🔶《第6回》私の『137億年の物語』

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   今回のテーマの年代は、前章とほとんど重複する4億年前から2億5200万年前の話しで、地球上の陸地で起こった出来事になります。

 

   この章でもいろいろな驚きがあります。その中から私が最も印象に残った驚きの出来事を三つほど紹介したいと思います。

 

   前回の章で、海や川で生きる動物のいくつかが、地上に進出するきっかけとなったのは、地上の酸素濃度の上昇であると書きました。実は、そのことが最も印象に残った中の一つです。現在私たちが生きている地球上の酸素濃度は21%です。それが3億5000万年前には、地球上の酸素濃度は35%まで上昇したといわれています。なぜ、そこまで地球上の酸素が上昇し、その後酸素濃度は現在の21%まで下がってしまったのか。

   酸素濃度は、海の中にいるシアノバクテリアなどの微生物や藻などの光合成によって、少しずつ大気の酸素濃度を増やしていきましたが、劇的に酸素濃度を増やしたのはやはり樹木の登場と繁殖範囲を地上の大半に広げていったからです。このころは地質時代区分で、石炭紀(3億5920万年前〜2億9900万年前)といわれているように、その地層から石炭が発掘される層です。そうです。その時代の木が化石化したものです。この化石の元になったのがリンボク(現在ある植物のリンボクと違い、高木になり、木の高さ40m、幹の太さ直径2m位になる)です。このリンボクは、いたるところにかなり密集して繁殖したといわれています。それと地上で極めてよく繁殖したのが、ヒカゲノカズラなどのシダ類です。これらの植物を中心に地上の広範囲に及ぶ繁殖が、一斉に光合成を行うことによって大気中の二酸化炭素を取り込み、水を分解して酸素をつくる。その結果酸素濃度もどんどん上昇していったのです。ちなみに、酸素濃度の上昇は、酸素と紫外線が反応してオゾン層も形成していく。これによって地上に届く紫外線の量が減少し、動物が生きていく条件が整えられていく訳です。また、酸素濃度の上昇は、巨大とんぼ(カモメほどの大きさがあった)などを出現させることにもなります。

   さて、35%まで(これ以上増えると風による木の枝どうしのこすれなど、自然現象で発火してしまうような状態になる)上昇した酸素濃度が、今度は何故減少に転じたのか。これもおもしろいですね。この世で進化しているのは、動物や植物だけでなく、微生物や菌類も同じで常に進化しています。この石炭紀の時代まで、地球上には木を腐食させる菌類=木材腐朽菌(白色腐朽菌、褐色腐朽菌など)が存在しなかった。石炭紀の後半の3億年ほど前から木材腐朽菌が登場して、樹木の細胞壁を強くしているリグニンを分解するようになる。そして、菌がリグニンを分解するときに、今度は酸素を多く必要とするようになります。腐らずに寿命を終えたリンボクなどが大量に地上に横たわっていたので、急速に木材腐朽菌が繁殖して木を腐らせる。それと同時に急速に今度は地球上の酸素濃度が減っていったというわけです。この木材腐朽菌の大半を占める白色腐朽菌、実は皆さんがよく知っているキノコ類で、椎茸、舞茸、えのき茸もその仲間です。

f:id:takeo1954:20170207052423j:image 〈出典〉ウィキペディア  フリー百科事典 「地球の大気」  更新日時   2017年1月23日  19:50

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Sauerstoffgehalt-1000mj2.png#mw-jump-to-license

 

    二つ目の驚きです。先ほどの一つ目のことと大いに関係することです。「ああ、そういうことだったのか」と納得したことでもあります。現在も石炭は、私たちの生きる社会の中で重要なエネルギー源、燃料として広く利用されています(現在は中国が世界の消費量のほぼ半分を占める)。石炭の埋蔵量は、今の消費量を続けても100年以上使えると試算されています。無煙炭などの高品位の石炭(炭素比率が高い)は、埋蔵量が少なくなっているようですが、褐炭などの低品位の石炭を含めると年々埋蔵量は増えているようです。これまで不思議に思っていたのは、人類がどうしてこんなに膨大な量の石炭を100年以上に渡って採掘し続けられ、これからもさらに長期に渡って採掘できるのか、という点でした。謎が解けました。高さ40m、幹の太さ直径2mもあるようなリンボクが寿命が尽きて地上に倒れる。石炭紀の時代には、まだ木材腐朽菌が存在しないので、1万年、10万年経ってもリンボクは腐らず、昨日倒れたばかりのような状態でうず高く積み重なっていった。そして数千万年、数億年の長い時間の経過の中で、堆積物で覆われ、プレートの移動で地殻がマントル内に入り込む影響で地中深くに押し込められていく。そして、長期に渡る地熱と地下深くにとどまることによる甚大な圧力がかかる。そんな状態が数億年続くことで、膨大な量の石炭が作られた、ということになります。逆に、現在大量の樹木を切り倒して積み上げ、そのままの状態で数億年置いたままにしていたら石炭に変化するか、といったらもうお分かりと思います。木材を切り倒してそのまま野ざらしの状態で、数十年、数百年、野外に置いておいたら木材腐朽菌が木のリグニンを分解し、その後をバクテリアが無機化してしまう。ほとんど腐葉土のように土化してしまうのです。

 

   そして三つ目の驚きです。この世の中で最も巨大な生物は何か知っていますか? もちろん動物ならシロナガスクジラでしょう。でも動物だけではなくて、植物などこの世に生きている生物すべてが対象です。アメリカ合衆国西海岸の高さ80mを超す巨木=ジャイアント・セコイアか?  違います。答えは菌類、きのこです。きのこは、単独で生きているのではなく、白い菌床でつながっています。目に見えるきのこは、植物でいえば花や果実にあたります。きのこときのこをつなぐ菌床は、植物、樹木でいえば幹や根にあたります。この本で紹介されているように、1998年にアメリカオレゴン州で総面積9平方Kmにおよぶオニナラタケの菌床が発見されました。推定重量600トン、およそ2400歳とみなされています。おそらく生物の寿命でも最長ではないでしょうか。

 

 

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⚪️最初に地上に現れた植物は、海藻やコケに似たどろどろしたものだった。それらはシアノバクテリアの子孫で、海や河や小川のすぐそばにへばりついて生きていた。その後ほぼ同じ場所でスギゴケ、ゼニゴケ、ツノゴケなどしっかりした根や葉がなく、水辺の近くでのみ繁殖する植物の時代をへて、4億2000万年ほど前に内部に菅をもつ「維管束植物」が現れた。

 

⚪️木と葉という発明
・樹木の祖先である維管束植物は、イギリスのライニーで完璧な形の化石が見つかる。化石の調査から、維管束植物はリグニンという細胞壁を強くする物質を持っていた。そのため雑草と違い干ばつのときも直立したまま生きのびることができた。
石炭紀(3億5900万年前)になると、維管束植物の子孫ヒカゲノカズラ類が大繁殖する。その仲間レピドデンドロンは幹の太さ直径2メートル、12階建のビルに相当する高さを誇った。これらの樹木のおかげで、それから数億年の時を経て、人類は石炭という化石燃料を使って産業革命を起こし、今も不可欠なエネルギー源として使われている。
・2億7000万年前からから、樹木は主役が入れ替わっていく。新たな主役は〝真葉植物〟だ。大きな葉を持つことで、光合成がより効率的に行われるように進化していった。


⚪️菌類との共生関係
・木と菌類は密接な共生関係にある。枯れ葉や死んだ生物を発酵によって分解し、木が栄養として吸収できる物質に転換している。また菌類は木が光合成によって作られた糖分をもらっている。
・菌類のほとんどは地下に暮らしている。それらは菌糸とよばれる糸でつながって、菌糸体という塊を形成している。菌糸体は超巨大になることがある。1998年に、アメリカのオレゴン州で発見されたオニナラタケの菌床は、総面積が9平方Kmにおよび、推定重量600トン、およそ2400歳と見なされている。現在、顕花植物の80%が地中の菌類と共生関係にあるといわれている。


⚪️蒸散作用と種子の登場
・木は、高いところまで水を届けなければならない。気圧の力では10メートルが限界だ。それを解決したのが浸透圧差を利用した蒸散作用。木の葉の気孔は環境条件によって開閉し、必要に応じて水分を蒸発させる。水分が失われると樹液の濃度が高くなるので浸透圧差が生じて幹から水分が吸い上げられるのだ。
・木も最初は菌類と同様に子孫を残すため、胞子を風で飛ばしていた。これだと胞子が湿気のあるところに落ちないと発芽できない。これを解決したのが種子だ。最初に種子を作り出したのはソテツで、その起源は2億7000万年前にさかのぼる。更に木は有性生殖という方法を身につけるようになる。


⚪️昆虫の登場
・3億5000万年ほど前の石炭紀には、豊かな森林によって、地球上の酸素濃度35%にまで上昇したとみられている(現在は21%)。この高い酸素濃度が海から地上に生きる生物を増やしていき、生物の体を大きくしていくことにもつながった。昆虫の出現もそのころだ。その一つトンボは現在のカモメほどの大きさがのものもあり、空を支配した。さらにトンボとは別の甲虫は、ソテツの雄花の花粉を身にまとい、雌花まで運んで受粉させる有性生殖に関わることになった。

 

⚪️生物が土をつくる
・ミミズや菌類、そして甲虫をはじめとする昆虫は、地上の生物を支える貴重な資源である土壌を整えてくれる。落ちた葉や腐った木などをリサイクルして養分に変える。生物の存在が畑で野菜を育ててくれる柔らかい黒褐色の土をつくる。また土は風、水、氷、プレートの移動によって数百万年単位で作り変えられている。

 

   次回は、陸上に上がって繁栄し始めた動物たちと突如襲ったペルム紀の大量絶滅が主な内容となります。タイトルは「進化の実験場」です。

🔶《第5回》私の『137億年の物語』

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   しばらくブログ投稿を休んでいましたが、再開します。『137億年の物語』の5回目からまた続けます。

 

  この章は、今から約5億年前のカンブリア紀から約3億6000万年前のデボン紀の間に栄えた代表的な海の中に生きた生物の紹介になります。

 

