて日本の伝統文化が消えていっていることを思い知ることが4年前の2013年にありました。先程も紹介したように、私の職場は伊勢神宮の内宮近くにある参拝者、観光客向けの食堂と土産物の販売を主な事業としているところです。ご存知かと思いますが、伊勢神宮は20年に1回、内宮、外宮の二つの正殿と14の別宮全ての社殿を新しく造り替える式年遷宮という神宮最大の祭り事があります。その第62回目の遷宮のあったのが2013年でした。その年は外宮、内宮の参拝者は年間1420万人で、統計を取り始めてから過去最高を記録しました。当然私の職場である店の食堂、土産物を扱う物販コーナーもたくさんの方々に利用いただいて、大きく売上を伸ばすことができました。そんなほとんどの土産品の売上が伸びている中で、例外が一つありました。それは〝掛軸〟です。伊勢神宮内宮で祭られている「天照皇大神」を筆で書いたものです。これが前々回第61回の式年遷宮のときは掛軸だけの売上で、残っていた記録の概算で計算すると(遷御のあった10月からその年の12月末までの期間)約6000万円ほどの売上がありました。それが今回第62回では1000万円にもほど遠い実績だったのです。20年でこれほど極端に減ったことに大変驚きました。おそらく日本の家屋がどんどん変わり、洋間ばかりで掛軸を掛ける床の間などの部屋がなくなってしまったこと、人を家に招待することもなくなり、床の間に掛軸があっても見る人もいなくなったので掛軸など不要に思うようになったことが原因だろうと思います。




さて、今回の投稿の最後になります。このテーマも欧米で生活したことのない私が書くのはふさわしくありませんが、こちらもアメリカの視察研修の経験などから少し紹介します。最初に人種のルツボと言われるアメリカ合衆国の人種構成をざっと把握してください。少し古いですが、ウィキペディアから2010年のアメリカ合衆国の人種構成比から集計したものです。

【⬆︎ウイキペディア フリー百科事典『アメリカ合衆国の人種構成と使用言語』より引用】
この表を見ると白人の比率は一番多く72.4%になります。次に多いのが黒人で12.6%になります。ヒスパニックという言葉が人種構成で使われることがありますが、これはスペイン、ポルトガル語を話す文化・言語圏の人達で、当然ヒスパニック系白人も存在します。そしてこのヒスパニック系を含む白人の比率は州によって大きく異なります。例えば日本人になじみのある西海岸のカルフォルニア州の白人の比率は57.6%と低くなります。全米最大の都市ニューヨークのあるニューヨーク州の白人比率は65.8%とこちらも全米の平均以下になります。今度はヒスパニック系と非ヒスパニック系で分類にしてみると、非ヒスパニック系白人が63.4%、ヒスパニック系(白人、混血、黒人含む)が16.7%と黒人より比率が高くなります。さらにこれを主要都市でみましょう。カリフォルニア州ロスアンゼルス市では、ヒスパニック系が48.5%、非ヒスパニック系白人が28.7%とヒスパニック系の人口が圧倒的な多数となります。ニューヨーク州ニューヨーク市だけで見ると、ヒスパニック系が28.6%、非ヒスパニック系白人が33.3%とかろうじて非ヒスパニック系白人が上回っているだけになってます。アメリカを観光で訪れる場合は、西海岸が圧倒的に多いと思います。その場合はカリフォルニア州ロスアンゼルス、そしてサンフランシスコのホテルを利用してヨセミテ公園やグランドキャニオンを観光するパターンが多いでしょう。西海岸より少ないですが、アメリカの東部なら当然ワシントン、ニューヨークに滞在してそれぞれの都市を観光するでしょう。ニューヨークでは超高層ビル(私は丁度30年前になりますが、2001年911日の同時多発テロで航空機が衝突して崩壊してしまって、今はないワールドトレードセンタービルの高さ400mを越す屋上からニューヨークの摩天楼を眺めました)からのニューヨークの摩天楼の景観を楽しみ、午後はマンハッタン島周遊のクルーズで自由の女神ハドソン川からニューヨークの街の景観を楽しみます。夜はブロードウェイでミュージカルを観劇、翌日はメトロポリタン美術館で鑑賞し、午後はセントラルパークを散策・・・、という感じでしょうか。
【⬆︎yahoo検索「ニューヨーク」写真画像より】

【⬆︎私のニューヨークでの1コマ。上がメトロポリタン美術館前で 下がニューヨークマンハッタン島周遊にて 写真の日付は’88.6.8とある。私の顔の奥に見えるのが偶然にもテロで崩壊したワールド・トレードセンター】
そういった大都市が中心になるので、最初は「あれ、やっぱりアメリカは人種のルツボの国だな〜、街を歩いている人種は白人の方が少ないくらいだな〜」と思うでしょう。服装もラフで、ジーパン、短パンにTシャツといった格好が多い。昨年ニューヨークに短期の音楽(ギター)留学した友人の話では、日本ではスパッツの上にスカートをつけてお尻を隠しているが、向こうはスパッツそのままで街を闊歩している。当然お尻のラインは丸見えで平気で歩いているそうです。昔からそうですが日本人には真似できそうもない、胸の谷間を大胆に見せる格好も多い。しかし、ロスアンゼルスやニューヨークの大都市を観光する時は自分の格好、ファッションに関しては、実は気楽でいられると思います。これが白人の多い大都市の郊外、または近い州になると様相が一変します。非ヒスパニック系の白人が圧倒的に多くなります。ニューヨーク州に隣接するバーモント州の人口構成は、非ヒスパニック系白人94.3%、ヒスパニック系1.5%、アジア系1.3%、黒人1.0%となります。ニューヨーク州の南西に位置するウェストバージニア州では、非ヒスパニック系白人93.2%黒人3.4%、ヒスパニック系1.2%、アジア系0.2%という人口構成です。この他ニューヨーク州に近いニューハンプシャー州やアイオア州なども白人の人口構成は90%を越えています。多分こうした州に短期滞在したら、「やっぱりアメリカは白人の国だな〜」と思い知ることでしょう。

