読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

🔶《余談 その1》私の『137億年の物語』

 

f:id:takeo1954:20170321062137j:image

 

f:id:takeo1954:20170321062200j:image

 

f:id:takeo1954:20170322052000j:image

 

   やっと第1部「母なる自然」の投稿が終わりました。まだ、全体の4分の1ではありますが、4部構成のうちの一つを終えたので、一応一区切りで少しほっとした気分です。投稿する間はテーマ毎に内容をどう紹介するかを考え、テーマ毎にその都度勉強もしました。仕事とはほとんど関係のない一般教養について、改めて学び直すというプロセスは学生時代に戻ったような気分でした。この投稿をするに当たって、第1回目の投稿で私のこのシリーズの投稿の狙いを紹介しました。それは「私が関心のある歴史(先史を含む)について、改めて自分の頭の中を整理する」というものです。その狙いは狙い通りと言っていいでしょう。それと同時に私の中の問題意識の領域は確実に拡がり、より具体的なものになったと思います。

 

   さて、第1部が終わったところで本書から離れた内容になりますが、この本の原作者の国、そして最も気になる国〝イギリス(英国)〟について、「余談」として紹介したいと思います。イギリス(英国)の正式名はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)といいます。「えっ、そんな名前だったの?」と初めて知る人も多いでしょう。もちろん正式名はあまりに長いので、ここではイギリス、場合によっては日本語漢字表記の英国を使用します。 

 

    さて、なぜイギリスという国のことが気になるのか、皆さんに紹介したいと思ったのか、それはいろいろ理由がありますが、その理由を四つ上げてみます。 

   一つ目は、議論によって物事を決っしていくという、民主主義の根幹となる習慣が根付いているということです。更に政治やビジネス、あるいは日常的な場面での論理的な思考とその表現力、そして行動力などで優れている点です。二つ目は、イギリス人の思考の基本となると思われる教育制度についてです。特に12世紀にカレッジ制(学寮)として始まったオックスフォード大学、ケンブリッジ大学(13世紀初頭)などで行われている特筆すべき教育についてです。三つ目は何故小国でありながら世界の覇者として君臨出来たのか、〝パクス・ブリタニカ〟を形成した力のゆえんです。そして、四つ目は私の個人的な関心でもありますが、イギリスの素晴らしい景観とそれを維持している景観行政についてです。イギリスにまだ行ったことがない私が、こうしたテーマで書くことは、説得力という点で限界があります。本などでかじったイギリスという国の一面の紹介ということになります。その点ご了解ください。もちろん、ぜひイギリスには行ってみたいと思っています。

 

    さて、話が全く変わります。私が歴史について心から〝おもしろい〟と思い、関心を持ち始めたのは大学時代です。大学時代に学生寮の先輩から借りて読んだ司馬遼太郎の歴史小説です。その小説は、新選組副長の土方歳三を主人公とした『燃えよ剣』で、これで歴史小説のおもしろさに目覚めました。次に読んだのは、同じ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』です。この本は読み始めたら止まらなくなり、単行本で全5巻(※文庫本は全8巻)を大学を1週間休んで一気に読みきりました。この本で坂本龍馬という人物に、ぞっこんに惚れ込んでしまいました。ちなみに同じこの本で坂本龍馬に惚れ込み、洗脳されてしまった人は多くいます。例えばソフトバンクグループの創業者で、代表取締役社長の孫正義さんです。孫さんは高校時代に『竜馬がゆく』読み、感動します。坂本龍馬が自分の志を遂げるため、そしてもっと広い視野を持って自分をステップ・アップさせるために脱藩したことに感銘し、高校の2年で中退してアメリカ留学を決意し実現します。海援隊の武田鉄矢さんも高校時代『竜馬がゆく』を読んで、龍馬に惚れ込みます。そもそも〝海援隊〟の名前からして坂本龍馬が創設した海援隊からその名をそっくりとっています。もちろん私も洗脳された一人です。この本はもう10回ほどは読みました。日本の歴史上に坂本龍馬という人間的魅力にあふれる人物が存在したということ、そしてその人を発見した感動と喜びは何とも言いがたいものがあります。感動のあまり数日はただ茫然とするだけの状態でした。「自分も坂本龍馬のようになるぞ!」と、しばらくは真面目に考えました。

f:id:takeo1954:20170417170247j:image【⬆︎1975年文庫版第1刷版を購入。42年を経て垢と黄ばみで変色した私蔵本】

 