   この時期の地球は、陸上では本格的な動物は現れていません。今から4億2000万年ほど前に最初期の植物やコケ類が登場し、ミミズのような小さな生き物が海から移り住みます。それから数千万年ほど経てから甲虫のような昆虫が登場するようになる。そんな時代です。陸上の本格的な動物、イクチオステガが登場するのは、デボン紀後期の3億6000万年ほど前のこと。そうです、この時代の生き物は、海の中の動物が全盛で主役です。今も海の中で生きているサンゴやクラゲ、サメは、この時代に登場します。また、アンモナイトや板皮類、ウミサソリなど絶滅した動物も多くいます。この時代、動物は海の中で多様に進化していきます。

 

   さて、この時代の海の中、かなり危険がいっぱいのところになっていたと思います。さまざまな種類のサメが登場します。そしてそのサメをも一噛みにして捕食してしまう板皮類がいました。その中のダンクルオステウスは、体長が最大10mもあったといい、正に海の生態系ピラミッドの頂点に君臨していました。また、体長は2mを超え、尾の先に毒針を持つウミサソリも海の中を回遊したり、海底を歩いたりしている。多くの海に生きる動物が身を潜め、細心の注意を払って生きてる。そんな世界がこの時代の海の中の世界だった。おそらく今の時代より海の中や川の中は、はるかに危険な場所だったと想像します。

 

    この海や川の水中の危険から逃れようとしたことが、もともと海の動物だったものが陸上に上がろうとした要因のような気がします。もちろん、別の大きな要因もありました。シアノバクテリアなど、数十億年に渡る微生物による光合成や、陸上にシダ類などの植物が登場し、さらにその後は高木のリンボクなどが繁殖していく。その結果地上の酸素濃度をどんどん高めていくことになります。そのことが海の動物のいくつかが、地上に上陸する大きなきっかけとなりました。そのあたりの地上の変化、様子については次回紹介します。

 

                    ダンクルオステウスの頭骨⬇︎

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〈出典〉ウィキペディア  フリー百科事典

               更新日時   2016年11月29日 01:02

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Dunkleosteus.jpg#mw-jump-to-license 

 

 

 

 

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 ※今から約5億年前のカンブリア紀から約3億6000万年前のデボン紀の間に栄えた代表的な海の中に生きた生物の紹介。生物が地上にあらわれる以前、生物は海の中でさまざまに進化が進み、多様で大量の生物が繁栄する。その進化とは殻、骨、歯の発達、脊椎動物、四肢動物の登場などだ。そうした進化こそが生物の地上への登場を可能にした。


⚪️海綿動物
カンブリア紀の海洋生物の中でも最も単純な動物のひとつで、今日でも約5000種類が確認されている。この生物は海の底の岩にくっついて暮らす。


⚪️サンゴ類
サンゴ礁は、小さな海洋生物(サンゴ虫)が祖先の死骸の上に住まいを築きながら何十万年もかけて作ったもの。現在世界最大のサンゴ礁はオーストラリア北東沖のグレート・バリア・リーフで南北2000キロ以上におよぶ。今日海洋生物のおよそ30%がこのサンゴ礁に生きている。そしてカンブリア紀の海もサンゴ礁が豊富にあり、グレート・バリア・リーフ同様多くの生命で満ちあふれていた。


⚪️クラゲ
クラゲはサンゴ虫と同じ刺胞動物門に属し、海綿同様原始的な生物だ。カンブリア紀にはどこにでもいた一般的な生物で、中にはライオンに匹敵する攻撃力を持つものもいた。クラゲは集団で狩りをする。クラゲは史上はじめて組織の分化が生じた生物のひとつだ。


⚪️アンモナイト
アンモナイトは約4億年前のデボン紀に登場した。巻貝に似ているが、最も近い仲間は頭足類のタコやイカである。堅い殻は、鋭い歯を持つ捕食者から身を守る防具の役目を果たした。ドイツで発見された大きなものは、直径が2m近くもある。6550万年前恐竜が絶滅したときに絶滅した。

 

⚪️ホヤ類
大きな袋のようなホヤは、海底に体を固定し、大量の海水を吸い込んで、食料を濾し取っている。ホヤの赤ちゃんはオタマジャクシのように水中を泳ぎまわる。推力をもたらすその特殊な尾には、脊索と呼ばれる原始的な背骨がある。ホヤの子孫は、この脊索を脊椎に進化させた。神経索や脊椎を持つあらゆる動物は、脊索動物門と呼ばれるグループに属し、魚、両性類、爬虫類、鳥類、哺乳類が含まれる。ホヤの赤ちゃんは、人類の最も古い祖先である。


⚪️板皮類
先史時代の海にいた恐ろしい生物の代表格でアゴと歯を持つ最初の魚。史上最強の噛む力を持つ種がいたことがわかっている。大きなものは体長10メートル、体重が4トン以上にもなり、まさに重戦車のようだった。ペルム紀後期(2億5200万年まえ)の大量絶滅で姿を消した。


⚪️ウミサソリ
毒針が仕込まれた尾を持つウミサソリは、体長2メートル以上になることもあり、先史時代の海に生息する最も危険な生物のひとつだった。節足動物門に属す。昆虫、クモ、甲殻類は皆この門に属し、三葉虫もこの門に含まれる。ウミサソリペルム紀末の大量絶滅で姿を消した。


⚪️カマス
カマスの先祖は、二つの優れた特徴を発達させて繁栄した。一つは浮袋を進化させ、水中で静止できる仕組みを持つ。もう一つは浮袋を使って聴覚を発達ささせたことだ。


⚪️肺魚
肺魚の祖先は、エラを原始的なな呼吸器官に改造して、海から陸へ逃れる道を築いた。2億年前の肺魚の化石も見つかっていて生きた化石と言われている。地上での空気呼吸とエラを進化させて地上を歩くこともできて海から陸へ上がる道を開いた。

 

🔶《第4回》私の『137億年の物語』

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   この章は「化石という手がかり」というテーマになっています。今から70年ほど前、オーストラリア人地質学者スプリッグが古い地層を調査中に奇妙な化石を発見します。それは世界最古の化石群で、今から6億3500万年前から9300万年に渡って続いた「エディアカラ紀」のものでした。ちなみにエディアカラ紀は発見したオーストラリアの地名エディアカラから命名されています。その化石が発見されたことで、太古の昔に実際に地球上で生きた生物のことが分かるようになりました。もちろん第2章でも紹介したように、30億年も前から地球上に生物はいました。しかし、それらはすべて化石として残らない微生物ばかりでした。

 

   それにしても微生物の誕生から骨や殻のある生物の誕生まで20数億年以上という恐ろしく長い時間がかかっています。しかし、この20数億年の間に生物は画期的な進化を遂げていくのです。最初に生まれた微生物は、天然に浮遊する無生物の有機物を捕食し、それを栄養源としていました。そしてあるとき栄養源としてもっと効率の良い方法を学びます。そう、同じ生物の微生物を捕食して栄養源とすることです。この辺の下りはすでにテーマ2で紹介しましたが、改めて復習してみましょう。

 

⚫︎単細胞生物から多細胞生物誕生
・活発な単細胞バクテリアは、自分より大きな単細胞バクテリアの体内に入り込み、「細胞内共生」という協力関係が生まれる。
※小さなほうは大きいほうの廃棄物を食べ、大きなほうは小さなほうの呼吸で生じたエネルギーを活用する関係。
・共生するようになった単細胞バクテリア(真核生物)の体内でさまざまな機能が発達する。「ミトコンドリア」と呼ばれる細胞内の器官は、食料をエネルギーに変える役割を果たすようになった。「葉緑体」と呼ばれる器官は、有毒廃棄物の処理を担うようになる。その中から自分と同じ細胞を作るのに必要なあらゆる情報を保管する遺伝子(「デオキシリボ核酸」=DNA)が生まれる。
・簡単に豊富なエネルギーを得るために活動的なバクテリアは、生きているバクテリアを丸ごと飲み込むようになる。ここから捕食者と被捕食者の関係が生まれ、発展し、急速に進化していく。
・そうした進化の過程の中で、単細胞生物が結合して、地球初の多細胞生物が誕生した。そのいくつかが今日の動物となり、別のいくつかは植物になった。

 

   そうなんです。単細胞微生物の遺伝子DNAは、元は単細胞微生物に入り込んだシアノバクテリアなど小型の微生物です。大きな細胞の中に入り込んでその細胞の栄養源を餌とするつもりが、いつしかその細胞と一体化して司令塔となるわけです。細胞内のミトコンドリア葉緑体も元は別の単細胞微生物だったものです。それが別の細胞の中でその細胞と一体化し、より完璧に細胞を機能させていく。1単細胞微生物といってもそのDNAの仕組みは超高性能で、存在そのものが神秘であり、驚異であり、人知を超越しているように思えます。この20数億年の時間の経過の中で、エディアカラ紀以降の目に見える生命(化石として残っている)の飛躍的進化を推進するための準備、細胞の高性能化の蓄積期間のようでもあります。

 

   もう一つ、生物の進化にとって極めて重大な出来事がありました。それは〝有性生殖〟です。これも偶然他のバクテリアに食べらた同じバクテリアが、捕食者の核の中に入り込んだことがきっかけです。そしてDNAの2本の二重らせん構造が生まれます。生物はこの有性生殖によって急速に複雑化し、多細胞生物へと進化していきます。もしバクテリアが他のバクテリアの核に入り込んで、DNAの二重らせん構造をつくるという偶然がなければ、地球上の生物はいまだに細胞分裂によってのみ増えた微生物のみの世界がいまだに続いていたことでしょう。動物どころか植物も存在しないのです。肉眼で目にできる生物は全くいない世界です。そうした微生物の進化のプロセスを考えてみると、改めて長い長い太古の昔の出来事に畏敬の念を抱いてしまいます。

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(出典)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:DickinsoniaCostata.jpg#mw-jump-to-license

  

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 ⚫︎およそ10億年前まで地球に存在する生命体はわずか2種類だった。ひとつは最初に登場した単細胞のバクテリアで、メタンと酸素を老廃物として放出した。もうひとつは、比較的新しい時代に単細胞生物が融合して生まれた多細胞生物(真核生物)で、大気中に増えつつあった酸素をエネルギー源にした。生命が誕生してからおよそ20億年経ってまだ2種類の生命体という状態にあった。
⚫︎10億年前以降から多細胞生物は、重大な変化が起きる。「有性生殖」である。親のクローンとして複製を繰り返してきた単細胞生物と違い、「有性生殖」では子は常に独自の遺伝子コードを持って生まれる。その結果生物の多様化に拍車がかかった。
⚫︎目に見えないバクテリアだった生物は多細胞生物に進化し、6億3500万年前には化石の痕跡として残るような大小さまざまな生物が生まれていた。。こうした生物が主流となる時代が9300万年わたって続いた。この時代を発見された地名にちなんで「エディアカラ(オーストラリア)紀」という。
⚫︎カンブリア爆発
エディアカラ紀の後、5億4200万年前から4億8800万年前までの5400万年を「カンブリア紀」といい、生物が骨、殻、歯のあるものに進化したことで化石として残るようになり、飛躍的に生物数を増やすことになった。