また私の前職のコープ時代の話になります。今から24年前の1993年2月、カリフォルニア州の東に隣接するアリゾナ州フェニックス市を中心にアメリカのチェーンストア視察研修に参加しました。砂漠の中に造られた都市で、州の南はメキシコに隣接し、夏は暑いですが冬季は温暖な気候で過ごしやすく、大リーグの春季キャンプで利用するチームはドジャースなど15チームにもなります。アメリカ大陸の州としては一番遅く、正式には1912年にアメリカ合衆国の48番目の州となっています。そのため本格的な開発は第二次世界大戦後になりますが、急速に人口が増え、カリフォルニアから多くの企業の進出もあり、今はハイテク産業の一大拠点になっています。一方1960年代からは宅地造成の一つとして温暖な気候のメリットを生かして退職者の地域社会が形成され、寒いアメリカ北東部や中西部から移り住む人や冬季だけ滞在する人も多いそうです。従ってアリゾナ州に移り住めるということは経済的に余裕のある人が多いとも言えます。そのためロスアンゼルスやニューヨークのダウンダウンを散策しているときと人種の様相は一変します。アリゾナ州フェニックスは先程紹介したアメリカ東部諸州の白人比率には及びませんが、白人の比率はアメリカの丁度平均並の71.1%となっています。あとはその他(大半がヒスパニック)16.4%、黒人5.1%、先住民2.0%、アジア系2.0%という構成です。

【⬆︎ウィキペディア フリー百科事典「フェニックス(アリゾナ州)」より】

【⬆︎24年前のフェニックス視察研修のときのノートが残っていました】
ほとんどの視察店舗がフェニックスの郊外ということもあってショッピングセンターの店舗、レストランを利用する人は、ほとんど白人です。店のスタッフにもしかしたらアジア系の人がいたかもしれないという程度の記憶で、5日ほどのフェニックスの滞在で黒人を見かけた記憶がありません。そこでアメリカの白人の服装、ファッションについて感じたことがあります。一言で言うと〝決まっている〟ということです。体型は長身で足が長く、胸板は厚くいかにも堂々としている。セイターやジャケットを着ても〝様〟になっている。仲間の一人が「歩いている人がみんな映画スターに見えるな〜」と言っていた。そんな中を我々日本の視察グループがショッピングセンター内を歩くのですが身長は小さく、体型もファッションセンスも今一つで、何か貧相に見えてしまいます。私はそのとき39歳。40歳を超える人も数人いたのですが、ある店で私たちが売場の視察をしていると、たまたまバックルームから出てきた20歳代くらいに見える店のスタッフから〝Oh,children! 〟と言われる始末。私もフェニックスでは貧弱な体型の我々日本人仲間の中にいることに何か恥ずかしさを感じてしまい、仲間から離れたくなる衝動にかられました(グループで行動する方がフェニックスでは目立つので)。そして髪の毛は金髪あり、茶髪ありで黒髪は少ない。髪質も日本人と違って柔らかくソフトな感じで、しかもヘアスタイルが決まっています。場所は違いますが、1996年にアメリカのアトランタでオリンピックが開催されました。確かその年に現地の人へのオリンピック関連の取材で「名作『風と共に去りぬ』の舞台になった場所だけに、若い女性は〝美しくある〟ことにこだわり、2週間に1度は美容院に行く」という記事があったことを記憶しています。フェニックス郊外も正にそんな感じです。服装の上下のコーディネート、着こなしなどのセンスはさすがと思わせるものがあります。それから服の生地の色合いは原色が少なく、シックで落ち着いたものです。分かりやすい例では日米のタオル・バスタオルなどの色の比較です。当時日本の生地は原色に近いものが多く、アメリカに行ってその違いが直ぐ分かりました(最近はタオルの色は日本もアメリカと変わらなくなりましたが)。フェニックスでは、やはりアメリカは洋服の国であることを痛感させられました。フェニックスでもう一つ印象的なことがありました。昼に仲間とあるレストランで食事をしていると70歳代と思われる男女の老人グループ10数名が食事に同じレストランに入ってきたのです。そして驚いたのはその服装です。
上はアロハシャツのようなやや明るめの服にボトムは全員が白のスラックスかスカートです。そしてそのスラックス、スカートは全てがまるで新品かクリーニングしたばかりのものを着ているように見えました。しみやしわ一つない感じで清潔感が漂っていました。こんな光景は日本で見たことがありません。私は今でもこと時の光景を忘れず、外見が衰えていく老人ほど清潔感ある服装に心がけるべきと思っています。そんな視点で今でもふだん近所での買い物や食事、職場の店を利用するお客様の服装を良く観察するようにしています。そして、日本人も老人といえば地味な服装という昔のイメージはだんだん変わりつつあります。伊勢市ユニクロでも60代と思われる男女をよく見かけるようになりました。でも世代全体ではまだまだ少ないですね。70代になるともうダメです。服装が地味でしかも着古したものが多い。流行からはほとんど無縁になっているようです。〝もったいない〟は確かに日本の文化のが美徳かもしれませんが、一方で70代、80代でもオシャレも遊びも趣味も楽しみながらバランス良く余生を生きることを心がけるべきです。もちろんそのために適当な経済的余力と健康な体を維持していく努力は必要です。それから今でも10代、20代で、学校生活の延長でジャージー、トレーニングウェア姿でショッピングセンターや街中を歩いている姿を見かけます。これは何でもありのアメリカニューヨークのダウンダウンならともかく、フェニックスや他の内陸部都市郊外で、その姿はダメです。これはダメだということが短期の滞在で分かります。一人浮いてしまうからです。