   それから40年以上経った今、もちろん坂本龍馬のようにはなれませんでしたが、今も最も尊敬する歴史上の人物として私の中に存在します。それから、坂本龍馬と同時にその小説の著者である司馬遼太郎という作家も、同じように尊敬の念を持つようになりました。「よくぞ坂本龍馬を取り上げて書いてくれた」という気持ちです。もちろん小説なのでフィクションなのですが、司馬さんはこの本を書くために膨大な資料を集め、読み込み、坂本龍馬という人物を構想して書いています。言わば十分な資料に基づいた仮説の人物像です。しかし、膨大な資料の裏づけを小説の中に感じるので、極めてリアリティがあります。この本は、昭和37年に自身がそこの新聞記者だったサンケイ新聞の新聞連載小説として書いたものです。そして、この小説を書くために集めた資料や取材で使ったお金は、当時の金でおよそ1000万円かけたと言われています。今でも小説を書くのに1000万円をかける人はいないでしょう。それが昭和37年(1962年)といえば今とは貨幣価値が違います。ちなみに昭和37年の大卒初任給の平均が17800円(厚生労働省資料)の時代です。その時代の1000万円です。今の貨幣価値に換算したらざっと1億年でしょうか。「えっ、司馬さんてそんな金持ちだったんだ」と当然思うでしょう。しかし、司馬さんが自腹を切った訳ではありません。『梟の城』で直木賞を昭和35年に受賞していますが、まだ昭和37年同時、後年のように印税収入はまだほとんどなく、とても自分の収入から支出できるはずもありません。実際は毎月100万円、原稿料という名目で産経新聞社で支払うことが、当時の名物社長の鶴の一声で決まったようです。その額に驚いた司馬さんは、「そんな大金はとても使いきれません」と社長に言ったら、社長は「余ったらドブにでも捨てろ」と言ったそうです。そんな訳で十分な元手を得て、古本屋街に軽トラックを乗りつけては必要な書籍、資料を端から集め、持ち帰ってそれを読み込んでいきます。ちなみに数年後に執筆を始めた『坂の上の雲』では、1500万円を費やしたと言われています。司馬さんが小説を書き始めると、古本屋街の古書の相場が上がっていったという、そんなエピソードを持っています。

    さて、そんな司馬さんが、小説の中で実際に日本に実在した人物を数多く取り上げていきます。司馬さんファンになった私は、司馬さんの小説を片っぱしから読むようになりました。司馬さんの小説は前述したように、十分な資料に裏打ちされているので、リアリティがあり、その人物の時代に自分もいるような気分にさせます。そして、司馬さんが小説で取り上げた人物は数多くいますが、例外なく取り上げた人物に尊敬の念を持ちます。こうして私は司馬さんが小説で取り上げた数多くの人物を尊敬すると同時に日本の歴史というものを見直すようになりました。司馬さん自身も「日本は世界の中で一級の歴史を持つ」と言っています。司馬さんがそういうなら説得力があります。そうして私はますます日本の歴史に関心を持つようになり、好きになり、日本という国に誇りを持つようになりました。

f:id:takeo1954:20170403102333j:image【⬆︎昔購入した司馬さん関連の本、雑誌】

   そうして日本の歴史に誇りを持つようになりましたが、一つ大きな例外があります。太平洋戦争(この言い方は戦後GHQからの指示による。当時の日本の表現は大東亜戦争)とそこに至る前史です。この戦争による犠牲者は、軍人、民間人合わせて約310万人(支那事変以降の犠牲者を含む。1963年日本政府発表)と言われています。その凄惨さはそんな簡単に表現できません。司馬さんもこの時代のことを小説にしようとして、ついに果たせませんでした。私もこの戦争についてまだ総括できるレベルにありません。ただ、いつかはこのブログで書きたいと思っています。もちろん、関心はあるので、関連の本を読んだりはしてきました。

   さて、その太平洋戦争の関連で、一つ本を紹介します。太平洋戦争後半期の体験と捕虜としての生活体験、そしてそこでの観察を通して考察を加えた故「小松真一」氏の日記、『虜人日記』です。1944年、醸造発酵の技術者だった小松真一氏がガソリンの代替燃料ブタノール生産のため、軍属としてフィリピンに派遣されます。フィリピンでの2年の戦争経験、そして日本敗戦後捕虜となり、捕虜として約1年の体験をすることになります。その期間の日記ですが、主に捕虜生活中の体験とその体験を通しての日米(日米兵士を通して)比較などの考察が加えられています。本人が1973年逝去後の1974年、残された家族によって私家版『虜人日記』(筑摩書房)が出版されました。この本(日記)は、その当時本人が生きて直接経験したこと、見聞きしたことを、日記という記録に残したもので、後世の人が手を加えていない歴史資料として1次資料とされる貴重な資料でもあります。

f:id:takeo1954:20170403110842j:image【⬆︎『虜人日記』原本と小松真一氏の日記が、戦地フィリピンの捕虜収容所で記されたことを証明する文書(虜人日記 博物館所蔵)】

   そして、この『虜人日記』の中に〝日本の敗因(21箇条)〟という気になる項目があります。その項目を全て原文から紹介します。

 

🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹 

(ちくま学芸文庫『虜人日記』  P.334、335より)

 

■日本の敗因

   日本の敗因、それは初めから無理な戦いをしたからだといえばそれにつきるが、それでもその内に含まれる諸要素を分析してみようと思う。

(1)精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければでなない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。