 

   年内の投稿はこれが最後になります。1月は仕事で忙しくなるのでブログ投稿は休みます。2月から再スタートします。

  

🔶《第3回》私の『137億年の物語』

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   この章のテーマもこの前のテーマ1と2に劣らず驚愕の内容になります。その驚愕の内容とは〝プレート・テクニクス〟です。私の中の世の中の不思議・驚愕ベスト3の3つ目がこの章で紹介されているプレート・テクニクスとテーマ7で紹介されているプレート・テクニクスがもたらした地球の大激変(生物の大量絶滅を含む)といってかまいません。ビックバンと生命の誕生、そしてこのプレート・テクニクスと地球の大激変が137億年の物語の中でもやはりそのスケールという点で他を圧倒しているのです。「ではもうその後の章、テーマはたいしたことはないのか」って?  いやいやそんなことはありません。この本の最後まで未知との出会い、驚きの連続でワクワク、ハラハラさせてくれます。

 

   さて話しを戻します。地球の表面を覆う地殻が動いているという現象、高校の地学の時間に聞いたことがあると思います。また、地球は2億5000万年ほど前には〝パンゲア〟という一つの巨大な大陸だったということも聞いたことがあるでしょう。その大陸など地球の表面を覆う地殻が動いてるという事実を聞いて驚かされた記憶があるかもしれません。私も同様です。そしてこの本を読んで新ためて驚かされたのは、パンゲアのような超大陸はそれ以前にもあって、ちゃんと名前とその時期まで推定されているということです。ということは地球は誕生して地殻という構造ができて以降その地殻はずっと動き続けてきたということです。正確には地殻と更にその下のマントルの上層部(地表から約150Kmまでのマントル。それ以深のマントル流動性を持つようになる。)を含めた部分をプレートといい、マントルが動くことによってその上に乗っているプレートが動いているということです。

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   それでは新ためてこの地球内部の構造について学習してみましょう。地球内部の大まかな構造は、内部から内核、外殻、マントル、地殻の四構造になっています。私たちの立っている大地を含むプレートが動くということは、その下のマントルが更にその下の外殻の高熱によって対流(マントル対流)しているために起る現象です。マントルは地殻とは成分は違いますが、地殻と同じ岩石で個体です。「えっ!個体の岩石が動くのか?」って思うでしょう。そうなんです。プレート面より下のマントル流動性をもっているのです。例えば氷河が個体なのに重力の影響で毎年数センチずつ動くのと同じです。地球内部の外殻(鉄合金で液状)の高温の影響でマントル内が対流しマントル表層が動く。それによってそこに接するプレートが毎年数センチずつ動くのです。ところで地殻は場所によって厚さが異なります。そう、海洋の場合は厚さが6〜7Km、大陸の場合は最大で60〜70Kmと10倍の差があります。数億年単位では、プレートの動きによってこの大陸同士がぶつかり合います。そしてより多くのプレートがマントル内に沈み込む。そうすると地球内部のマントルに甚大な圧力がかかります。これによってマントル内の対流(プルーム)も大きく影響され、マントル内に上向きのスーパープルームが発生すると考えられます。今も残る巨大な溶岩の塊であるシベリア・トラップ。これは今から約2億5000万年ほど前の巨大噴火によって地上に噴出したものとされています。火口の大きさは長いところで直径約1000Km。丁度東京から北海道北部までが火口の長さになります。過去の富士山の噴火や浅間山の大噴火など比較のしようのない規模です。そのシベリアン・トラップのもととなった火山はなんと100万年続いたと言われています。その他にこの時期に巨大隕石あったという説もあります。いずれにしてもその後「ペルム紀の大量絶滅」といわれる大激変が起こります。全生物の96%が死滅するのです。この辺の下りはテーマ7の〝ペルム紀末の大量絶滅〟で改めて紹介しましょう。

   それから地球の内部構造といってもそのほとんどは地震波の観測結果の分析に基づく仮説です。人類はまだ掘削技術でマントルまで到達していません。いずれ人類はマントルまで掘削して新たな事実が発見されていくでしょう。

  

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 ⚫︎最初に登場したメカニズムは「水循環システム」だ。雲になって雨を降らせるという自然の淡水供給システムである。これには今から37億年前から20億年前にかけ地球と生命体の協力関係が自然のシステムとして出来上がっていく。雨は雲が降らせる。その雲は水蒸気が集まった「雲粒」の集合体。そして水蒸気が雲粒になるのに原始バクテリアが吐き出したガスの粒子が要因となっている。この雲による雨によって水を巡回させ、地球を適温に保たれている。
⚫︎海の塩は、地上に降り注いだ雨が岩石に含まれるミネラルを溶かし、それが川から海へ流れ込んだものである。地球と自然は海中の塩分濃度を保つための協力関係を発達させた。海水を潟に閉じ込め、海水が太陽の熱で蒸発すると塩が地表に堆積するこのプロセスによって、塩分が海水から取り除かれている。
⚫︎プレートは、数十億年にわたって、マントルと呼ばれる液状の岩石(流動性のある固体)の上に浮かんで移動しつづけている(プレート・テクトニクス)。プレートを動かしているのは、地球の核のとてつもない熱である。そのプレートの移動が、大陸の分離と大陸のぶつかり合いを繰り返してきた。これまで少なくとも3回超大陸が生まれている。こうしたプレートの移動は、火山の噴火を引き起こして温室効果ガスを発生させ、地球が暖められ、地球の生命は新たな段階に進む。地殻変動のサイクルは地球の表面をかきまわし、気候を変動させ、不要な塩分とミネラルを地中に封じ込め、超大陸を作っては壊した。これが地球の生命維持プロセスで、大気の組成から地球の温度、海水の塩分濃度まであらゆることをコントロールして生命の進化を支えてきた。
◆最初の超大陸(15億年前)・コロンビア

   2回目 〃 (8.5〜6.3億年前)・パロディニア

   3回目 〃 (2.5億年前)・パンゲア

   ※ただし、この章で紹介されているのは上の二つの超大陸コロンビアとパロディニアのみ。

 

    次回は、テーマ4「化石という手がかり」です。年内に投稿できない場合は、仕事の関係で1月が繁忙期になるためブログ投稿作業をしばらく休みます。

 

   

🔶《第2回》私の『137億年の物語』

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   今回第2回目の テーマも第1回目のテーマに劣らずこの世にある最大級の不思議の一つです。この本を読んでいくと『えっ、そんなことがあったのか!』とか『なるほど、そういうことだったのか!』という驚きがたくさんあります。この本はそんな驚きの連続、未知との出会いの連続です。そんな中でも前回と今回のテーマは私にとって最大の不思議(驚きを含む)ベスト3の一つといえます。人類の誕生より何よりその人類誕生の一番最初の大本(おおもと)となる単細胞生物、すなわち先ず最初に生命誕生という正に神がかりな奇跡が起こったこということです。今から30億年ほど前の地球上の海中で、突然無生物が司令を出して他の無生物を自分の中に取り込むことを始めた。そう、この世の最大の不可解はそこです。何故無生物が突然無生物を取り込み、それを栄養として活用を始めたのか、生命体すなわち単細胞生物に進化したのかです。そこがどう考えても理解不能です。

 

   本書で紹介しているように1953年、シカゴ大学のハロルド・ユーリー教授の教え子スタンリー・ミラー(後に教授)は、大学の実験室で初期の地球に存在したと思われる物質、水素、メタン、アンモニアなどの気体と沸騰した蒸気を注入、そこに強力な電流を流して火花を散らす。原始地球の大気を再現する実験から生命のもととなる有機物アミノ酸を造ることに成功するのです。しかし残念ながらそこまでです。その後人類は現在に至るまで誰一人そこから生命誕生を成功させた人はいません。科学的にさまざまな仮説がありますが、実験でアミノ酸から生命誕生のプロセスを検証した人はいないのです。そのため今も科学を専門にする人の中でも「生命誕生は人間の理解を超越している。神の力があったのだ」という人がいます。神を持ち出す気持ちも分からない訳てはありませんが、それではこの生命誕生の問題は思考停止ということになってしまいます。また、「生命は宇宙から来た」という説をとる科学者もいます。確かに宇宙の彗星の中にアミノ酸などの有機物が存在していて、それが軌道を外れ地球に衝突して生命の材料となる有機物が地上にばら撒かれたという可能性はあるでしょう。いや、可能性でなく隕石や彗星などの衝突でアミノ酸などの有機物がもたらされた、あるいは衝突の際に有機物が出来上がったという説が有力になっています。しかし、「生命そのものが宇宙から来た」という説になると話しはまた振り出しに戻ってしまいます。そう、今度は地球にやって来た生物はその生物が存在した星で、いったいどういうプロセスで生命を誕生させたのかという疑問に変わるだけです。ビックバンによる宇宙誕生は爆発後最初に粒子が、そして原子に、さらに分子、高分子へと変化していったプロセスは宇宙のどの場所でも共通なはずです。ビックバンと同時に生命が誕生することなどあり得ないからです。

   ただこの本で紹介されているスタンリー・ミラー氏の実験や初期の単細胞バクテリアなどについての説明を読む中で、自分なりに地球の太古の時代に生命が誕生したころの様子をそれとなく空想してみることはできるでしよう。

 

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   今から30億年以上前の地球上で海ができてから数億年の経過の中で、隕石や彗星の衝突、そして紫外線や落雷などさまざまな自然現象を受けながら海中の物質は単純な分子から低分子有機物に、そしてさまざまな高分子有機物が生まれる。そうした経過の中でそれらは互いにくっついたりしながらアメーバのような形状になって海を漂い、太古の海の入江などに大量の高分子有機物が集まる。そして生体内で行なわれる代謝に近い形にのものが自然界で化学反応として始まり、それが更に進化していきやがてエネルギーを生む。そのエネルギーは高分子有機物の集合体を取り込み、膜をつくる。その結果が単細胞生物の誕生になるつながっていく……。

    このあたりが私の妄想の限界です。ただこれからもこのテーマに関心を持って妄想のレベルを高めたいと思います。

 