ここでまた前に紹介した渥美さんんに登場してもらいます。

確かにトレーニングウェアは何回も選択が可能で、ニット材質で軽く、私もどうしてもホームウェアで便利に利用してしまっています。それと最近のジャージーは、カジュアルウェアとして利用できそうなものもありますが。

いずれにしても私たち日本人は、洋服を普段着にしている以上、洋服の本場欧米から学ぶことはたくさんあります。

さて、話は変わります。確かに日本でももうふだんの生活に洋服は欠かせなくなってしまったのですが、私たち日本には伝統の衣装、和服があります。本当は日本人の体型に最も合っていて日本人が着れば〝決まる〟のです。特に女性の和服は完成された美しさがあります。残念ながら活動的な現在の仕事で女性が使うには無理があります。黒川温泉の後藤哲也さんも和服は旅館の仕事に向かないので作務衣を制服に使っているといい、事実観光地の旅館や和風のレストランで作務衣を使うところは多くなっています(これも和装ですが)。しかし日本でもできるだけTPOで和服も着ればいいと思います。最近どこでも古民家の街並みが残るような観光地ではレンタル衣装が流行っています。私の伊勢でも数軒のレンタル衣装があって割と人気です。私の職場もテナントですがやっています。古民家の街並みに和服は絶対絵になります。それと訪れる外国人観光客に日本文化を発信することにもつながっています。


今回も大変長くなってしまいました。黒川温泉のことから離れることも多くなってしまって、焦点が呆けてしまっているかもしれません。そして次回のシリーズ5回目が本当の最終回となります。今回シリーズ第4回は少し長くかかりすぎました。最終回は何とか1ヶ月以内で投稿たいと思います。

🔶《第9回》私の『137億年の物語』

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   前回のテーマが「恐竜戦争」で、私の解説・コメントでは、特にティラノサウルスを中心に紹介するという内容でした。そして、今回は上の表題がテーマです。恐竜とミツバチでは、あまりに話しの対象が違いすぎて拍子抜けかもしれません。しかし、小さな昆虫のミツバチやアリ、シロアリなど、それらが生きている世界は、特筆すべき驚きの社会生活を営んでいます。そのことを中心に少し私のコメントを書きます。それから、この章で鳥について「鳥と恐竜は親類か」という内容の記述がありますが、そのことは前回私の解説で紹介したので、この章の解説としては省きます(「本文要約」で紹介)。

 

   さて、シダ類などの維管束植物が登場したのが今からおよそ4億2000万年前。それから植物の〝花〟が登場するまで約3億年を要します。そう、花は今から約1億3000万年前、〝突如出現〟と言っていいほどで、突然地上に登場し、急速に広がります。この地上での花の登場直後の急速な広がりには、甲虫やハチなどの昆虫の働きがあります。そうです、〝花〟の急速な地上での広がりは、花と昆虫(一部鳥も同じ役割を果たす)とのお互いの共同作業があったからこそといえます。

   植物の約8割は、次の子孫を〝たね〟として残し、種をつないでいく種子植物です。この種子をつくるためには、花の雄しべの花粉を雌しべに届ける受粉が必要です。その受粉を担ったのが昆虫(他にもハチドリのような鳥やコウモリも同じ役割を果たす)です。そして花は昆虫に来てもらうために、花の奥の蜜腺から蜜を出します。ミツバチなどの昆虫は、その蜜を求めて花から花へ移動を繰り返えす。ミツバチに着いた花粉は、同じ種の他の花の雌しべにしっかり届けるのです。もちろん植物にはこうした昆虫の力を借りないで行う受粉もあります。稲や麦のように、風の力を借りて受粉を行う植物です。こうした植物は、蜜腺から蜜を出す機能が退化してしまっています。

 

    さて、本書で紹介されている驚きの内容です。その一つがミツバチ社会のコミュニケーションです。ミツバチは、仲間にダンスでどこに食料(蜜を出す花)があるかを教える。ダンスの「円形ダンス」は、食料が巣から50m以内にあることを示す。そして「8の字ダンス」は、食料がある場所とそこまでの距離について、より詳しく伝えることができる。また、毎年春になると、ひとつの巣のハチの半分は、女王バチとともに古巣を離れ、新しい場所に巣を築く。そしてその新しい巣の設営場所を、驚くべきことに古巣を離れるミツバチたちの〝多数決〟で決めているのです。まずはじめに、群れのおよそ5%にあたるハチが候補地を探しに出かけ、巣に戻るとダンスでその場所を仲間に伝える。他のハチたちはその候補地のチェックに出かけ、気に入った場合は巣に戻ってから長く活発なダンスをする。2週間ほどそうしたことを繰り返し、最も活発なダンスが行われた候補地が新しい巣として選ばれるということです。

    「えっ、ミツバチがそんな行動をしていることが本当に分かるのか」って?  そうなんです。最初私もそう思いました。でも事実のようです。このミツバチのダンスコミュニケーションを発見した人は、そのことでノーベル賞をもらっているのです。その人とは、オーストラリアの動物行動学者の〝カール・フォン・フラッシュ(1982年没)〟で、ミツバチのダンスコミュニケーションの研究によって、1973年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

f:id:takeo1954:20170306074845j:image〈出典〉ウィキペディアフリー百科事典 「ミツバチ」 更新日時 2004.8.14

 

   さて、次はアリの話しです。下にある写真をご覧下さい。なんか葉っぱの破片が不自然に立っているように見えます。実はこの葉っぱ、アリがくわえて巣に運んでいるのです。巣に運んで何をするのかって?  巣の中でキノコ(アリタケ)を栽培するための材料(栄養分=肥料)なのです。もちろんそのキノコはアリの餌=食料となります。 

f:id:takeo1954:20170306075552j:image〈出典〉ウィキペディア フリー百科事典「ハキリアリ」更新日時 2016.9.1

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Leaf-cutter_Ants.jpg#mw-jump-to-license 