(2)物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった。

(3)日本の不合理性、米国の合理性。

(4)将兵の素質低下(精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)。

(5)精神的に弱かった(1枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)。

(6)日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する。

(7)基礎科学の研究をしなかった事。

(8)電波兵器の劣等(物理学貧弱)。

(9)克己心の欠如。

(10)反省力なき事。 

(11)個人としての修養をしていない事。

(12)陸海軍の不協力。

(13)一人よがりで同情心が無い事。

(14)兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事。

(15)バアーシー海峡の損害と、戦意喪失。

(16)思想的に徹底したものがなかった事。

(17)国民が戦いに厭きていた。

(18)日本文化の確立なき為。

(19)日本は人命を粗末にし、米国は大切にした。

(20)日本文化に普遍性なき為。

(21)指導者に生物学的常識がなかった事。

    順不同で重複している点もあるが、日本人には大東亜を治める力も文化もなかった事に結論する。 

 

 🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹

    以上です。特に最後の結論「日本人には大東亜(東南アジアから中国、フィリピン、台湾、南北朝鮮、日本を含む大東アジア)を治める力も文化もなかった」と言っています。では、果たして今なら治める力はあるのでしょうか。他国に伝えることのできる日本文化が 確立され、普遍性を持つているのでしょか。いずれも〝否〟でしょう。(10)の「反省力なき事」、(16)「思想的に徹底したものがなかった事」は、全く今も変わらないことは直ぐ想像できます。しかし、この21ヶ条の中に、私には意外と思う項目があります。それは、(13)の「一人よがりで同情心が無い事」です。日本人には、思いやる心、気配りする心、おもてなしの心があると思っていたので、単純に「えっ?」と驚きました。しかし、(16)の日本人に「思想的に徹底したものがなかった事」からすると、〝思いやりの心〟というのも思想的なものはなく、「人様から笑われないようにしよう」「人様から馬鹿にされないようにしよう」という〝恥の文化〟からきたものなのでしょう。日本人は、本当の意味で大人として自立していない、アドラーがいうところの〝承認欲求〟(人から認められることが常に思考の最重点にある)に他の民族以上にとらわれた民族なのかもしれません。

   (5)の「精神的に弱かった」に関連する内容で、〝なるほど〟と思わせる小松氏の文章があります。

   「独(ドイツ)系の米兵がいうのに、米国は徹底した個人主義なので、米国が戦争に負けたら個人の生活は不幸になるという一点において、全米人は鉄の如き団結を持っていた。日本は皇室中心主義ではあったが、個人の生活に対する信念がないので、案外思想的に弱いところがあったのだという」。

 

    それから日本人と米国人を比較した小松氏のコメントも大変参考になります。

    「永いストッケード生活を通じ、日本人の欠点ばかり目に付きだした。総力戦で負けても米人より何か優れている点はないかと考えてみた。面、体格、皆だめだ。ただ、計算能力、暗算能力、手先の器用さは優れていて彼等の遠く及ばないところだ。他には勘が良いこともあるが、これだけで戦争に勝つのは無理だろう。日本の技術が優れていると言われていたが、これを検討してみると、製品の歩留まりを上げるとか、物を精製する技術に優れたものもあったようだが、米国では資源が豊富なので製品の歩留まりなど悪くても大勢に影響なく、為に米国技術者はその面に精力を使わず、新しい研究に力を入れていた。ただ技術の一断面をみると日本が優れていると思う事があるが、総体的にみれば彼等の方が優れている。日本人は、ただ一部分の優秀に酔って日本の技術は世界一だと思い上がっていただけなのだ。小利口者は大局を見誤るの例そのままだ。」と書いています。

 

   こうして小松真一氏の『虜人日記』を読んでいくと、司馬さんの小説で日本人について、また日本の歴史に対して持った〝誇り〟 はぐらついでしまいます。支那事変から太平洋戦争までの時代の日本人だけが特別だったのでしょうか?そんなことは理屈に合いません。物事の結果には必ず原因があります。当時の社会情勢が日本国民として、やむにやまれぬ決断をせざるを得なかった点はあるでしょう。しかし、すべてをそれだけに求めたならば、それこそ小松氏の指摘した日本人の「反省力なき事」は、全く変わっていないということになってしまいます。また、その当時のことを「こんな酷いことがあって可愛いそう」で終わったのでは子供のレベルです。「当時の戦争のことはとても恐くて直視出来ません(原爆投下による当時の被曝者の写真を直視できない人は多い)」で終わってしまったら思考停止状態で、人として進歩がありません。確かに当時のことを事実として掴むことは困難です。終戦と同時に軍は主要な書類をすべて焼却してしまっています。司馬さんは、ノモンハン事件(日ソ国境紛争  1939年5月〜9月)を時代背景にした小説を書こうとして、ついに果たせませんでした。しかし、直接事件に関わった軍関係者に、戦後直接取材しています。が、「メモとして残すに値する内容は、1行もなかった」と司馬さんは言っています。結局人は、自分に都合の悪いことは一言も話さない。自分に都合よく捏造して話す。そういう人がほとんどです。そんな中では、支那事変から太平洋戦争をしっかり総括し、反省し、今後に生かしていくための最初の事実の把握が極めて難しいという問題はありますが、避けてはいけない日本人の課題だと思っています。

 