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 ⚫︎今日まで、アミノ酸を人工的に創り出すことはできたが、化学物質から生きている細胞を創り出せた人はいない。生命誕生も宇宙誕生同様仮説である。
⚫︎生きている細胞の不思議なところは、繁殖できることだ。ウィルスやバクテリアをはじめ、単細胞生物は通常、自分の完全な 複製をつくる(ときおりシステムにエラーが発生して、変異が生じることもある)。増殖能力があるからこそ生命体はこの宇宙に存在するものの中で特別な存在。
⚫︎海の底で生まれた生物
・2種類の生物が海から生まれる。

➀メタン生成細菌
・深い海底で進化したため、太陽風の致命的影響を逃れることができた。ブラックスモーカーと呼ばれる、海底で刺激性の熱水を噴き出している煙突のような噴出口の近くで繁殖し、食料となる化学物質と温かさを得ている。
➁シアノバクテリア藍藻
・食料不足の折に起きた突然変異から進化したものと思われる。まったく新しいエネルギー源「光合成」だ。日光を使って二酸化炭素と水とを分解し、酸素とエネルギーに変換するようになる。

⚫︎シアノバクテリアによる光合成によって地球の大気は変わっていった。数十億年にわたって光合成をするうちに空気中に大気が蓄積されていった。このことにより生物の進化は、次の段階にすすんでいった。
⚫︎およそ20億年前、もうひとつの突然変異が起きた。単細胞バクテリアは呼吸するようになり、酸素豊かな大気の中で暮らせるようになった。酸素はATP(アデノシン三リン酸)というエネルギーをたっぷり含む物質をつくり出せる。そのため酸素呼吸するようになった生物は、他の方法で得るより最大10倍ものエネルギーを得られるようになった。
⚫︎単細胞生物から多細胞生物誕生
・活発な単細胞バクテリアは、自分より大きな単細胞バクテリアの体内に入り込み、「細胞内共生」という協力関係が生まれる。

※小さなほうは大きいほうの廃棄物を食べ、大きなほうは小さなほうの呼吸で生じたエネルギーを活用する関係。
・共生するようになった単細胞バクテリア(真核生物)の体内でさまざまな機能が発達する。「ミトコンドリア」と呼ばれる細胞内の器官は、食料をエネルギーに変える役割を果たすようになった。「葉緑体」と呼ばれる器官は、有毒廃棄物の処理を担うようになった。その中から自分と同じ細胞を作るのに必要なあらゆる情報を保管する遺伝子(「デオキシリボ核酸」=DNA)が生まれる。
・簡単に豊富なエネルギーを得るために活動的なバクテリアは、生きているバクテリアを丸ごと飲み込むようになる。ここから捕食者と被捕食者の関係が生まれ、発展し、急速に進化していく。

・そうした進化の過程の中で、単細胞生物が結合して、地球初の多細胞生物が誕生した。そのいくつかが今日の動物となり、別のいくつかは植物になった。

 

 次回テーマ3は「地球と生命体のチームワーク」です。   

 

 

 

   

  

🔶《第1回》私の『137億年の物語』

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    愛読書「137億年の物語」を私の要約版で紹介します。現在シリーズで「♨️黒川温泉に学ぼう」をブログ投稿中で、シリーズ最終回予定の投稿の準備に着手しましたが、今回も資料を集めたりでまだかなり時間がかかりそうです。そこで平行して私の愛読書を紹介したいと思います。

 

   もともと歴史に関心があり、趣味でよく図書館で関連の本を借りて読んでいました。今から3年ほど前、そんな中の一つとして伊勢市図書館で借りて読んだのがこの本です。そして読んでいくうちにすぐこの本の虜(とりこ)になってしまいました。この本のタイトルが「……物語」とあるように、読んでいくうちにその時代の世界に入り込んで、まるで物語の世界の中にいるような感じで本の中に入り込んでしまうのです。 

 

   たとえばこんな感じです。 

『数億年前の生物の姿を知る最善の方法は、想像力を働かせて、その原始の海の底に潜ってみることだ。まず古代の魚としばらく泳いだあと、岸に上がり、原始の森を散策しよう。地面を這いまわる原始の虫たちを踏まないよう気をつけて。そして、はじめて4本足を得た動物が海から現れ、やがて地上を占拠し、恐竜となって世界を支配したあと、6550万年前の壊滅的なできごとによって地表から消え去る様を見ていこう。…… 』

   こんな話しの展開から各テーマの話しに入っていきます。

 

    それからこの本の著者を紹介しましょう。著者は英国生まれの〝クリストファー・ロイド〟さんです。映画「バック・ツー・ザ・フューチァ」のブラウン博士役の俳優のロイドさんとは同姓同名になります。この本の著者のロイドさん、この本を執筆する動機が感動的です。

 

    ロイドさんの娘は7歳の時『学校が退屈だ』と不登校になります。そこでロイドさん夫妻は自宅教育を始めます(イギリスでは義務教育の自宅教育が認められている)。そして娘のためにロイドさんは1年間休職し、ヨーロッパ各国をめぐる旅に出ます。そして娘と各国を旅するする中で、自分の中にもさまざまな〝気づき〟が生まれます。政治や科学、歴史、テクノロジー…… 、それらの点と点を結ぶことの大切さを自覚し、そんな本を探したがどこにもなかった。ならば〝この手で書こう〟と本の執筆を思立ったちます。そうしてできたのがこの本なのです。

 

   この本はビックバンから人類の文明の進化の状況を、西洋中心でなく地球的な規模で人類の文明を相対化して展開しています。天文学、物理学、生物学、歴史学と広範な分野の見識を総動員して話しを展開しています。この本がたった一人だけで執筆していることに驚くばかりです。ただこの本の弱点もあります。宇宙の誕生から人類社会の今日まで137億年の経過、歴史を一冊の本にしているので、たとえばこの本の最初のテーマなど、天文学を専門に学んだ人や宇宙に関心があっていろいろな本を読んで勉強している人にとっては物足りないと感じるでしょう。その他のテーマについてもその分野を専門で学んだ人、自分で勉強した人も同様に物足りないと感じるでしょう。それから日本についての記述などは、特に何の専門家でもない私でも物足りなさは感じます。確かにその点は一人で執筆することの限界なのかと感じます。もう一つ、翻訳の問題を指摘している日本の読者がいます。原語版と日本で翻訳されたこの本の両方を購入して読み比べてみると〝いくつかの誤訳ある〟と指摘しています。しかし、そんな問題点があったとしても私のようなごく普通の人にとっては〝大人の一般教養書〟として大変優れた本だと思います。そしてこの世の中のことを点としてではなく、過去から続く流れ=線としてつなげ、思考してみるのに最適な本だと思います。こういう本はぜひ多くの人に知ってほしい。そこで皆さんに要約版として紹介することにしました。全部で42のカテゴリーのテーマで構成されています。これをだいたい3週に1度のペースで紹介していこうと思います。仕事の関係で毎回同じペースという訳にはいきませんが、計算上ざっと2年半かかります。42のテーマですが、内容的には強弱があります。従って紹介の仕方も強弱がでるのでそこはご了解下さい。それから要約というのは読んでおもしろくありません。そう、文章を短くしていくために物語部分をすべてはしょってしまうからです。代わりに内容とは少し離れた余談を適当に盛り込んでいきます。特にロイドさんの母国イギリスの歴史、文化には学ぶ点がたくさんあります。そんなことなどを多少盛り込みながらすすめていきます。

 

   しかし、正直なところ本当に完結できるか不安です。そんなに長く情熱を持ち続けられるかどうか。それからこれから病気や予想外の事態で継続ができなくなるかもしれません。そのときはご容赦下さい。それからこの〝投稿〟、本音でいえばもう一度自分自身の頭の中を整理する勉強のためでもあります。〝投稿〟というそれなりの緊張感の中に身を置いて内容を要約することで、改めて自身の中の理解を深めたいのです。動機が不純ですみません。皆さんとともに勉強していきます。

   

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    この半世紀の間に宇宙はビックバン(巨大爆発)から始まった、という仮説が定着するようになりました。それ以前はあのアインシュタインですら宇宙に〝始まりがあった〟という説は とっていませんでした。そう、ビックバンは比較的新しい宇宙理論です。今から約137億年前、宇宙は想像を絶するエネルギーが時間も空間もない〝特異点〟といわれる点の中にあったものが、均衡が崩れ巨大爆発と爆発的膨張が起こります。それが〝ビックバン〟です。さて、もうここで〝時間がない世界〟〝空間がない世界〟というのが理解不能です。しかしアインシュタイン相対性理論の中で時間も空間も絶対的なものではなく、相対的なものだと言っています。そう、空間がないということは時間も存在しないのです。といっても現在の時間と空間の中の時空の世界にいる私たちにとって、時間のない世界、空間のない世界など想像できません。何やら禅問答の世界にいるようです。そんな世界が特異点であり、ビックバンです。そんなはなしから物語はスタートします。

   〝ビックバンと宇宙の誕生〟これは私だけでなくすべての人にとっても最大の謎、不可解な出来事といっていいでしょう。科学的な観測の精度は高くなって仮説の精度もこれから更に高くなっていくのでしょう。しかし、137億年前に起こった宇宙の誕生は永遠に仮説であり、検証することの不可能な事象です。しかし、それぞれが自分なりの仮説(空想)で先ずは137億年前のビックバンから地球の誕生までを想像してみましょう。

 

  

 

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⚫︎今から137億年前、「特異点」と呼ばれる非常に小さくとてつもなく重く、とてつもなく密度の高い点は、内部に閉じ込めたエネルギーの圧力に耐え切れず巨大爆発する。

⚫︎ビックバン直後、途方もないエネルギーが放出され、このエネルギーがまず重力に変わった。それに続いて宇宙のもとになるおびただしい数の粒子が生み出された。今日この世界に存在する物質のすべては、ビックバン直後に生じたこの無数の粒子からできている。