    今紹介したアリは、北アメリカ東南部から中南米熱帯雨林帯を中心とした地域で生息する〝ハキリアリ〟です。ハキリアリのやっていることは、正に農作業です。巣の中の畑に、せっせと森から集めた葉をキノコの肥料として敷きつめる。そしてキノコを育てて収穫し、食料として食べている。農作業など人間の専売特許かと思っていたら、そうではなかったのです。

 

   あるいはまた、アマゾンに住むサムライアリは、これも過去に存在した人間社会特有(と思っていた)の奴隷制度(現在の人間社会では、制度としての奴隷は存在しない。)を持っている。このアリは、自分たちで餌をとることも卵や幼虫の世話をしたり、女王の世話をすることもしない。全て拉致してきた他のアリに行なわせている。ふだんは外に出ることなく、巣の中で拉致してきたアリがとってきた食料を食べて生きているのです。外に出るのは「奴隷狩り」をするときと交尾のときだけです。サムライアリの働きアリは、奴隷狩りの戦闘に特殊化しているのです。それからサムライアリの新女王アリは別の巣を乗っ取ります。他のアリの女王アリを嚙み殺し、なんとその巣のアリに自分の世話をさせてしまうのです。これは、女王アリを嚙み殺すとき、皮膚表面の成分を舐め取ってその女王アリになりきってしまうからといわれています。

f:id:takeo1954:20170306161520j:image〈出典〉ウィキペディア  フリー百科事典「サムライアリ」更新日時2015.3.12   https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Polyergus_samurai_casent0173324_profile_1.jpg#mw-jump-to-license

 

   三つ目がシロアリの話しです。アリが「ハチ目」に属するのに対して、シロアリは「ゴキブリ目」に属していて、種の系統は異なります。しかし、このシロアリも驚異的な社会を形成しています。 先ずその巨大な巣です。その高さは2階建てバスほどのものがあります。ひとつの巣に数百万匹が棲んでいることもあり、その中はミクロ都市のようです。特殊なトンネルによって巣内の温度を調節する空調設備があり、雨水を貯めるシステム、さらにキノコの栽培室まであります。

   シロアリは、クロアリなどの敵に襲われたとき、優れた軍隊組織を組んで迎え討ちます。攻撃が始まると、前線を守る兵隊アリの後ろに予備隊が列をなし、前のアリが死ぬと後ろにいたものがすぐ前に出て欠員を埋める。敵が外壁に穴をあけると、兵隊アリがその穴の外に出て、小隊を組んで並んで毒液で敵を攻撃します。その間に他のシロアリが巣の内側から穴を埋めていく。そのため外に出た兵隊アリは退路を断たれて死ぬ。そうした多くの兵隊アリの尊い犠牲によって巣は全滅することなく、守られているのです。

写真⬇︎シロアリの巣=アリ塚(ソマリア

f:id:takeo1954:20170308054434j:image〈出典〉 ウィキペディア フリー百科事典「シロアリ」更新日時 2017.2.20

 

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 ⚫︎〝花〟の登場は意外に新しく、今から1億3000万年前ごろ出現する。それ以前の地層から花は発見されていない。


⚪️花と昆虫の共同作業
・花をつける草や木を「顕花植物」というが、人間が食べるものの75%以上は顕花植物に由来する。
・花は、草や木にとって繁殖を支える画期的な方法だったので、たちまち世界中に拡散した。その方法とは、おしべの花粉を花粉媒介者の助けを借りてめしべ(雌花)に届け、新たな遺伝子配列を持つ種子を作ることだ。花粉媒介者とは、甲虫、ハチ、ガやチヨウなど。花は花粉媒介者には蜜を与えた。
・花は、めしべの一部「子房」が「果実」となる。果実の中には頑丈な種子が隠れている。この果実をさまざまな動物に食べてもらう。そして消化されず、動物の糞と一緒にいたるところに排出される。
・その他にも種子を拡散する方法がある。風に飛ばされるもの(イネ科の植物や多くの木々)。水で運ばれるもの(ヤシもその一つで海を渡って他の島で繁殖する)。動物の毛について運ばれるものなど。


⚪️鳥と恐竜は親類か
※この章のテーマと少し離れるが、鳥が恐竜の子孫であることを紹介している。もちろん鳥も花粉媒介者の蜂鳥のような鳥もいるし、何より高い木々に成る果実の種子を広く拡散してくれるのが鳥だ。その鳥のルーツについての記述。
・1861年、ドイツ人の化石ハンター、ヘルマン・フォン・マイヤーは、1億4000万年ほど前の地層から「始祖鳥」と名付け、「最初の鳥(の化石)」を発見したと発表した。しかし、その始祖鳥は何から進化したか?という点は不明。
・1976年、アメリカの古生物学者、ジョン・オストロムは、始祖鳥と肉食恐竜であるデイノニクスの骨格が極めてよく似ていることから、「鳥類は恐竜の子孫である」と発表する。
・1990年代初頭、中国東北部遼寧省で、「恐竜版ポンペイ遺跡」が発見された。
1億3000万年ほど前の突然の噴火で、恐竜を含むさまざまな動物が、またたく間に火山灰で埋もれてしまう。そのため埋もれた動物(化石)の組織は、分解を免れた状態で発見される。1995年、中国の科学者たちは、羽毛の生えた恐竜がいたことを証明する化石を発掘した、と発表した。
・それらの恐竜は、保温のための羽毛だと見られている。