    もう一つ、日本を、日本人を知るためには世界を知ることが必要です。私自身は日本への、日本の歴史への誇り、そして関心から世界史にも関心を持つようになりました。日本の何が優れているのか、あるいは課題なのか、世界の今と歴史から相対的に見る必要があると思うからです。私が『137億年の物語』という本を手に取ったのもそんな関心からでした。今までも世界史に関連する本をいくつか読んできましたが、その中で最も印象に残った世界史がイギリス史でした。その印象に残った内容は、冒頭で紹介した通りです。前置きが長くなってしまいましたが、これでやっと本題に到達です。

 

 f:id:takeo1954:20170408045931j:image

   今回は、このテーマでイギリスを紹介したいと思います。と言っても、イギリス史などを深く勉強した訳ではありません。ほんのかじった程度で恐縮です。ご了解下さい。ここではこのテーマにしようと思ったいくつかを紹介します。

 

【1】スペイン無敵艦隊を迎え撃つ時(1580年代)のイギリスの政治

    20年近く前、中西輝政氏(現 京都大学名誉教授)の書いた『大英帝国衰亡史』を読んで、特に驚いた内容があります。それは、イギリスがスペイン無敵艦隊との戦いが避けられない情勢になりつつあった時代のイギリス(正確にはイングランド王国。スコットランド王国と合同して国家となるのは1707年でここから「グレート・ブリテン王国」の国名になる)の政治です。そしてこのときのイングランド国王は初代エリザベス女王(この時代の日本は、本能寺の変で織田信長が倒されて以降、天下統一を果たした豊臣秀吉が国を治めていた時代)です。このころのイングランドには、既に議会があり(1215年、諸侯が国王に諸侯の要求事項であるマグナ・カルタを認めさせ、1225年に諸侯大会議を開く。これが議会の原型となる)、初期議会は、主に三つの勢力で構成されていました。一つが国王自身の側近たち。二つ目が聖職諸侯(大司教・司教・大小修道院長)と世俗諸侯(貴族)、三つ目が各州からの騎士(ナイト)、各都市からの市民・下層聖職者で、50〜80人が議会に出席していました。

   それでは、エリザベス一世の時代のスペイン「無敵艦隊」を迎え撃つ前のイングランドの政治を知るために、中西輝政氏の『大英帝国衰亡史』の文章の一節をそのまま紹介します。

 

🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹

 ◾️「無敵艦隊」を撃滅したもの

    (『大英帝国衰亡史』第ニ章  エリザベスと「無敵艦隊」p.64 〜67より抜粋)

 

(注1)国名をイギリス表記にしていますが、原文そのままです。
(注2)文中にある「低地」はオランダ。当時スペインが支配。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

    外交における情報の重視こそ、勢力均衡政策、そして後のパクス・ブリタニカの「外交による平和」を支える大きな(ときには最大の)柱の一つであった。そしてこの点でもエリザベス朝は「近代イギリスの始まり」として、その後のイギリス外交史に顕著な役割を果たしている。

   さまざまなエリザベスの機会主義的な手立てにも関わらず、オランダ人反徒へのスペインの鎮圧が成功しそうな形勢となった1584年7月、女王の臨席を仰いで開かれたイギリス閣議(枢密院)では、次のような審議項目について逐一徹底した議論がなされた。

   ①追いつめられたオランダ人の抵抗は、はたしてもつだろうか。  ②もしスペインが「低地」を完全支配したら、イギリスへの攻撃に出るか。  ③イギリス人の中のカソリック分子の、スペインへの協力の可能性はどうか。 ④具体的にスペインの対英攻撃の手段は何か。  ⑤「低地」の陥落をイギリスが阻止したら、スペインの対英攻撃は回避できるか。  ⑥もしできるとしたら、その阻止のための具体的手段はあるか。  ⑦オランダ人救援のための、フランスとの協力の是非と可能性はどうか。  ⑧イギリス単独でも介入に踏み切るべきか。  ⑨その場合、対スペイン戦争を惹起することになりはしないか。  ⑩もしそうなら、イギリスにとって対スペイン戦争を戦い抜く手段と資源は何か。  ⑪その場合の支出額見積りはどれくらいか。  ⑫戦争の際、スペインのとる戦略は如何。  ⑬その場合、戦争がイギリスの貿易に与える影響は……等々。

   延々23項目にわたる綿密をきわめた情勢判断のためのこの閣議文書は、エリザベスの逐一の指示に基づき、セシルのあとを継いで宰相となったフランシス・ウォルシンガムの作成したものであった。ここには状況の詳細な観察と、事実に基づく判断に徹しようとする、執拗なまでに冷静な分析の姿勢があり、一種の迫力さえ感じさせられる。

   実際、三百数十年後の1950年代にイギリスの外交次官を務めたストラング卿は、この文書をとり上げ、「1956年のスエズ出兵計画も、これほど綿密な情勢分析を行っておれば、あんなに惨めな結果にはなっていなかったろう」と述懐している(Lord, Strang, Briain  in  World  Affairs, London, 1961, p.36)。「真珠湾」を持ち出すまでもなく、20世紀よりも16世紀のほうが、この点での知恵と合理主義において、はるかに優れていたことを示すものであろう。