⚫︎ビッグバンから約30万年後ビッグバン直後に生じた無数の粒子が互いに結びつき原子と呼ぶ小さな塊となる。その原子が互いの重力に引き寄せられ、超高温の雲を作り、そこから恒星が生まれる。
⚫︎ビッグバンから約1億年後、恒星が互いの重力に引かれて集まりさまざまな集団(星雲)が生まれ、銀河もその一つとして現れた。
⚫︎今から約46億年前、燃えつきた恒星が残したガスと塵が集まって高密度になり、核融合を起こして輝きはじめたのが太陽。
⚫︎太陽の年齢が若いことが生命誕生に幸いした。宇宙が始まって初期の頃生まれた恒星は、生命につながる惑星を生み出せなかったが、その後に起こった超新星爆発によって原子を結びつけ、鉄、酸素、炭素など、生命誕生に不可欠な要素をもたらした。
⚫︎太陽とほぼ同時に太陽系の惑星が誕生し、その一つが地球となる。その約5000万年後地球とティアと呼ばれる原始惑星が衝突し、それにより地球では火山の噴火、大量のガスの噴出により大気が形成され、ティアの核を形成する鉄が地球の核と融合し、高温高密度の金属の球を形成する。これにより地球の核が磁気シールドを形成し、地球表面が太陽風から守られるようになった。

 

   以上がテーマ1の要約です。 簡単すぎて宇宙誕生のことをイマジネーションできなかったかもしれません。是非本書を購入して読んでみて下さい。

   次回テーマ2は「生命はどこからきたか」になります。

 

♨️黒川温泉に学ぼう 第3回(黒川温泉シリーズ第4回目)


 〝黒川温泉に学ぼう〟の3回目、〝黒川温泉にご案内します〟を含めると黒川温泉関連で4回目ということになります。タイトルは〝黒川温泉に学ぼう〟ですが、今回の実際の内容は、〝世界の観光地と黒川温泉に学ぼう〟ということになります。
私が日本の観光や日本の景観に関心をを持ち始めたのはもう10年以上前からになります。〝漠然とした疑問を持ち始めた〟という点ではもう何十年も前からということになるでしょうか。これは私だけでなく誰もが感じる問題意識だと思います。テレビや雑誌などで見る日本とは違う欧米などの海外の街並みの光景。「その光景にどうしてもあこがれを感じてしまう」という思いは多くの人が経験していることでしょう。でも一方で飛騨高山や白川郷のように「ああ、日本にも欧米とは違う日本的な佇まいを残す素敵なところがあるんだ。」と気がつくでしょう。そんな経過は私も全く一緒です。しかし、日本の場合その素敵なところというのは、総じて規模が小さく数も少ないと思ったりしないでしょうか。あるいはまた日本国内のいろんな場所に行ってみて、日本の風景、街並みの景観がどこに行っても同じようでつまらないと感じたことはないでしょうか。私はだんだんそんな思いを強く持つようになっていきました。そう、絵になる風景、写真のグッドショットになる風景があまりに少ないのです。強いて言えば都会より田舎の方が昔ながらの家が少し残っているのでまだマシかな、というレベルです。そして10年ほど前から一つの数字が大変気になってきました。日本へ来る外国人旅行者が他の国と比べると少ないということです。これは前回の投稿の時も紹介しました。「日本の国土面積、経済規模に比べて低すぎるのではないか」という疑問を強く持つようになりました。そんな疑問、問題意識の中から日本の〝観光〟についても当然同じように問題意識を持つようになりました。先ずはそんなところから始めます。



改めて日本に来る外国人旅行者、インバウンド数と他国のインバウンド数の状況について紹介します。私が伊勢に来る前に購入した国土交通省発行の観光白書が手元にあります。平成19年度版ですが、白書の中のデータは各国の数字は平成17年度(2005年)のものになります。それではそのときの数字を見てみましょう。


上のグラフが2007年度版観光白書に掲載された2005年度実績の各国の外国人旅行者受入数です。この時の日本の実績は、672万人です。フランス、スペイン、アメリカ、中国、イタリア、イギリスなどには遠く及びません。そうした観光大国だけでなく、国土面積や経済規模で日本より小さい国にもけっこう負けているのが分かります。例えばトルコ2027万人、マレーシア1643万人、香港1477万人、タイ1157万人といった国には大幅に負けています。更に小国シンガポールも708万人で日本を上回っています。隣の韓国と比較してみてもその差は70万人日本が上回るだけでほとんど拮抗しています。この数字に私はとうてい納得出来ませんでした。「日本は何という〝ていたらく〟なんだ。国は何をやっているんだ。日本の観光地は何を寝ぼけているんだ」と怒りすら感じました。しかし、ここは怒りだけでは何も解決しません。冷静にその数字の中味について考察することが必要です。原因を推定し、その要因を整理・分析しないと次のステップの今後の対応策が明らかになりません。ちなみに平成28年度版観光白書に掲載された2014年度の各国の外国人旅行者受入数のグラフを掲載します。

このグラフを見ると、9年前と比べ確かに国別で32位から22位と順位を上げています。しかし、アジアの中の順位は8位から7位と一つ上げただけでほとんど変わりません。逆に韓国に順位で負けてしまっています。このことは前回の投稿でも紹介しました。タイについては既に2500万人近い外国人旅行者(2015年度速報値では2988万人)が訪れていること、遠方からの旅行者でヨーロッパ各国からタイと日本にそれぞれどれだけ訪れているかも紹介しました。そして残念ながらヨーロッパ各国の人にとって、海外旅行をするならタイの方が日本より圧倒的に行ってみたい国、支持されている国ということに数字上はなってしまっています。


バンコクの景観と観光スポット 写真 RETRIP他〉

4回目となるアメリカのMastar Cardが行っている世界主要都市(132)渡航先ランキングで、2014年度の渡航数実績がランキングされています。それによるとバンコクは、1642万人でロンドンに次ぐ堂々の2位(前回調査は1位)でした。ちなみに日本の東京は538万人で19位、大阪は319万人でバンコクに大きな差をつけられてしまっています。この他にもアジアの主要都市で東京の順位を上回る都市は多数あります。シンガポール4位、ドバイアラブ首長国連邦)5位、イスタンブール(トルコ)7位、香港9位、ソウル(韓国)10位、台北(台湾)15位、上海(中国)16位などとなっています。日本は国全体だけでなく、代表的都市との比較で大きく負けてしまっています。バンコクは写真で見る通り都市の景観として優れていますし、近郊には有名な寺院などが数多くあります。しかもその寺院は日本のものと違い、エキゾチックでいかにも〝南国の異国に来たんだな〟という印象をもつでしょう。日本の寺院は今から1500年近く前の仏教伝来とともに建築技術が大陸から入ってきます。具体的には今の韓国(当時の百済など)から職人(造仏工や宮大工)に来てもらって寺院建築が始まります。ちなみにその渡来人の1人が金剛組という578年から続く世界最古といわれる会社を創っています(2005年から別の会社の子会社になる)。そんな訳で中国、韓国の寺院とどうしても建築様式は似ています。中国には年間5000万人ほどの外国人旅行者が訪れていますが、欧米人から見ると東アジアでは、万里の長城などもあってスケールの大きな中国に先ず注目がいってしまうのかもしれません。話しを戻しますが、東南アジアにはタイだけでなくアンコール遺跡(カンボジア)、プランバナン寺院群(インドネシア)、バガン遺跡群(ミャンマー)など旅行者を惹きつける寺院や遺跡がかなり残っていて多くの外国人旅行者を集めています。



こうした魅力的な観光地を持つ東南アジアの国々は、近年海外からの外国人旅行者の受入に力を入れており、確実に外国人旅行者数を増やしています。ここでは写真での紹介はありませんでしたが、ベトナムなどは1990年の外国人旅行者の受入数は、年間わずか25万人程度でしたが、今では国の観光を強化する政策もあって800万人近くの外国人がベトナムを訪れています。このように多くの国々で外国人旅行者の受入に競って力を入れてきています。ここでぼやぼやしていたら確実に他の国に外国人旅行者の受入数で負けてしまいます。今、国も本格的に観光業の強化に動き出しましたが、改めて私なりに外国人旅行者が少ない要因とその対策を整理してみたいと思います。その要因の一つは「日本の伝統的建築様式が消滅しつつあることと日本人の景観に対する意識の低さ」、二つ目は「日本には欧米のような一人で、または家族で楽しむレクレーションの文化の歴史が浅く、発想がまだ貧困であること」、三つ目が「戦略的な思考が弱いこと、また情緒的で論理的な思考の組み立てに弱いこと」です。この三つについて以下に順番に説明します。



タイトルに「……日本人の景観に対する意識の低さ」などと表現してしまいました。しかし、幕末から明治初期に日本にやってきた西欧の外交官や商人が、また織田信長豊臣秀吉のいた安土桃山時代に西欧の宣教師たちが日本に来て日本の風景を初めて目にしたとき、大変感動したことが彼らの日記や手紙などの書簡に残っていることがさまざまな文献で紹介されています。その内容について、少し古いレポートですが、2005年に旭化成グループの㍿旭リサーチセンターが「日本は美しい景観を取り戻せるか」というテーマでまとめた中の一節でその一部を紹介します。



上記のレポートに書かれている内容は、明治維新から間もなく150年近く経ちますが、いま日本の街並みの景観を見ればとても信じることができません。でも間違いなく日本には欧米人を感動させた街並みや農村の風景があったのです。明治初期の日本にあった風景の写真になりますが、長崎大学付属図書館のデータベースから何枚かを紹介します。







明治時代の日本には上の写真のような風景が当たり前にあったのです。当時の日本人が景観のことを意識したからというより結果的に写真のような風景ができたのだと思います。それが何故ほとんど消えしまったのでしょうか。それを私なりに考察したいと思います。最初に日本の伝統的建築様式が消滅しつつある現状についてです。いま日本の住宅事情は、伝統的な和の建築様式と西洋風(西洋的だが非なるもの)の建築様式に二分されてしまっています。そして新築住宅は西洋風建物が全体の大勢を占めてしまった感じです。この動きはもう止められないレベルまで来ているのではと私自身思っています。でも本当にそれでいいのでしょうか。そんな現状でもあえて〝日本の現状への疑問〟と日本の建築様式の大勢に対する〝アンチテーゼ〟を述べたみたいと思います。そこで今の日本の建築様式について、現状を考察して見ましょう。先ず私が最も身近な地元の伊勢市内に実在する住宅の例から見て見ましょう。




上が伊勢にある一般的な洋風住宅で、おそらく日本全国どこにでもある光景でしょう。確かに一つ一つの住宅を見るとそれなりにオシャレな感じで、住んでみたいと思わせるものがあります。それから首都圏にある住宅地の一部も見てみましょう。以前の私の職場は神奈川県横浜市青葉区にある店舗だったので近くの高級住宅地と言われている美しが丘、あざみ野地域の一部の写真をグーグルマップから探して以下に掲載します。