⚪️ミツバチの社会
・狩りバチ(スズメバチなどの肉食性のハチ)は、ジュラ紀(およそ2億年前から1億4500万年前まで)に、最初の恐竜とともに登場したが、白亜紀の初期、地球に花が咲くようになってから急速に進化する。狩りバチの多くは1匹だけで暮していたが、中には単純な社会生活を営むものもいた。一方、その狩りバチの子孫として花バチ(花粉や蜜を食べるミツバチ、マルハナバチなど)が現れた。
・ミツバチは高度に社会的な昆虫だ。ミツバチは、ダンスで互いにコミュニケーションをとることができる。円形ダンスは食料が巣から50m以内にあることを示す。「8の字ダンス」は、食料がある場所と距離についてよりくわしく伝えることができる。
・ミツバチは、毎年春になると一つの巣の半分は、女王バチとともに古巣を離れ、新しい場所に巣を築く。どこに巣を設営するるかを多数決で決めている。その方法とは、はじめに群れの5%にあたるハチが、いくつかの候補地を探しに出かけ、巣に戻るとダンスで仲間にその場所を伝える。他のハチたちはその候補地のチェックに出かけ、気に入った場合は、巣に戻ってから長く活発なダンスをする。2週間ほどそうしたことを繰り返し、最も活発なダンスが行われた候補地が新しい巣に選ばれる。


⚪️アリのチームワーク
・アリはハチ目に属する昆虫だ(1億2500万年ほど前に、ハチから進化したと推定されている)。アリの社会には、学校や奴隷制度のような仕組みがある。また、農作業をするアリもいる。
・アリは「フェロモン」と呼ばれる化学物質でコミュニケーションをとる。食料を見つけると、地面にフェロモンの匂いを残しながら巣に戻り、仲間に知らせる。危険な状況になったときにもフェロモンで仲間に知らせる。また、匂いで巣の中のグループを見分けることができる。
・若いアリがはじめて巣から出ていくときにには、年配のアリが食料の探し方と運び方を教えている。
・ハキリアリは農作業をするアリで、葉を集めて巣に運び、巣の中の畑で育てているキノコに肥料として与え、育ったキノコを収穫して食べている。
・アリの中には、他のアリの巣を襲撃し、奴隷として連行するものもいる。壮絶な戦いに勝つと、戦利品として卵や幼虫を持ち帰り、自分たちに使える奴隷に育て上げる。アマゾンに棲むサムライアリは、食料集めも卵や幼虫の世話も自分たちは一切やらず、拉致してきた奴隷アリに押しつけている。
・シロアリは、アリがハチ目に属するのに対し、ゴキブリ目に属するが、やはり社会性昆虫だ。ジュラ紀(およそ2億年前から1億4500万年前)に、最初の恐竜とともに進化し、白亜紀以降その数を増やしていく。シロアリが作る巣の壁は非常に頑丈で、2階建バスぐらいの高さになることもある。空調設備、雨水を貯めるシステム、さらにはキノコの栽培室まである。
・シロアリの兵隊アリは、天敵であるクロアリから巣を守っている。アリの攻撃がはじまると、前線を守る兵隊アリの後ろに予備隊が列をなし、前の兵隊アリが死ぬと、後ろの兵隊アリがすぐ前に出て欠員を埋める。多くの兵隊アリが戦いで死ぬ。その犠牲によって巣は守られている。

 

 

🔶《第8回》私の『137億年の物語』

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   恐竜の中で最強といわれているのは、ご存知のティラノサウルスです。恐竜の中だけでなく、地上に生きる動物の中で史上最強といわれています。体長は最大13m、体重は最大6t、噛む力=咬合力は最大8tにもなったといわれています。f:id:takeo1954:20170228053322p:image(2016.9.18 NHKスペシャル「完全解剖 ティラノサウルス…」より)

ちなみに現在生きる咬合力の強い動物と比較すると、ライオン0.4t、サメ0.6t、カバ1t、ナイルワニ2.2tなどとなっています。過去に存在した動物で、このシリーズの第5回で紹介した怪魚ダンクルオステウスが5.5tといわれています(ティラノサウルスの咬合力の数値など、本文のものと異なる。ウィキペディアティラノサウルス」など参照)。なので恐竜ティラノサウルスの噛む力は、過去の動物を含めて圧倒的な力を持っていて、正に史上最強です。また、視力や嗅覚に優れ、知能の点でも大変優れていたといわれています。

 

   昨年9月18日(日)にNHKで、NHKスペシャル「完全解剖 ティラノサウルス〜最強恐竜 進化の謎」が放映されました。ナビゲーター役で、ディーン・フジオカさんが出演した番組です。特に男性には興味をそそられるテーマだったので、ご覧になった方も多いと思います。その内容は、「ティラノサウルスの祖先は、今の中国辺りから当時陸続きだったアラスカを経由して、北米大陸に移動する。移動したときのティラノサウルスの祖先は、小型の恐竜だった。そして、行き着いた北米大陸f:id:takeo1954:20170228044407p:imagef:id:takeo1954:20170228044444p:imageで、動物界の頂点に君臨していたのは写真にある〝シアッツ〟で、体長は11mほどあり、ティラノサウルスの祖先が闘える相手ではなかった。それが数百万年の進化の中で、立場は逆転するようになる。頭部が大きく(1.5m)、横にも広がり、目の位置が変化したことで、視覚の遠近感を把握する能力が高まり、獲物を捕らえる能力が向上した。知能も高く、今のライオンのようにチームで獲物を捕らえる能力もあった。数頭が獲物を追う。他の数頭は逃げ道で待ち伏せして獲物を捕らえることが出来た。また、鳥とティラノサウルス(恐竜)の祖先は、共通のDNAの配列を持つ。それと中国でティラノサウルスの祖先(コエルロサウルス)の化石から羽毛のついた化石が発見さた。このことからティラノサウルスも羽毛で覆われていた(写真)」。と、このNHKスぺシャルでは説明している。f:id:takeo1954:20170228053143p:imagef:id:takeo1954:20170228053207p:imageこのシュミレーションによってグラフィック映像にされた写真を見ると、スティーヴン・スピルバーグ監督のジュラシック・パークで登場したティラノサウルスレックスの印象とまったく違っています。これからティラノサウルスなど、大半の恐竜の再現図は上の写真のようになるかもしれません。