   当然こうした的確な情勢分析の前提として、第一級の情報の収集と評価が必要となる。そしてこの時期、ウォルシンガムの下に築かれたイギリス外交の生命線をなした情報活動こそ、のちの〝007〟ないしMI 6の伝説にまでつながる「イギリス情報部」の伝統の始まりともなった。

   その伝統の最大のポイントの一つは、必ず外交官組織とは別系統の情報組織をつくり、外交情報をダブル、トリプル・チェックできる体制をつねに確保しておくというものであった。それは現実に外交政策を立案すべき立場にあるパワー・エリートは自己の政策的立場に有利なように情報をねじ曲げる傾向がある、ということの重大さをよく知る知恵に発している。

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   1587年、いよいよ「無敵艦隊」のイギリス来襲が間近になりつつあったとき、ウォルシンガムが作成した『スペインからの情報収集の方策』と題された秘密文書は、全ヨーロッパ中に張りめぐらされ、各国の外交中枢に入り込んだイギリス情報網の「すごさ」を、あからさまに示している。スペイン国内や低地、フランスはいうに及ばず、北欧デンマーク一帯、さらにポーランドのクラコフ、バチカンからベニスへ、主要な国で網羅していない国はないほどであり、駐在国の権力機構においてしばしば信じられないほど高いレベルでの浸透を果し、無敵艦隊の動静をさぐる要所に通じていた。実際この文書を読めば、1年前のこの時点で「無敵艦隊」来襲の結果は、もはや明らかであった。

 

🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹

 

   どうでしょうか。私はこの一節でイギリスの恐ろしさを改めて知る思いがしました。この中西氏の解説が、後の大英帝国、パクス・ブリタニカの登場が、必然のように思えてしまいます。この1点だけでも日本はイギリスから学ぶ必要があります。ただ今の日本の国民が、あるいは政治家が、このイギリスの歴史を学んでも、実際に今の日本の政治の世界で実践することは難しいとは思います。それは情緒的に先に結論ありきで、物事を論理的に組み立てて戦略にすることが未だに不得手な国民性である気がするためです。

 

 

【2】マグナ・カルタ(大憲章)から700年以上続くイギリス議会の歴史

    【1】では、 イギリス人の論理的思考に基づく戦略作りの実例を見ました。それではイギリス人の論理的思考の習性はいつから、どうやって身についたのでしょうか。それはイギリスの長い議会政治の歴史の中にあると思います。イギリス議会の歴史は、1215年のマグナ・カルタ(大憲章)から始まると言っていいでしょう。その時代、時代の置かれたイギリス国内外の情勢の中で、イギリス議会〔諸侯(貴族)大会議から始まる〕議員は、国の政策、制度を議論し、決めていきます。論理的思考も戦略的思考も、長い議会の歴史のその積み重ねの上にあると思います。

   それでは、1215年のマグナ・カルタ以降のイギリスの主要な歴史を簡単に検証してみましょう。

f:id:takeo1954:20170411180349j:image【↑出典  ウィキペディア  フリー百科事典  「マグナ・カルタ」】

 

   1215年、イングランド王国のジョン国王によって制定されたマグナ・カルタ(大憲章)は、必ず世界史に登場するので、内容はともかくその言葉はだれもが知っていると思います。しかしそのマグナ・カルタが、今も現行法として残っていることをご存知でしょうか。 本当に驚きますが、現在もイギリスの憲法を構成する法典の一つとなっています。今からほぼ800年前に制定されたものが今も現行法としてあるです。正確にはジョン国王のマグナ・カルタは、教皇インノケンティウス3世の勅命により無効とされましたが、その後何度か改定され、1225年に作られたヘンリー3世のマグナ・カルタの一部が現行法として残っています。

    マグナ・カルタが制定された経過を簡単に説明しましょう。当時のイングランドのジョン国王は、フランス国王フィリップ2世との2度にわたる戦いで、どちらも敗れてフランス内にあった領地を全て失います。その領地を取り戻そうとさまざまな徴税を課して、再びフランス領地奪回のために戦おうとしますが、諸侯(貴族)と国民のの怒りが爆発し、国王の信用は失墜します。国王は退位するか処刑されるしかない状態に追い込まれます。そこでジョン国王は、王の権限を制限する文書に国王が承諾を与えることで事態の収拾を図ったことで制定された憲章です。

   そのマグナ・カルタの内容です。前文と、63ヶ条から構成されています。

   特に重要な項目は、

⚫︎教会は国王から自由であると述べた第1条
⚫︎王の決定だけでは戦争協力金などの名目で税金を集めることができないと定めた第12条
⚫︎ロンドンほかの自由市は交易の自由を持ち、関税を自ら決められるとした第13条
⚫︎国王が議会を召集しなければならない場合を定めた第14条
⚫︎自由なイングランドの民は国法か裁判によらなければ自由や生命、財産をおかされないとした第38条

などです。

   また、イギリスの現行法令集w:Halsbury's Statutesに載っている条文は、1225年のヘンリー3世の時代に作られた新しいマグナ・カルタを、1297年にエドワード1世が確認したもので、前文と4か条が廃止されずに残っています。