こちらも住宅地の建物の90%以上が洋風建物になってしまっており、和風住宅が残っているのは元々その地域に住んでいる地主さん位で全体の比率からしたら1〜2%といった印象です。これを今さら「一般住宅も和風建築に切り替えていこう」といったところで大勢は決してしまっています。むしろ現在の住宅地に和風建築の住宅を建てても全体の街の景観に合わなくなってしまっています。こういった地域では私も「和風建築に切り替えるべき」とは言いません。逆に「もっと西欧の良い点を学び、真似なさい」と言います。日本の洋風住宅と西欧にある実際の住宅とを比較すると、その違いの最大のものは家の形、街並みの色の統一感です。日本の中では、先ほど紹介した横浜市青葉区の美しが丘、あざみ野などは街並みに色の統一感がある方です。ところが西欧では更にそれが徹底しています。たとえばイギリスロンドン近郊の街ギルフォードとハイ・ウィカム(いずれもロンドン中心部から直線で約50kmにある街)の住宅街を写真で見てみましょう。ちなみにこの二つの街は私も初めて知る街の名前ですが、グーグルマップでロンドン中心部から約50kmのところをたまたま無作為に選んだ街です。






日本では信じられないくらい住宅の形と色が統一されています。逆に「統一され過ぎて自由がない感じ」と思うかもしれません。まず日本で見られる電線がなくすっきりしています(ギルフォードの街の写真に一部残っていますが)。イギリスでは市街地だけでなく(市街地はほぼ100%電線が地中化)郊外の住宅地でも電線の地中化が進んでいます。日本では写真で紹介したように、高級住宅地と言われるところですら電線は地上を這いまわっています。それからイギリスではそれぞれの都市で地区ごと、街路ごとに外壁の色と材質まで細かく指導されます。エアコンの室外機やパラボラアンテナを外に設置するなど出来ません。自宅であってもテラスを設けるなど、勝手な改装も出来ません。日本とは比較にならないほど住宅の景観に関して厳しい規制があります。そういう点では確かに不自由さを感じるでしょう。ヨーロッパでは、景観に対して細かく指導され、例外を許さない厳しさがあります。そしてその必要性を住民も理解し協力しています。そしてその結果としてその地域の景観を守り、地域の付加価値(資産価値)を高めるのです。例えば日本でも黒川温泉は、後藤哲也さんが中心になって地域の景観に力を入れてきた結果、黒川温泉の土地は坪数万から何十倍にまで上がり、地域の付加価値を一気に高めました。一つ一つ例外を認めていたら地域の景観力は高まりません。確かに欧米でも国や州によって規制のレベルは違います。もちろんどの国でも観光地での規制は例外なく厳しいものがあります。ただ写真で見る限り意外ですがイギリスに比べフランスの方が規制が緩やかな感じがします。パリ郊外でパリ中心部から50〜60kmくらいのところにある住宅地は「あれ、日本に似ているな」という印象があります。住宅の形、外壁の色がイギリスに比べ統一感に欠ける印象があります。アメリカも宅地はほとんど方形に区画されていますが、斬新なデザインの住宅もそれなりにあります。それでも欧米の方が日本に比べ景観に対する意識が高く、街並みの景観という点で質と量(面積)の両方で日本を上回っているように思います。日本の住宅は木造住宅が主体です。一方欧米はレンガなど石造建築です。第二次世界大戦でドイツもかなりの空襲を受けましたが、日本は木造住宅であることがアメリカから狙われ、住宅を燃やし尽くすために焼夷弾を大量にばら撒かれて、それこそ全国の主要都市のほとんどが根こそぎ焼き尽くされてしまいました。生きていくために住むところはとりあえずバラック小屋で、とにかく食べ物の確保で精一杯だった。この〝とりあえずバラック小屋でいい〟というレベルの建物が、町工場などなまだ全国のあちらこちらに残っています。それから定職を見つけ、サラリーマンとして働くようになるととにかく小さくてもいいからとマイホーム(のちにうさぎ小屋と欧米から称される)を競って持つようになります。この時期(昭和30年代後半以降)に日本人に大きく影響を与えたのがテレビの普及に合わせて放映されたアメリカのホームドラマです。広い居間にソファーでくつろぎ、楽しく団欒するシーンは将来のあこがれの世界、夢の世界と日本人みんなを思わせ、洗脳させてしまいます。私ももちろん洗脳されてしまいました。「とにかくこれからは家はアメリカのような家でないとダメだ」と思うようになりました。そう、日本人のほとんどが完全に洗脳されてしまった状態で洋風のマイホームを目指すようになったのです。その子供世代もいま正にマイホームを求める世代になっていますが、何の違和感もなく洋風住宅を求めています。そんな経過の中で今の日本の住宅があるので、今あるすべての洋風住宅を伝統的な和風住宅に変えるべき、とは言いません。それは無理です。それならそれならもう少し欧米に倣って街全体の統一感を持たせた方がその街の付加価値は上がります。

それから人口10万人以上の都市になると、どうしてもマンションなど高層住宅が必要になります。しかし、日本で多く見られる例は、戸建て住宅の中にぽつんぽつんと建っていて、しかも地形の制約からくる区画整理の遅れからか建物の向きもバラバラです。更に単純な箱物の建物が多く重厚感を全く感じさせません。せっかく各都市ごとに〝都市計画(図)を持っているわけですから、多少不自由になったとしても景観を考慮して、都市計画の用途地域を見直して建設できるエリアをより徹底して区分すべきです。それから大型の建物を建てる場合は、今より多少コスト高になったとしてももう少し重厚感を持たせてほしい。明治から昭和の初期にかけて建てられたいわゆる〝洋館〟と言われる西洋風建築物です。洋館で重要文化財に指定されている建物も数多くありますが、世界遺産に指定されているもので有名な富岡製糸工場(明治5年=1872年竣工)があります。また、日本の首都を代表する洋館に〝東京駅〟があります(大正3年=1914年竣工 戦争による空襲で半壊したため戦後規模を小さくして建て、2012年に元の建物に復元させる。写真↓)。

こうした洋館は、重厚さを持つがゆえに日本の地に異国情緒をもたらし、しっかりと根づいています。規模は違いますが私の住む伊勢市内にも昭和6年(1931年)に造られた近鉄の宇治山田駅があります。

こうした西洋の建築様式は、建物のメンテナンスを適切に行うことで、年月を経れば経るほど重厚感を増していきます。一方単純に箱物として造った高層住宅は、年月を経れば経るほどその地域の景観を悪くしていく気がします。大都市に人口が集中している現在、もっと景観を重視した都市計画づくりが必要だと思います。
大都市にある超高層ビルの場合はビルの向きなど統一感を保ちながらモダンなデザインの建物もありでしょう。ただ日本の場合、東京などの大都市の景観でも欧米だけでなく、アジアの他の都市に比べて見劣りするのではと思います。都心部の港区あたりでも高層ビルと低層の建物が混在していて統一感がなく、美しさに欠ける感じがします。東京と上海、香港を写真で比較します。



このように現在の日本の街並みの風景は大都市でも地方においても、江戸時代幕末から明治初期の風景が欧米人を感動させたというその名残りは、ほんの一部の地域に限られてしまっています。例えば、仮に私が外国の方を東京から大阪まで新幹線で案内したとしましょう。東京を出発し、神奈川から静岡県に入って間もなくすると富士山が見えてきます。そこで当然右手で富士山の方を指して日本一高く世界遺産の山を紹介します。と同時に製紙会社のエントツ群が見えてきます。私は意識してエントツのある下の景色を見せないようしばらく目線を富士山の頂上に合わせたままにします。まあ、それは無駄な努力と思いますが。それから途中で止まる主要な駅の名古屋や京都のことは紹介しますが、途中車窓から見える風景は特に紹介するところがありません。自信を持って見せたいと思う風景がないのです。仕方ないので外国の方とは社内で雑談をずっと続けることになるでしょう。もっとも英語での会話はできませんが。

日本の場合、肝心な観光地の景観ですら課題が山積です。例えば日本を代表する国際的に有名な京都です。とにかく1000年の都で、世界遺産の神社仏閣始め見どころが数多くあります。特に清水寺のある東山地区は一体に見どころ、散策に相応わしいところが多くあり大好きです。それから東山地区とは京都の市街地を挟んで反対側の西側になる嵐山も人気の場所で、私ももちろん好きな場所で東山➡︎嵐山のコースで、伊勢からの日帰りで車で何回か行きました。しかし、ここで問題があります。東山、嵐山それぞれはいいのですが、東山から嵐山まで車で移動する時の京都市街地の景観でる。だいたいそのコースで京都に行く場所、祇園近くの駐車場に車を止めて鴨川沿いの道路を北に走り、京都御所の前を通る府道187号線(丸太町通)を西に向かいます。この途中の車から見る風景、時間にしたら30〜40分ですが、その間全く京都を感じさせません。どこにでもある風景で、「世界の観光地=京都でこの景色か(写真下 グーグルマップ)」とがっかりします。


同じ古都である奈良の場合も状況は変わりません。広い奈良公園に隣接してある東大寺南大門の仁王像と金堂の大仏の威容に感動しつつ東大寺をあとに唐招提寺薬師寺に行くため、奈良市の市街地を通って西に向かうときも市街地に古都の雰囲気は全く感じません。これが今の日本の現状です。


改めて日本の景観はどうして現在のようになってしまったのでしょうか。既にその理由の一つについてこのブログの中で述べました。そう、第二次大戦後のアメリカの影響です。それについてはまた後で少し触れるとして、最大の要因は明治以後、とりわけ戦後の人口増加です。そのことを少し古いですが、2004年の景観緑三法が施行された年に、前国交省事務次官の増田優一さん(当時 大臣官房審議官)が、土地総合研究所主催の講演会(100回記念)で講演しています。その講演の中で近年の日本の急激な人口増加の弊害が、日本の景観を悪くしてしまった、と言っています。

戦後の日本は集団就職など大都市に集中する傾向が更に強まり、それにベビーブームで日本全体人口増加が加わる。首都圏4都県(東京・神奈川・埼玉・千葉)の人口変化を見ると、戦後まもない1950年の首都圏4都県の人口が1302万人。それが30年後の1980年には2868万人と30年で1566万人も増えてしまいます。1年間で52万人以上、毎年毎年増え続けます。日本の持ち家比率というのは1950年代から現在までほぼ60%前後で変わりません。そうすると首都圏4都県だけで毎年30万戸(マンションも含む)以上の持ち家需要が継続したということになります。この時期日本は高度経済成長しましたが、急激な人口増加は、当然旺盛な需要をつくり、黙っていても高度経済成長せざるをえなかったとも言えます。もちろん、戦後の食料難を何とか乗り越え、〝もっと豊かになりたい〟というハングリー精神があったことも見逃せません。人口増加と豊かさを求める日本人の需要に応えるため、モーレツに働きます。そして当時の世の中全体のムード、空気が〝とにかくマイホームを持つことが一人前の証(あかし)〟であり、周りの景観のことなどひとかけらも眼中になかった、というのが正直なところでしょう。