   ただし、ティラノサウルスなどの恐竜が、成長して大人になってからも羽毛で覆われていたかどうかは諸説あって異論も多いようです。そんな訳で、ティラノサウルスの想像図は羽毛のあるもの、それから従来通りの羽毛のないものとの二つのパターンが存在し、しばらく使用するところによって異なる併用が続くのではと思います。

 

   ところで、このシリーズの前回第7回の投稿でも説明しましたが、ご存知ように今から6550万年前、メキシコ ユカタン半島沖に、直径10Kmの巨大隕石が衝突したことで、恐竜は絶滅してしまいます。ティラノサウルスのように、生態系の頂点に君臨していても、地球環境の激変が起こったときは、最も対応力の乏しい動物といえます。そういう点から見れば、バクテリアなどの微生物や菌類などの小さな生物が最も対応する力があるのかもしれません。それららは全地球上のいたるところに隈なく存在します。存在する場所も地中深くだったり、空中を漂ったりしています。巨大隕石の衝突で、相当数が死滅しても生き残るものははそれ以上で、確実に生命をつないでいます。爬虫類や哺乳類も、小型で環境に対応する能力のあるもののみが、命をつなぐことができたということになるのでしょう。

 

 

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ペルム紀の大量絶滅によって、地球上の生物の90%以上が消えた。その絶滅後の地球上で繁栄したのは菌類だった。この時代の地層の化石として残っているのは、ほとんどが菌類だ。哺乳類の祖先である単弓類で生き残ったのは、リストロサウルス一種だけだった。もしこの種も生き残らなかったなら、人類はこの世にいなかっただろう。
・リストロサウルスの系統のみが繁栄していたころ、まったく新しい爬虫類が登場した(単弓類からの進化ではなく、双弓類から進化)。それは恐竜だ。それまでの四肢動物のように、地上を這うように歩くのではなく、四肢が胴体の真下にあつたので、長い距離を早く移動することができた。それが恐竜の繁栄の大きな要因となる。恐竜の繁栄は他の陸上動物の衰退を招くことになる。


⚪️さまざまな恐竜たち
・ディプロドクスなど、最大級の恐竜の多くは竜脚類に属していた。それらは草食性で、四足歩行し、大きなものは体長が30m、体重が11トンにもなった。
・鳥脚類に属するヒプシロフォドンは、人間の腰に届くかという小さな恐竜だが、シカのように速く走ることができた。9000万年にわたつて繁栄したが、それを可能にしたのは逃げ足の速さだったのだろう。
・イグアノドンは、二足歩行と四足歩行のどちらも可能な恐竜だ。草食性で体長は成長すると10mほどになった。前あしの爪が鋭利な短剣のようで、防御する際はこの爪で撃退した。
・地球の陸地を歩いた最強の生物は、ティラノサウルス・レックス(Tレックス)だろう。2本足で歩き肉食。体長は12m、体重は現在のゾウほどもあった。アゴの力はライオンのアゴの8倍強かったと推定され、そのアゴで獲物の骨を噛み砕き、栄養豊かな骨髄まで食べていた。


⚪️社会生活を営んだ恐竜
・恐竜の大半は穏やかな草食動物で、地球上で初めて社会的集団を形成した。米国モンタナ州では、ある草食恐竜の1万頭に及ぶ群れの化石が発見されている。火山の有毒ガスを吸って倒れ、火山灰に埋もれて化石になったが、その化石は1.5Km以上にわたって連なっていた。
・現在恐竜の営巣地は世界で200ヵ所以上で見つかっている。恐竜の多くは、毎年同じ繁殖地に戻って卵を産み、子どもが成長するまで群れの中で育てた。


⚪️恐竜の大量絶滅
・6550万年前、白亜紀は終焉を迎え、新生代第三紀が始まっていた。そのころ恐竜には住みにくくなっていた。大気中の二酸化炭素濃度が上昇して温暖化が進み、加えて超大陸パンゲアが分裂していき、気候が変化していく。恐竜の生息地も分断、細分化されて、恐竜どうしが生息地を奪い合うようになった。その結果、恐竜全体が減少していった。
・そんなときに巨大隕石の衝突が起こる。直径10Kmの巨大隕石が、時速11万Kmの速度で地球に向かい、メキシコ、ユカタン半島の先端に衝突する。隕石は直径160Km超のクレーターを形成し、半径1000Km以内のすべてを破壊しつくした。衝突地点周辺では、激しい地震が起こり、高さ数十mを超える津波が、地球上の海岸線全域を襲った。また衝突地点の真下にあった有毒の硫黄の塵を、地球上に大量に撒き散らし、1年近く濃い刺激性のガスに覆われた。
・インドにある溶岩台地「デカン・トラップ」は、このときの巨大隕石の破片が衝突したことで巨大火山が連続して噴火し、溶岩が数百万平方Kmに広がったものといわれている。
・2億5200万年前のペルム紀の大量絶滅後、地球上で繁栄したのは菌類だったが、今回最初に繁栄したのはシダ類だった。
 