⚫︎前文 国王エドワードによるマグナ・カルタの確認
⚫︎第1条 教会の自由
⚫︎第9条(1215年の原マグナ・カルタの13条に相当) ロンドン市等の都市・港の自由
⚫︎第29条(原39条および40条) 国法によらなければ逮捕・拘禁されたり、財産を奪われない(デュー・プロセス、適正手続)
⚫︎第37条(1225年のマグナ・カルタの37条および38条に相当) 盾金、自由と慣習の確認、聖職者および貴族の署名

※マグナ・カルタの説明=ウィキペディア参照

 

   それから今日まで、国王によって議会が招集されなかったり、逆に国王(チャールズ1世)を処刑(清教徒革命=ピューリタン革命時に)して共和制に移行した時期があり、1649年から約10年ほど国王不在の期間がありましたが、王政復古で直ぐに王政は復活(1660年)します。イギリスは、ヨーロッパ大陸の多くの国が18世紀までそうだったような絶対君主制の国ではありませんでした。清教徒革命が起きたころのイギリスは、中央・地方ともに無給の地主貴族階級によって司法・立法・行政が担われていました。国王・貴族院・庶民院による三位一体の国政運営が伝統にあった国です。清教徒革命を指導し、国を共和制に変えたクロムウェルの強権的な政治への反動もあって、クロムウェルの死後は議員たちの多くが王政の復活を望むようになっていて、自然に王政復古へすすみます。

   王政復古後の1685年、ジェームズ2世が国王に即位しますが、直ぐに強権的な政治を行います。すると議会も密かに動き、国王の長女メアリの夫(オランダ総督ウォレム 後のウィリアム3世)と結託し、国王を追放ます(名誉革命)。その後は、長女がメアリ2世、夫ウォレムがウィリアム3世を名乗って、2人の君主が共同統治します。

   このように、この時代には国王といえども、これまでに制定された法典などを無視して政治を行うことは出来なくなっていました。この名誉革命の時に制定された「権力章典」では、議会の許可なく国王が徴税できなくなり、議会内の言論の自由も認められるようになりました。さらに、1698年からは、新たに「王室費」が議会の承認に基づく歳費として導入され、王室財政は完全に議会の監視下に置かれるようになります。また、時代が前後しますが、1630年頃からは、枢密院から切り離されて、「内閣評議会」が国王の諮問機関として定着していき、1680年頃には今日につながる2大政党制(と言っても当初は独立派と呼ばれるどちらにも属さない議員が約半数を占めていた)が始まっています。

   1760年代から世界に先駆け、イギリス中北部のマンチェスター、バーミンガム、リーズなどの都市を中心に「産業革命」が始まります。そして、18世紀(1700年代)の終わりには、製造業と海運業だけで国民所得の約半分(48%)を占めるようになります。当然人口がそうした都市に集中するようになり、議会議員と選挙区の人口のアンバランスが生じてきます。そんな中で、後の「チャーティスト」につながる議会改革の運動が起きます。また、新興の巨大都市では、商工会議所や通商委員会などが立ち上げられ、それは全英商工会議所の設立(1785年)にまでつながり、「圧力団体」として成長していきます。同時期、国外ではフランス革命(1789年〜)と1799年ナポレオンの登場、19世紀初頭の全ヨーロッパを巻き込んだ対仏戦争へとすすみます。そして、1815年、イギリス陸軍のウェリントン将軍を司令官とする連合軍によりワーテルローの戦いでナポレオンのフランス軍を破り、勝利します。

 

   ここで、イギリスとフランスを比べると〝ある違い〟が明らかになってきます。歴史家のジョン・ブリュア(イギリス歴史学者、現在シカゴ大学教授)によれば、「イギリスの勝因はヒト(兵力)・モノ(武器弾薬・軍需物資)・カネ(軍資金)のうち、特にカネを大量に素早く集めることに成功した点にあった。とりわけ大切だったのが議会の存在であろう。議会の大半を構成する地主貴族階級こそがいざというときに戦費を土地税のかたちで調達し、長期国債の発行を裏付け、中央銀行たるイングランド銀行(1694年創設)と協力して国債を請け負ったからだ。おかげでイギリスは最後のフランスとの戦争(1793年〜1815年)に16億5790万ポンドもの巨額の資金を投入することが可能となったのである。

   対するフランスでは、身分制議会(全国三部会)はこの時期の大半開かれることもなく(絶対君主制が確立した後、1614から開かれていない)、国税を担ったのは富裕階級(教会や貴族)ではなく、政治に声の届かない平民たちだった。これでは革命が起きても仕方なかった。さらに中央銀行ができたのは1800年のことで、国債もあてにはならなかった」。

 