それから二つ目の理由については、既にこのブログの中で紹介しました。そう、前後のGHQによる占領政策とその後のマスコミのアメリカ一辺倒と言っていい情報の流れが戦後の日本全体の空気を根こそぎ変えてしまったことです。1979年に文芸評論家の江藤淳 氏がアメリカ主体の連合国軍総司令部GHQの占領政策の中にウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program)があったとレポートしています。これを直訳すれば〝戦争責任周知徹底計画〟ということになります。確かにGHQの占領(占領化の基で政治的には日本国政府が統治権を持つ)は、1945年9月2日の日本の降伏文書調印から1952年4月のサンフランシスコ講和条約の発効までの6年半の長きに渡り、日本の伝統的な神道や武道などの規制や禁止、歴史の全面的な見直しを学校教育と一般国民向けにラジオや新聞などのマスコミを使って「真相はこうだ」などで「いかに日本が間違っていたか」を継続して徹底して放送などで伝えます。1949年までの4年間は検閲制度もあって、その間約2億通の郵便物が開封され、相当数の書物が没収され、新聞に問題となる記事があれば発行停止となってしまいました。これだけ長きに渡ってGHQの思惑通りにインフォメーションされたら完全にその思惑通りの空気ができます。占領時代の後半から日本で始まったテレビ放送も当然その流れ、空気の中での放送になります。その後は比較的手に入りやすかったことも想定されますが、アメリカの西部劇、ホームドラマが連日放送されます。とりわけホームドラマはアメリカの豊かさを見せつけられ、強いあこがれを多くの人(たぶんほとんどの人)が持つようになります。そうです。日本はアメリカの文化に完全に洗脳されてしまいました。私もです。私の実家は山梨県にある農家で母屋は日本の農家の代表的な入母屋造りの家です。他から移築して建てた家ですが、移築してもう80年ほどになります。今でこそこういう日本の伝統的な家を残さなければならないと思うようになりましたが、若い頃は全く良さを感じませんでした。「なんか古いだけでダサいな」という感覚で、むしろその頃数少なかった洋風の家に強いあこがれを持っていました。まあ、それが周りの同世代の人のことを考えてもみんな同じように思います。当然それからの日本の住宅の需要、ニーズというものは〝洋風〟〝モダン〟を求めるようになる。そして供給側も当然与えられた条件の中でそれに応えようとする。それが自然な流れと言えるでしょう。


さて、 三つ目の問題です。新たな問題が急激に生まれ、日本の伝統的な家屋を維持出来なくなっているという問題です。新たな問題とは、これまで述べてきた二つの理由が大きく関係しています。一つは急激な人口の都市集中により地方、とりわけ農山村の住宅の維持が困難になっていることです。農村部の家というのはその必要から大きい所が多いと思う。例えばまた私の実家の話しになりますが、農業、林業の他に養蚕(農業の一つとも言えますが)もやっていました。周りも大半の家でやっていました。この養蚕というのが〝かいこ〟を飼うスペースがかなり必要になります。私の実家も母屋は屋根裏に3階部分を設けた構造で2階、3階は養蚕用でした。当然家は大きくなります。現在住んでいる伊勢でもそうですし、全国でも総じて田舎の農家の家は大きい。私の実家で建坪でざっと80坪位でしょうか。私の家は小規模ながら地主の家だったのでやや大きかったかもしれませんが、それでも周りの農家も建坪で60坪程度はみんなあったと思います。いま新築住宅の平均建坪が43坪ということですから、やはり昔からある田舎の住宅は相当大きかったのです。なんでそんな大きな住宅がその集落全体で出来たのか、今建てれば莫大な資金がかかります。普通に考えると不思議です。それは日本の伝統的な仕組み、制度がそれを可能にしたのです。みなさんは、昔の「結(ゆい)」という制度をご存知でしょうか。おそらく戦前まで農村人口が約8割近かった日本において、全国にあった仕組みと思います。今でも残っているもので有名なのが白川郷の屋根葺きです。白川郷の屋根葺きがあると必ずテレビで放映されるのでご存知の方は多いでしょう。屋根葺きはは3年前から茅の確保の準備が始まります。確保した茅は家の空きスペースにストックし、そこで乾燥せます。そして屋根葺きは2日がかりで、それぞれ100人の要員が必要となります。この要員は親戚の人とほとんどが地元の人たちが無償で労力を提供します(現在はこれにボランティアが加わっています)。地元の人はいつか自分の家の屋根葺きをするときは同じように地元の人に無償で労力を提供してもらうわけです。いわば困った時の労力の助け合い、組合ということができます。この屋根葺きは一度に片面だけです。屋根葺きは30〜40年に1回を行いますが、もう一方の片面の屋根葺きをその間に行うことになります。この片面だけの屋根葺きを今外注で行ったとしたら1000万円以上がかかると言われています。そしてその屋根葺き当日の100人分の食事とお茶の準備、2日目で屋根葺き作業が終了したら慰労を兼ねた宴会を行います。その準備はもちろん地元の女性たちが担います。こちらも戦争状態の忙しさです。

規模は違いますが、昔の田植えや稲刈りは田植え機もトラクターも何もなく、鎌などの最低限の道具とあとは全て人の労力になります。しかも何日もかけて家族だけでコツコツと行うというわけには行きません。そこで地元の人、地元の組の人たちに労力を提供してもらうのです。そして組の人たちそれぞれの田圃の田植えを順番でやっていくのです。これは昔は全国全ての農村で行われていたと思います。

そして家の新築、普請についても基本的には同じ考え方で行われていました。この昔の家の普請についてインターネットで調べていたら、良く調べてまとめた参考になる資料があったので紹介します。URLも掲載しておくので興味のある方はどうぞ。





www.geocities.jp/kounit/nitijyou-jyuukyo/honbun3s.html

昔は本当にこんな感じで家を普請したんでしょうね。親戚や地元の村落の人からの労力を借りることができた変わりに普請する人の側の心労は大変なものがあったと思います。それから労力の助け合いの〝結〟とは別にお金の面の助け合い制度〝無尽〟があり、家の普請などを支援する制度として助けあってきました。私の実家のある山梨では、今も無尽の制度が残っています。日本には農協、生協、漁協、森林組合信用組合などの他各業界ごとに必ず組合があります。日本にはもともと組合と同じ考え方の〝結〟や〝無尽〟などの制度があったので、現在世界でも断トツに協同組合の多い国です。


説明が大変長くなってしまいましが、そういう制度に助けられてこれまでの日本の農村では大家族であったことや農作業上の必要もあって大きな家が建てられてきました。それが戦後の若い世代の急激な人口移動により農村世帯は高齢の老人だけとなり、今迄の結や無尽などの助け合いの制度が成り立たなくなり、大きな家に老夫婦二人だけ、あるいは一人だけ、そして誰も住まない空き家といった状態になってしまっています。そうです。日本の農村では、今迄のような入母屋造りの家は必要がなくなってしまいました。仮に家の普請が必要となっても入母屋造りの大きな家を建てることはないでしょう。まず昔からあった結の制度がないため莫大なの建築資金が必要となってしまいます。それから入母屋造りの家を建てようにも今の大工、工務店の人はそんな家を手掛けたことがほとんどありません。そのため数少ない宮大工の人にお願いするしかないでしょう。だから今ある農村の昔ながらの家も例外(世界遺産に指定された白川郷など)を除いて少しずつなくなっていく運命にあります。今から57年前、私が小学校に上がる前の年です。私の実家のすぐ隣の家が、昔ながらの結の制度を使って家を普請しました。そのことをおぼろげに覚えています。顔を知っている組の人が家づくりを手伝っているのです。記憶にあるのが壁土を作っているシーンです。組の人3人位で赤土に麦藁、水を入れてスコップを使って3方向から練り上げているのです。もちろんそのあと作った壁土を壁に塗る左官の仕事もやります。大きくなってから話しを聞くと大工棟梁とその配下の人が1人か2人、後は棟梁の指示のもとに地元の人が手足となって動きます。それから建舞(上棟式)の夜のことを覚えています。まだ壁もなく柱と屋根葺き前の状態の中で仮の電気をつけて慰労会をやっているのです。50人以上はいたと思います。自分の家の父と歳の離れた長兄が慰労会に参加しています。母はその慰労会の酒の肴づくりなどの手伝いで同じ新築の家にいます。夜私の実家の家は姉と二人だけで寂しかったのでその隣の家に覗きに行ったのです。そんな50年以上前の姿はこの日本から完全になくなってしまいました。そんな時代の変化の中で、日本の伝統的な家屋は消滅の一途をたどっています。


今回の投稿で江戸時代末期から明治初期の日本の風景が欧米の人を感動させたことを紹介しました。町中でも家の前の道は必ず毎日清掃するとか、昔はどこの家でも普通にあった縁側は近所の人とお茶を飲んだりする社交の場でもあったので毎日雑巾がけ(昔の私の実家がそうでした)をするとか、人様に恥ずかしくないよう庭の手入れをするとか、昔の人たちの良い習慣が当時の清潔感のある町並みや農村の風景を維持していたと思います。しかし、自然の中には、調和した町中や農村の風景は、意識してそうなったというより結果的にそうなったということだと思います。先ずほとんどの住まいは木造建築だったので、ほぼ2階建てまでなので町中の家の景観は結果的に高さの統一感があります。家の屋根は瓦屋根か檜皮葺(ひわだぶき=ヒノキの樹皮を屋根葺きに使う)か板葺き、農村なら藁葺きが主流だったので色と材質に統一感があります。取り分け江戸の町は、武家屋敷が多かったことと何回か大火に見舞わられたため、幕府から瓦屋根を推奨されます。その結果江戸時代後期の町はほとんどが瓦屋根だったと思われます。家の壁面は、木造建築なので木の柱と板壁、または赤土を使った土壁か漆喰の壁。こちらもその種類に限られていたので色と材質の統一感があります。全てが特別意識することなく、自然な流れの中で昔の景観は出来上がったのだと思います。明治以降、特に第二次大戦後の日本の激変が昔からの自然な流れを断ち切ってしまいました。そして、これからは意識して日本の景観をより良くしていく努力、日本の町並みや農村の風景を再生していく努力が必要となっています。