   次回第9回は、内容がガラッと変わって「花と鳥とミツバチ」です。

🔶《第7回》私の『137億年の物語』

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   この章は、石炭紀(3億5900万年前〜2億9900万年前)から、爬虫類が支配するペルム紀、そして2億5200万年前(2億5100万年前とする説などがある)の「ペルム紀の大量絶滅」までのことが内容です。とにかく「ペルム紀の大量絶滅」がすごい。想像を絶する事態が起こったのです。生命誕生から今日まで、地球上で大量絶滅といわれるものが5回起きています。それをビッグファイブとも呼んでいます。そして、その中でも最大級の大量絶滅がこの「ペルム紀の大量絶滅」でしょう。このシリーズの投稿で、第3回の「地球と生命体のチームワーク」の中でも、プレートの移動の説明の中で既に「ペルム紀の大量絶滅」のことについて触れました。生命がどのくらいの率で絶滅したかは、はるか昔のことなのでその推定は難しいでしょう。当然諸説あります。この本では全生物の96%が絶滅したと書かれています。ウィキペディア フリー百科事典では、海洋生物の96%、全生物の90%〜95%が絶滅した(ウィキペディア :「ペルム紀」2017年2月1日5:06更新)とあります。全生物のほとんどが絶滅するという驚きの数字です。しかし、このペルム紀後期の大量絶滅に至った凄まじい正に地獄の世界を知れば、「よくぞ数%の生物が残ってくれた」とも思ってしまいます。

 

   それでは改めてペルム紀末の地獄の世界を見てみましょう。シベリアン・トラップ(シベリア・トラップ)についてもシリーズ第3回目で紹介しましたが、改めてその規模や場所など、シベリアン・トラップの概要を見ていきましょう。

 f:id:takeo1954:20170210051406j:image〈出典〉ウィキペディア  フリー百科事典 「シベリア・トラップ」 更新日時  2016年 11月26日 7:30

 https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Extent_of_Siberian_traps-ru.svg#mw-jump-to-license

     上の地図で、黒い線で囲ったところがシベリアントラップといわれている場所になります。広大なのが分かります。ドイツ以西の西ヨーロッパに匹敵する面積です。この広大な土地に遥か昔に爆発的な噴火あり、その証拠となる溶岩が残っているのです。その大量の溶岩が噴出した場所は、シベリア大陸としておよそ5億年前から存在し、安定した基盤の大陸だったところです。なのでプレートの移動によって大陸が引き裂かれた場所に大量の溶岩が噴出したのではなく、もともとあった大陸を突き破って溶岩が噴出しているのです。その大陸を突き破ったもとになったのは、このシリーズ第3回で紹介したマントルのスーパープルーム(プリューム)だといわれています。もちろんこのスーパープルームの発生は、プレートの移動に伴う大陸同士の衝突が関係していると推測されます。

 

   プルームには、マントルが上向きに移動するホットプルームと下向きに移動するコールドプルームがあります。こちらもウィキペディアからの引用になりますが、「現在南太平洋の下は、スーパーホットプルームが存在し、大地溝帯グレート・リフト・バレー)が形成された原因であり、南太平洋に点在する火山の源であると考えられている。また、ホットプルームは外部マントルと内部マントルの境目の深さ670Kmの部分でいったん滞留した後に上昇するため、通常では地上へ激甚な影響を与えることはない。」。一方現在もユーラシア大陸の東、シベリア東部にあたる場所の地中深くのマントルには、下向きのスーパーコールドプルームがあります。「スーパーコールドプルームは周辺のプレートを吸い寄せるため、陸地を1か所に集めて超大陸を形成する原動力にもなる。」といいます。そのためその上にある陸地、シベリア大陸はプレートに比べて比重が軽いので、沈み込むプルームに対して浮いた状態になります。従って安定した陸塊、大陸になるといわれています。

 f:id:takeo1954:20170215052336j:image〈出典〉 ウィキペディア  フリー百科事典 「プルームテクトニクス」更新日時 2016年12月24日 13:49

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Lower_Mantle_Superplume.PNG#mw-jump-to-license

    しかし、スーパーコールドプルームによってプレートが吸いよせられて超大陸ができる。そして今度はスーパーホットプルームの甚大な力が強まり、超大陸が引き裂かれるプレートの動きが生まれる。シベリアントラップにつながったのはこの時だといわれています。通常ホットプルームマントルの上昇対流)は、一旦内部マントルと外部マントルの間に滞留しますが、この時は滞留することなくマントルの溶融したマグマが、マントル上部に到達し、本来安定した大陸塊であるシベリア大陸の地殻をも突き破って超巨大噴火が始まった。そんなプロセスをたどったと思われます。改めてその時のシベリアントラップが形成された噴火の規模です。第3回目の投稿で、「富士山の噴火の規模とは比較のしようがない」と書きましたが、その比較がこれもウィキペディアになりますが、その「ペルム紀」に「噴火した溶岩の量は、富士山の過去1万年間で噴火した溶岩の量の10万倍である」とあります。とにかく桁違いの超巨大噴火でした。そしてそれは地球環境を激変させました。

 

   大噴火は、先ず溶岩とともに有毒のガスと灰を噴出させます。そして噴煙(火山灰)は地球全体を覆い、昼も夜も区別出来ない暗黒の酷寒の世界が50年前後続く。やっと噴煙が収まると今度は噴火によって大量に放出された二酸化炭素温室効果のために気温と海水温を急上昇させます。海水温上昇は海底のメタンハイドレートを不安定にさせ、メタンガスを放出させ、更に二酸化炭素濃度を上げます。こうして地上も海中もほとんど無酸素状態になります。海中の無酸素状態は1000万年〜2000万年続いたといわれています。こんな状態では生物が生き残ることは絶望的だったことが分かります。「よくぞ数%の生物が生き残ってくれた」という気がします。この中の一つが私たちの祖先になるからです。

 

   ところで、この章の中に驚くべきことが書かれています。「2006年6月に、南極大陸東部の氷床の下に、直径約480Kmのクレーターが発見され(2億5100万年ほど前の衝突とされる)、巨大隕石の衝突も大量絶滅に関与したのではないかと考えられるようになった。」とあります。この次の章で登場する恐竜の大量絶滅につながった6550万年前にメキシコ、ユカタン半島先に残っている巨大隕石によって出来たクレーターの直径は160Km超とされています。だから南極大陸東部のクレーターの方が面積で数倍大きい。衝突した隕石の大きさを比較すると、6550万年前のものが直径10Km、ペルム紀のものは直径50Kmと推定されています。この直径で両方の体積を比較すると、ペルム紀に衝突した隕石は、恐竜絶滅の要因とされる隕石のざっと125倍です。当然破壊力も体積比と同じということになります。