   ここに、フランス貴族とイギリス貴族の覚悟の違いが見て取れます。イギリス貴族の場合、自分や一族の保身だけでない、イギリス国家への献身の精神があります。これは、貴族がイギリス議会において、国政を議論し、議決するというプロセスに長く関わってきた歴史がそうさせたものと思います。時代が変わりますが、1914年からヨーロッパを主戦場として4年にわたり死闘を繰り広げた第一次世界大戦は、イギリスも初めて経験する総力戦で、社会構造をも大きく変えるものでした。これまでのイギリスの政治・経済・社会・文化を主導してきた地主貴族階級(ジェントルマン)は、この戦争で影響力を大きく減退させます。彼らは中世以来の騎士道精神に基づいた〝ノブレス・オブリージュ〟(高貴なる者の責務)に則り、戦争勃発とともにいち早く戦場に駆けつけます。そして、大半が機関銃の餌食になってしまいます。1914年だけで貴族とその子弟(50歳以下の男子)の19%近くが戦死したという記録が残っているのです。このようにイギリスの貴族とは、単に資産家で、優雅で、気取った人というイメージだけでないことが分かります。それは、〝祖国イギリスを守る〟という崇高なスピリットを持った人たちだったのてす。

※マグナ・カルタ以降のイギリスの歴史は『物語  イギリスの歴史 上・下』(君塚直隆 著)を参照する。

   イギリス貴族の崇高なスピリットに関連した内容になりますが、会田雄次(1916〜1997年元京都大学名誉教授)著の『アーロン収容所』(中公新書)という本の内容です。この本は著者自身が終戦直後から1947年5月まで、ビルマでの英軍捕虜として経験したこと、そして自身が感じ、考えたことの記録です。その中にこんな一節がありました。

 

🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹

(中公新書『アーロン収容所』P.68、69より抜粋)

 

   私たちが英軍とは士官はもちろん、兵隊とも一般的な話をすることはめったにない。会話が苦手のためこちらが話しかけないという事情によるかもしれない。しかし根本的には何度もふれたように、イギリス人自体が、日本人と話し合う、しかも兵卒と話をするというようなはしたない態度はとろうとしなかったからである。

   だが例外もある。なにかの機会に「日本人はこの敗戦をどう考えているか」とか「復讐をしないのか」(かれらはカタキウチという日本語を知っていて、かならずそれを使った)とか、「なぜ簡単に武装解除に応じたか」などと問いかけられることもあった。

   あるとき、私たちの作業指揮官の将校と英軍中尉と話がはじまった。この中尉はアメリカで働いていてハーバードを出たとかいう非常に人なつっこく感じのよい青年であった。かれは、ときおり私たちに何かと話しかけようとした稀なイギリス人の一人であった。それはアメリカにいたという経歴の生んだ気さくさだったかもしれない。私たちの将校は、

「日本が戦争をおこしたのは申しわけないことであった。これからは仲よくしたい」

という意味のことを言った。どのように通じたのだろうか。英軍中尉は非常にきっとした態度をとって答えた。

「君は奴隷(スレイブ)か。奴隷だったのか」

   楽天家らしいかれが、急にいずまいを正すような形をとったので、私はハッとした。この言葉はいまでもよく覚えている。もっともスレイブというのはそのときすぐには聞きわけにくかった。奴隷という言葉がわかったときも、「貴様らは奴隷だから人並に謝ったりするな」ということでおこったと思ったのだから、私の聞きとり能力も心細い話だ。しかし、つぎのような説明を聞いてやっと意味がわかった。

「われわれはわれわれの祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私はかれらが奴隷と戦って死んだとは思いたくない。私たちは日本のサムライたちと戦って勝ったことを誇りとしているのだ。そういう情けないことは言ってくれるな」

🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹

 

   以上、原文のままです。ここでこの中に出てくる中尉がイギリス貴族かどうかはわかりません。ただイギリスから離れたハーバード大学を出ているこというので、多分相当な資産家で貴族だろうと推測されます。なぜそう推測するかといえば、その高い授業料です。現在の大学の授業料比較になってしまいますが、2012年のカレッジボードの調査によれば、まずアメリカの大学の平均年間授業料が270万と日本に比べ倍以上高くなっています。さらにハーバード大学やスタンフォード、MITなどの名門大学は大体430万円程度と日本の大学の5倍から8倍(日本の国立で53万、私立で85万が平均)の高さです。これに生活費がプラスされます。常識的に考えてハーバードは、普通の中流家庭から入学させるのは経済的に極めて困難です。これは戦前も基本的に同じでしょう。次の余談のテーマになりますが、それはイギリスのケンブリッジ大学やオックスフォード大学も同じです。さらにハーバード大学以上に入学条件が厳しくなるので、大学院ならともかく4年生の大学に日本から入るのはまず無理です。ではなぜそんな学費に差があるのかって?それは教育の質の違いでしょう。教員は学生7人に対して1人と多く、教員もノーベル賞受賞者が圧倒的に多く、研究環境も日本の大学とは比べようもない世界最先端レベルの高さを誇っています。〝戦前にそんな大学を卒業した〟という理由で多分〝貴族〟と推測したわけです。

   この会田氏の捕虜収容所での出来事も実に考えさせる内容を持っています。

 