戦後でもう70年以上になります。日本人はもう今の土地法制の中で長年家を建てたり、借りたりしてきているので、これを突然ヨーロッパと同じように規制すると言っても容易なことではありません。2004年に景観緑三法が施行されて10年以上になります。新しい法制に基づいて全国で30ヶ所以上の景観地区が指定され景観を改善する動きにつながりましたが、最近は新たに指定されるというような動きもありません。この10年で「日本全体の景観が良くなりつつある」という印象はありません。ただ景観緑三法ができても、今人が住んで存在している家を〝景観に合わない〟と言って強制撤去させることも出来ないので、部分的に変えられても町全体を変えるのは確かに簡単ではありません。私は日本が本当に景観を変える動きを作っていくためには、本気になって取り組んでも30年とか40年とかという年月がかかってしまうと思います。そう、実際に具体的に景観規制をする段になって、行政と住民との凄まじい軋轢を乗り越える必要があると思うからです。それでも莫大な資金が必要となりますが、いま地上にある電線の8割を地中化したなら日本の風景は一変するでしょう。それに合わせて黒川温泉のような絵になる伝統的な和を基調とした景観を一つ一つ増やしていくこと、そして戦後の占領政策でGHQがやったようなマスコミを総動員したインフォメーション宣伝を継続的に徹底して行うのです。いまマスコミは、どちらかと言えば耳触りが良く、おそらく視聴率が取れるであろう日本賛美の内容、例えば「日本の〝おもてなし〟が如何に素晴らしいか外国人旅行者にインタビューする」とか、「日本の鉄道が如何に時間に正確で多くの車両をスムーズに発着させているか、その仕組みについて現場を視察する」などの内容です。そういう内容ではなく、「なぜ日本は、欧米の使節たちを感動させた江戸時代後期から明治の景観を壊してしまったのか」とか「ヨーロッパの景観と日本の景観の違い、そしてヨーロッパの国が景観を維持・向上させるための考え方と実際の行政の対応」、あるいは「黒川温泉の景観はこうして生まれた」などです。企業が大きく業態転換に舵を切るとき、それを成功させるには社員への合意形成が不可欠です。日本人は論理的思考は案外と不得手で情緒的に流れやすい傾向があります。世の中の空気が〝景観の見直し〟に向かっているならその空気を読んでみんな協力してくれるでしょう。逆にそうした世の中の空気がなければ、会社などと違って直接的な利害関係がないので、猛烈な反発が全国に生まれてしまうでしょう。日本全体で〝景観を変えよう〟というわけですから、そのための世の中の空気づくりはより徹底したものにする必要があります。

それからこのブログで首都圏近郊の住宅街の写真を掲載して、「90%以上洋風化した住宅になってしまった景観は、逆にもっとヨーロッパなどの景観に関する考え方を学び徹底すべき」と書きました。そうすればその地域の付加価値は確実に上がるでしょう。しかし、それが外国人旅行者を増やすことにはつながりません。ヨーロッパの人がなんとなく自分の国の景観と似た景観を見るためにわざわざ日本に来ることにはならないしょう。ただ既に在住している外国人やこれから日本に来る予定の外国人にとっては、〝住みたい〟と思わせる地域にはにはなるでしょう。

さあ、今度は首都圏や政令指定都市の一部を除いた地方の景観問題です。2005年に景観法が施行され、全国の都道府県と市町村で360ヶ所が景観計画を持つようになりました。ただ対象にしているのが大型建造物中心で、全ての住宅が規制の対象となる景観地区を設定しているのは全国でわずか36ヶ所(準景観地区が3)のみです。全国16都道府県のみで半分以上の31府県は景観地区を設定していません。それも対象範囲は、例えば三重県であれば唯一伊勢市のごく一部のおはらい町地区が景観地区に指定されています。ただそのエリアは長さ1km以内、幅200m以内の限定された地域です。全国でわずか36ヶ所というのはまだ行政も腰が引けてる感じがします。もちろん、強制力を持つ事前届け出制の地域を新たに設ける。あるいは拡大するわけですから新たな行政手続きは大幅に増えます。住民、事業者との軋轢も格段に増えるでしょう。しかし、ここは信念を持って前に進んでほしい。

それから都市計画をもう一度景観の視点から見直しあるいは補強をしてほしい。当然都市計画に基づく道路の整備などは引き続き行っていきます。日本全国にはまだまだ消防車すら入らないような路地に面した住宅も多くあります。そこに人が住んでいれば、道路の拡張も簡単ではありませんが、先に述べた〝日本の景観を良くする〟という世の中の空気をつくっていく中で住民の理解を得られるようにします。

それから都市計画にある用途地域に景観の視点を連動させて見直すことです。大変な作業になるので行政側もその意義を理解し、情熱を持って取り組まないと出来ないでしょう。今の日本は住宅地の中に5階建以上のマンションが点在している風景が至るところにあります。建物の高さがバラバラで統一感がなく景観を悪くしています。これは東京の都心部(高層ビルの間に2階建の住宅が混在している)から地方の小都市まで全国共通です。現状第一種中高層住居専用地域から3階建以上の建物が建てられるようになっていますが、そのことが中途半端な大きさのマンションなどを点在させ、建物のデコボコを生じさせています。新たに用途地域を増やすなどで建物の高さを可能なかぎり統一します。だいたいどこの地方都市でも主要な駅前などは建物の容積率が高い商業地域に指定されています。そしてだいたい高層ビルから2階建の低層の建物が混在していて統一感のない景観のところがほとんどです。これを新たに例えば容積率500%以上800%までなど現在ない低層建物不可の用途地域を設け、都市中心部の統一感のある景観づくりにしていきます。高層マンションもその対象となります。それとは別に住居用の高層マンションは専用の用途地域を設け、都市計画の中に主要駅または都市中心部から◯Km圏内に何ヶ所か(人口に応じて)設定します。今の第一種二種低層住居専用地域、第一種二種中高層住居専用地域は、住居専用の集合住宅は2階建までの建物(アパート等)までとし、第二種住居地域の建ぺい率、容積率の条件で第三種を設けマンションなど住居専用高層ビルを集合させたエリアとするなどの見直しが必要でしょう。


それから住宅の質、中身の問題です。このまま首都圏近郊の洋風化した住宅の景観と同じ流れで同質のものを、金太郎飴のように全国に広げていって日本の伝統的な景観を消滅させていっていいのでしょうか。と言ってももうほとんど全国に洋風化した住宅が広がっていてもう出遅れのような状態に至っています。本気でかからないと変えられません。人間とは恐ろしいもので、電線が町中を這いまわり、建物の統一感のない不細工な景観でもそこに長く住んでいると何も感じなくなってしまいます。日本の町並みの景観がみすぼらしいのが、間違いなくヨーロッパなどからの旅行者が少ない要因になっていると思うし、世界の建築家の間では、日本の建築や町並みは神社仏閣などを除けば見る価値がないと大変低く見られています。このまま放置したままでいるということは、日本人の民度を問われる問題なのです。


そんな洋風化した住宅が一般化する中で、数は少ないですが、伊勢市内に和風建築の住宅で比較的最近新築した家があります。下3枚の写真の中で上から2番目、3番目の写真にある住宅は築5〜6年といった感じで「よくぞ造ってくれた」と思います。建築コストはやや高いと思いますが、こうした住宅が町全体を占めたなら地域の付加価値は一気に高まるでしょう。今全国の観光地で町家こうした住宅を建てるなら何らかの行政の支援があっていいと思います。




また、全国の観光地では日本の伝統的な町並みの町家スタイルの土産物屋、カフェ、レストランが人気です。また東海地区を中心にフランチャイズでチェーン展開する「珈琲屋らんぷ」は東海地区を中心に70店ほどの店舗を構えていますが、すべて町家スタイルです。店内も和風のテイスト、造りですが、客席は椅子テーブル席ですし、カウンター席はシャレた洋風の造りです。この様に和〝風〟、町家〝風〟のテイストを全面に出して事業として成功しています。このように和のテイスト、雰囲気をうまく打ち出していくことで事業としても成功する例が多く現れてきています。私の職場のあるおはらい町・おかげ横丁は、今から20年以上前に町全体を町家風に全面的に造り直し、中心部に地元の特徴を持った店を配置したり、年間通してさまざまなイベントなど催したりとかなり大掛かりな街づくりと運営をしていますが、その効果は甚大なものになっています。おはらい町通りの集客力は、以前の10倍以上の集客力を持つようになり、地域全体の付加価値を高め、強力なブランド力のある地名となりました。全国の観光地で商店街の再生を検討する時に、必ず視察する場所になっています。

同じように私たち日本人が住む住宅も、うまく仕掛けることができればいつまでも洋風住宅ばかりでなく、和のテイストを持った和〝風〟建築の住宅の方に世の中のトレンドを変えていくこともできると思います。伝統的な日本家屋をそのまま造らなくていいのです。生活のしやすさも考慮して洋風の良さも取り入れていけばいいのです。大手住宅建設会社の皆さん、いつまでも洋風追随一辺倒だったり、国籍不明の奇抜なデザインの住宅を追求するのではなく、この辺で日本の伝統的な景観、風景、日本庭園と組み合わせた伝統美を基本とする姿勢にたち返ったらどうでしょう。
「えっ、それは建築コストが高くって?」
「何も入母屋の家を造らなくていいんです。切妻の家で十分です。材質は高級木材だけにこだわる必要はありません。和のテイストと洋の使いやすさを取り入れて可能な限り消費者が無理せず予算を組める価格に設定するのです。皆さんプロならその努力をして下さい。」

建物は、箱物のビルでもデザインが斬新でモダンな感じに見えても長い年月を重ねるにつれて建物がチープ化する印象があります。特に大型の集合住宅、マンションなどでそれを感じます。その点今回の投稿で紹介した東京駅は洋風ですがデザインはヨーロッパの伝統的なデザインに倣っています。この方が長い年月を経ても建物がチープ化することはないでしょう。同じように全国の都市、町の景観にしっかり日本の伝統美を残していくことが、日本全体の付加価値を高めることにつながると私は信じています。


今回も完結しませんでした。多分もう一回となると思いますが、更に続編が続きます。なんか話しを広げ過ぎている感じですが、引き続き以下の内容でチャレンジします。