 

    話しがまた変わりますが、今から13年前の2004年の4月から11月にかけ、NHKでNHKスペシャル「地球大進化〜46億年・人類への旅」という番組が、全6回で放映されました。俳優の山崎努さんがナビゲーターとして出演した番組で、視聴した方も多いと思います。その番組の第1回目で、40億年前に地球に直径約400Kmの巨大隕石が衝突したという科学者の説に基づいて、同じ規模の巨大隕石が「もし現在の地球に衝突したら」という内容で、衝突の場面を科学の専門家のシュミレーションで映像化し放映されました。衝突の場所は日本の南方1500Kmの太平洋の上です。その衝突のシーンの一部を写真ですが紹介します。

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【巨大隕石(直径400km)衝突の瞬間。衝突する直前の速度は時速7万2000Km】

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【このクラスの隕石の衝突では、津波ではなく、地球の地殻を巻き上げながら押し寄せてくる「地殻津波」となる。日本が呑み込まれる瞬間】

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【衝突の爆風で、地殻の破片(約1Km大)を地上数千Kmの宇宙に放出し、その後地球の引力で隕石となって落ちてくる。】

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【衝突地点(数千Km)の温度は太陽の表面温度とほぼ同じ4000〜6000度。この温度は地球の岩石を一気に気体(岩石蒸気)にして、地球全体に広がる。】

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【巨大隕石の衝突でできたクレーターの直径はおよそ4000Km。クレーター周辺は高さ7000mの山脈のようになる。】

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【高温の岩石蒸気が全て地球を覆い、海水は全て蒸発し、更に海底の岩石も溶けだすほどの高温で覆われる。】

 

    ペルム紀末、南極大陸東部に衝突した巨大隕石は、上で見た直径400Kmの隕石より小さいものの、6550万年前の恐竜を絶滅に至らせた巨大隕石の125倍の超巨大隕石です。同じように巨大な地殻津波を引き起こし、全地球を高温の岩石蒸気で覆ったでしょう。当然地球内部のマントルの奥深く到達し、甚大な衝突による衝撃圧力を与えます。同じ時期に丁度反対側のシベリアシベリアントラップとなる巨大噴火が起きています。ということは「シベリアントラップの巨大噴火は、この巨大隕石の衝突が引き起こした」。そんな気がします。詳しく分かりませんが、もうそんな仮説が発表されているかもしれません。

 

 

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⚫︎この章は、魚から陸上動物への途中形態の動物から爬虫類が支配するペルム紀、そして〝ペルム紀の大量絶滅〟までの内容。


⚪️陸に上がった魚
デボン紀後期の3億7500万年前、肉質のヒレを持つ魚と四肢動物の特徴を併せ持ったテイクターリクと呼ばれる動物(成長すると3メートルにもなった)が現れ生息した。
・さらに数百万年後イクチオステガという最初の真の四肢動物が登場した。もはや魚ではなくわれわれの遠い祖先になる。
・約3億4000万年前、イクチオステガから進化し、現両生類の祖先と見られる分椎目(ぶんついもく)が登場する。おとなのワニほどの大きさのものからイモリくらいの小さいものまでいて地上で繁栄する。生まれるとしかし、大陸が集まって巨大な超大陸が生まれると、産卵が水辺に限られた両生類にはさらなる繁栄は難しくなった。


⚪️人類の遠縁あらわる
・3億1500万年前ごろ両生類と違い、陸上で産卵できる爬虫類が登場する。最古の爬虫類はヒロノムスだ。その後哺乳類の祖先で人類の遠縁にあたる単弓類が出現する。頭部の左右に側頭窓という穴があり、その下にあるアゴを大きく開け、力強く咬むことができるようになった。
※側頭窓は耳にもつながっていく。
・単弓類で最も繁栄した種の一つは、ディメトロドンで、背中に大きな帆を持っていた。この帆は熱交換器の役割を果たし、他のどの動物より早く体温を上げることができた。ディメトロドンは、哺乳類の温血性を先取りしていたのだ。


⚪️ペルム紀末の大量絶滅
・今から2億5200万年前、地球上のあらゆる生物は劇的な終焉を迎える。〝ペルム紀の大量絶滅〟である。
・そのころには、すべての大陸は1カ所に集まって、超大陸パンゲア〟を形成していた。その他は〝パンサラッサ〟と呼ばれる広大な海洋が広がっていた。これによって海流は劇的に変化し、激しい季節風が襲い、暑く乾燥した時代が訪れた。
・巨大な大陸が衝突すると、火山の噴火が増え、超火山が出現する。その当時の超火山の証拠が今も残っている。シベリアン・トラップだ。この超火山は100万年以上にわたつて噴火し続けた。
・2006年に南極大陸東部の氷床の下に、直径約480Kmの巨大クレーターが発見された。パンゲア出現の時期に巨大隕石の衝突があったと考えられるようになった。そのため巨大隕石衝突と超火山の噴火の二つが生物の大量絶滅に影響したとされるようになっている。
・超火山の大噴火は、噴火当初猛毒の灰が吹き上げられ、スモッグとなり、全地球を暗黒の世界に陥れた。昼も夜もない酷寒の世界が50年続く。その後火山灰が収まると、今度は噴火により放出された大量の二酸化炭素によって、気温と海水温を上昇させ、海からは大量のメタンガスが噴き出し、更に地上の気温を上昇させた。その結果、地球上の生物の96%が絶滅したと見られている。

 

    次回第8回のテーマは「恐竜戦争」です。