   こうしたイギリス人の崇高なる精神というものや論理的思考の風土はどこから来ているのでしょうか。ここからは私の推測になりますが、それは欧米社会に共通する点としてギリシャ哲学の伝統と宗教=キリスト教があると思います。ギリシャ哲学にはアリストテレスのような論理的な思考法(三段論法)が当然含まれます。こうしたギリシャ哲学は、必ず聖職者になる人は神学校で学びます。事実16世紀に日本に来た宣教師たちの記録に、日本でのキリスト教の普及活動で、日本人からの質問に答えるのにギリシャ哲学の勉強が役立ったとあります。このように聖職者や中世の時代からあったオックスフォード大学やケンブリッジ大学を出た貴族たちは、ギリシャ哲学、論理的思考の素養を当然身につけていたはずです。それからキリスト教です。当然キリスト教はその聖書(新約聖書)によって普及をしています。聖書はさまざまな使徒による書簡で構成されていますが、パウロが中心的な存在です。パウロはキリストを直接知らないキリストの死後信者となった人ですが、自身の思想を書簡という形で残し、聖書の作成に大きな役割を果たします。キリスト教の聖書は言ってみれば、パウロの思想をベースにした哲学の書といっていいでしょう。その思想のベースには〝愛〟があります。パウロの書簡『ローマ人への手紙』にこんな一節があります。

 

    愛には偽りがあってはなりません。悪を忌みきらい、善から離れてはなりません。互いに兄弟愛をもって心から愛し、競って尊敬し合いなさい。熱心でたゆまず、心を燃やし、主に仕え、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りに励みなさい。聖なる人々の貧しさを自分のものと考えて力を貸し、手厚くをもてなしなさい。あなたがたを迫害する者の上に祝福を願いなさい。祝福を願うのであって、のろいを求めてはなりません。喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々の仲間となりなさい。自分は賢い者だとうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべて人の前でよいことを行なうよう心がけなさい。できることなら、あなたがたの力の及ぶ限り、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する皆さん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は言われる。『復讐はわたしのすること、わたしが仕返しをする』」と書かれているからです。しかし、次のようにも書かれています。「敵が飢えているなら食べさせよ、渇いているなら飲ませよ。そのようにすることで、あなたは敵の頭に燃える炭火を積むからである」。悪に負けてはいけません。むしろ善をもって悪に勝ちなさい。

【新約聖書(フランシスコ会聖書研究所訳)サンパウロ発行  改定16刷  P.562、563】

 

   こうした愛をベースとした哲学の書である聖書の一節を、牧師(カトリックの場合は神父)が毎週日曜日に教会に集まった信者に対して切々と話し、終わりに賛美歌を歌う習慣が中世の時代から今日まで続いてきました。週1回教会で話を聞くことは、少なくとも週1回〝今の自分を見つめ直し〟あるいは〝兄弟愛からの他の人々への貢献〟など、気持ちを崇高なものにさせたでしょう。それを幼い頃から年老いて死ぬまで続けるのです。そのことが人格形成に影響を与えないはずはありません。そういう風土がヨーロッパには共通してあったということです。そしてイギリスは議会が他の国よりしっかりと着実に根づいていったこと。そのこがイギリス人の論理的思考能力を高め、〝イギリスの国をどうするか〟という政治の世界に身をおくことで、祖国を愛する気持ちにもつながり、崇高なる精神をも高めていったのてはと思っています。

   それから、イギリスのジェントルマン・シップ、騎士道精神には、日本の武士道精神に共通する〝名誉を重んじる〟という点がもともとありました。イギリスで貴族になろうとしてなれなかった人物を主人公にした『バリー・リンドン』というスタンリー・キューブリックの映画の中に〝決闘〟のシーンが出てきますが、貴族と言えども名誉を傷つけられたら第三者を立ち会わせての決闘ということも時にあったのです。決闘は受けたら〝逃げられない〟という点で傭兵中心の戦争より遥かに恐怖です。日本の場合も関ヶ原の戦いで西軍、東軍それぞれ7、8万の軍勢がいても実際戦ったのは全体の半数以下です。大半は様子見で、形成不利となったらほとんど逃げています。そう、戦争、合戦は〝逃げる〟という手段があります。しかし決闘にそれはありません。決闘の結果は、(勝って)生きるか、死ぬか、カタワになるかの3つしかないのです。そうした決闘という形での貴族同士の戦いも、イギリスの歴史の中にはあったのです。

 

   今回のテーマは以上になります。今回の内容はどちらかといえばイギリスの〝光〟の部分になります。イギリスにも当然〝陰〟の部分もあります。それは〝略奪国家〟としての歴史です。それについては改めて別の場で触れたいと思います。

                                                                                 

 

   「余談」ということで書き始めましたが、1万5000字を超えてしまいました。自分でも分かっていながら、ついつい凝ってしまって長くなってしまいます。どうもこのパターンは簡単に変えられそうにないですね。

   さて、現在私のブログは二つのシリーズがあります。「♨️黒川温泉に学ぼう」と「私の『137億年の物語』」です。平行して投稿していくつもりでしたが、やっぱり私はそんな器用な人間ではありません。どっちかに絞って終わらせてからでないとダメですね。そんな訳で、「私の『137億年の物語』」はしばらくお休みして、今度はシリーズの最終回になっている「♨️黒川温泉に学ぼう」に着手します。こっちも話がどんどん広がってしまって「日本の観光業をどうするか」といったような内容にまで至って、話をまとめるのに手こずっています。こちらもまとめるのに1ヶ月位かかりそうですが頑張ります。